明石全登とは【大坂の陣のあと行方知れずとなった謎多き武将】

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明石全登

明石全登(あかし-てるずみ)は、1618年?に、備前・保木城主の明石行雄(明石景親)の子として生まれた。
この備前明石家(美作明石氏)は、守護大名・赤松家の末裔であり、銅山経営や技術統率も行っていた一族となる。

父・明石行雄は、天神山城主・浦上宗景に仕えていたが、1575年9月の浦上家が滅亡した際には、宇喜多直家に呼応して寝返った。
こうして明石行雄は弟・明石景行と共に、岡山城主である宇喜多直家と宇喜多秀家に仕え、1588年には40000石となり、諸大夫(従五位下)になった。


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なお、子の明石全登も父がまだ存命中の間に、家督を継いで、和気郡大俣城(大股城)主して、宇喜多家の家老となった。
一般的には明石全登と言う名で知られるが、明石景盛(あかし-かげもり)、明石守重(あかし-もりしげ)と呼ばれることもある。通称は明石掃部(あかし-かもん)、明石掃部とも言う。
正室は宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)とされ、5人の子に恵まれた。
また、宇喜多詮家(坂崎直盛)に勧められて明石全登も1595年頃からキリスト教を信仰していたとされる。洗礼名はジョアン。(洗礼名も諸説あり)

1596年には、二十六聖人を長崎まで護送する役目も明石全登が担当した。

1599年、宇喜多家でお家騒動(宇喜多騒動)が勃発し、執政(家宰)・長船綱直(長船紀伊守)が暗殺されると、関与した戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成の4重臣が出奔。

そのため、33000石の明石全登が執政となって、宇喜多家をかじ取りする事になった。
また、宇喜多秀家の岳父となる太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行をあてがわれて、合計10万石となっている。

1600年、石田三成関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家に従って明石全登も参戦。
前哨戦では小早川秀秋毛利秀元吉川広家小西行長長宗我部盛親長束正家鍋島勝茂大谷吉継らと4万で、鳥居元忠が籠城する伏見城を陥落させた。
 
9月14日の杭瀬川の戦いでは、石田三成の家老・島清興(島左近)と共に中村一栄を打ち破り、野一色助義を討ち取り、有馬豊氏にも大打撃を与えた。

そして、9月15日、関ヶ原の戦いの本戦では、松平忠吉井伊直政が宇喜多隊へ発砲した事により火蓋が切られた。
明石全登は宇喜多勢の約半分8000を率いて先鋒を努め、福島正則を相手に巧みな鉄砲戦術により善戦した。
宮本武蔵も明石隊に加わっていたとされるが、小早川秀秋の裏切りをを受けて大敗。 
明石全登は、敵陣に突っ込もうとした主君・宇喜多秀家を諫めて、大坂城へ退くように進言すると、殿軍を務めているが、この時、黒田長政勢と遭遇したとも言われている。

なお、明石全登は無事に関ヶ原から逃走したが、石田勢を攻めていた田中吉政の娘婿という説もあり、明石全登の親族である黒田長政と田中吉政が、共に逃走を手助けしたとも考えられている。

その後、岡山城まで退いたが、城がすでに荒らされており、宇喜多秀家とも連絡が取れなかったため、そのまま逃亡した。
※宇喜多秀家は薩摩へ逃れ、その後八丈島へ流刑となった。


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浪人となった明石全登は、明石正風の娘(小寺政職の養女)を母に持つ、キリシタン大名・黒田官兵衛(黒田如水)に保護を受けていたとも言われ、黒田官兵衛の弟・黒田直之の元に身を寄せていたとされる。
1604年に黒田官兵衛が死去すると、柳川藩の田中忠政を頼ったとされるが、当時、既に黒田家はキリスト教を捨てているが、明石全登は生涯キリスト信者であるため疑問点も多く、関ヶ原以降の放浪については諸説ある。

1614年、徳川家康大阪城攻撃が現実味を帯びてくると、豊臣秀頼淀殿の招きを受け、大勢のキリシタンと共に大阪城へ入った。
これは、迫害されていたキリスト教のためと、八丈島に流されていた宇喜多秀家を解放するためとされている。
洗礼名モニカと母と、カタリナと言う息女なども入城し、傷病兵の看護をしたと言われている。

1615年、大阪夏の陣
後藤又兵衛(後藤基次)が討死した道明寺の戦いでは、明石全登は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦すると、相手を混乱させ、伊達政宗と神保相茂の同士討ちを引き起こしたが、明石全登も負傷した。
天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷の家臣・小倉行春と共に300余名の決死隊を率いて、徳川家康の本陣突入を狙った。
しかし、豊臣秀頼の出馬中止で作戦は破たんし、真田信繁(真田幸村)らが壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直本多忠政藤堂高虎らの包囲網を突破して戦場を離脱した。

その後の動向であるが、徳川実記、土屋知貞私記、石川家中留書など徳川側の家伝では、明石全登は水野勝成の家臣・汀三右衛門又は石川忠総に討ち取られたとあり、大坂御陣覚書、大坂記などでも討死したとある。
しかし、大村家譜、山本豊久私記などでは、嫡子・明石内記と共に九州に落ち延びたとあり、戸川家譜、武家事紀では南蛮(スペイン・ポルトガル)に逃れたとある。
備前・和気郡に潜伏したともされ、実際に江戸幕府は「明石狩り」をするほど、噂を恐れていたようだ。

なお、1615年7月27日、捕縛された明石全登の親戚・岡成定と、その子の岡忠兵衛は徳川側により切腹となっている。


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また、明石全登のご子孫と言う一族の話では、大阪落城後に仙台の伊達政宗に保護され、その後、幕府の目が厳しくなると、津軽信枚の保護を受け弘前城内にて匿われ、1618年(元和4年)に病死したとされる。

※明石全登(あかし-てるずみ)の読みかたは、他にも「たけのり」「なりとよ」「いえのり」などが伝わっている。

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