相木市兵衛(依田能登守・依田市兵衛)の解説~武田家臣(わかりやすく1分で紹介)

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相木市兵衛とは

相木市兵衛(依田能登守、依田市兵衛) (?~1589年)

相木市兵衛は、いつ頃か不明だが相木氏の家督を継いだと考えられ、戦国時代の1562年、第4次・川中島の戦いでは別働隊として戦功があり武田信玄より依田能登守の名を与えられた。そして田口城主。

1556年には山県昌景の娘婿となり、1571年4月には野田城攻めにも参加している。

1581年の徳川による高天神城攻めの際、篭城した武田勢の仲に依田能登守隊として依田立慶・依田木工左衛門・依田部兵衛・大子原某・川三蔵・江戸力助の名が見られる。

武田滅亡後には上野・厩橋城に入った徳川勢の滝川一益家臣となったが、本能寺の変のあと徳川の下で信濃を治めようとした同族の依田信蕃(蘆田信蕃)に反発するかたちで、真田や望月、大井、岩尾らと共に北条氏に属した。


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北条と徳川が武田の旧領をめぐって対立すると相木氏は田口城に籠り北条氏を支援する。しかし、北条が徳川と和睦し相模へ引上げると、徳川に従っていた同族の依田信蕃(蘆田信蕃)に田口城・相木城を攻められ、北条家を頼り上州に逃れた。

1589年、同じく依田信蕃に追われた伴野貞長らと共に、旧領復帰のため佐久・相木にて挙兵するが、依田信蕃の子で小諸城主・松平康国(依田康国、又は芦田康国)との木次原の戦いで再び敗れて関東へ去る。(討死とも)

松平康国は父・依田信蕃の功績が認められ、徳川家康より松平の姓を与えられ、松平源十郎康国と名乗り小諸城6万石の大名となった。

なお、上記に2人の相木氏について記載したが、相木昌朝と相木市兵衛は共に相木市兵衛を称されていることから、昔からの史料でも混同されており注意が必要である。
また、この相木市兵衛と相木昌朝(相木昌友)は同一人物と言う可能性や、養子、同じ相木一族であった(親戚や兄弟?)と言う点も捨てきれない。

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