美濃・明知城と千畳敷砦にある光秀産湯の井戸~明智光秀誕生の地なのか?


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美濃の明知城(あけちじょう)は別名を白鷹城(しらたかじょう)とも言う平山城です。
標高は528mですが、麓との比高は80mほどですので、そんなにキツクはありません。

源頼朝の重臣・加藤景廉が明知を含む遠山荘の地頭に任ぜられたとあります。
この加藤景廉(かとう-かげかど)は、平家の武士を斬り殺したため、本貫の伊勢を離れて、伊豆の豪族・工藤茂光の世話を受けていたようです。
そして、源頼朝が伊豆で最初に挙兵した時から従っており、山木館襲撃の際に山木兼隆を討ち取った功績を挙げた御家人が加藤景廉と言う事になります。

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その加藤景廉の長男で岩村城主の加藤景朝は地名をとって遠山景朝(とおやま-かげとも)と称し、遠山氏の初代となりました。
遠山左衛門尉景朝の子である遠山景重(遠山三郎兵衛景重)が、鎌倉時代の1247年に明知城を築城し、明知遠山氏(あけちとおやまし)の始祖となりました。

すなわち、遠山氏の宗家は、岩村遠山氏で、支族は明知遠山氏の他にも、苗木城を本拠とした苗木遠山氏がおり、「三遠山」(遠山三頭)と呼ばれました。
この3頭は主要な分家で、遠山七頭(七遠山)と言うように、遠山氏は7流に分かれています。

明知城

明知城はこのように明知・遠山氏の本拠でしたが、戦国時代に入ると、遠山景行のとき、1572年に武田信玄が西上作戦を取ります。
この時、東美濃に侵攻したのは武田家臣で飯田城主・秋山信友で、岩村遠山氏の岩村城を落とすと苗木城だけでなく、明知城も攻略しました。

1572年12月28日、明知城主・遠山景行は、ほかの遠山氏や小里氏、さらには徳川勢(奥平氏、戸田氏、足助城の鈴木氏など)の援軍を得て、総大将として秋山信友2500と、上村の戦いに挑んでいます。
この上村合戦では、兵力を集中できずに遠山勢は敗れ、小里光次・串原右馬介経景などと遠山景行は討ち死にしました。

土盛砦としてり保塁数は大小23箇所あると言い、地形を巧みに利用していると言う印象を受けます。
下記は明知城の貯水池と案内があります。

反対側から貯水池も撮影してみました。

まぁ、写真だと、どうしてもわかりにくいのですが、ひとつの窪みではなく、窪みの真ん中にあぜ道のような人工的な区切りがあり、2つに分かれています。
単純に考えて、障子堀(畝堀)とみて良いのではと存じます。障子堀(畝堀)は雨が降れば、池のように水が溜まったと言いますしね。

豊臣秀吉のもとで大活躍する加藤嘉明も、遠山氏の祖である加藤景廉と同じ加藤一族です。
下記は明知城の出丸です。

出丸の手前には、わずかですが石垣も残されています。

どの遠山氏の一族かは不明ですが、他にも遠山と名乗った武将としては、遠山河内守(とおやま-かわちのかみ)と遠山甚太郎(とおやま-じんたろう)がいますが、ともに生没年は不詳です。
両人とも織田信長の馬廻だったようで、1560年5月19日の桶狭間の戦いに、織田勢として参加したとあります。
いよいよ、本丸が見えてきましたが・・。

本丸に上がる前に、二の丸に出るような感じになっていてます。

そして、虎口を上ると・・。

美濃・明知城の本丸にでました。

本丸は平坦と言うよりは少しデコボコしていますので、建物は無かった?のかも知れません。
また、展望も良いとは言えません。

明知遠山氏は江戸幕府の旗本として存続しており、江戸の町奉行として有名な、遠山景元(遠山の金さん・遠山金四郎)は、明知遠山氏の分家の子孫となります。

明知城は遊歩道も比較的整備されていて、空堀や土塁、石垣が見られます。
龍護寺側からが大手口となるようですが、いくつか登城口はあります。

今回、明知城へは歩く距離が一番短くて済むコース・搦め手から登城させて頂きました。
無くても大丈夫ですが、一部、山道・坂道もありますので、トレッキングポールがあると無難です。

下記の地図ポイント地点となる、県道33号から旧道に入った終点に10台ほどの駐車スペースがあります。
地図は縮尺を変えてよくご覧願います。

上記からの登城口は下記のような感じ、ここからだと本丸まで約100m、徒歩8分といったところです。

明知鉄道の終点「明智駅」からだと麓の登城口まで徒歩20分となります。

毎年5月3日には「光秀まつり」が開催され、武者行列も行われるそうです。

明智光秀は、一般的に岐阜県可児市のほうの美濃・明智城、土岐一族の明智氏出身とされていますが、遠山氏の出身説は、明智秀満の父・明智光安が美濃・明知城主である遠山景行と同一人物だとする説で、それを参考に遠山景行の子・遠山景玄が、明智秀満だとしております。
この遠山景玄は1572年の上村合戦で討死したとされており、矛盾点もありますが、遠山景行の妻が三河・広瀬城主の三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだとも考えられます。
このように単純にシンプルに考えれば、明智光秀はこの明知城付近の出身、または明知・遠山氏の一族とも考えることもできます。
そのため、この明知城周辺にも、明智光秀の存在を思わせる遺構がいくつかありますが、現地を訪問しても、確信を得るまでには至りませんでした。

龍護寺

明知城の北西山麓に明智遠山家の菩提寺・龍護寺があります。

龍護寺の創建は不詳ですが大永元年(1521年)には、塔仙坊に楞厳院という草庵が存在しており、柏庭和上が住んでいたと伝わります。

明智城に復帰した遠山利景が、1596年に自らの墓所として定め、明知城の守護とするため寺号を龍護寺に改めさせ遠山家の菩提寺としました。

本堂から左手に進むと、遠山利景から歴代遠山氏の墓が並んでいます。

遠山の金さんの墓もあるようです。

下記ですが、右が上村合戦で討死した遠山景行の墓、左が明智城に復帰した遠山利景の墓です。
遠山景行の墓は、車で10分ほどの安住寺に妻・安住尼の墓と共にありますので、そちらが本物なようです。

また、龍護寺の駐車場北側・龍護寺の入口右手には明智光秀の供養塔があります。

伝承によると、明智光秀にゆかりある明智遠山家に、明智光秀の家臣を名乗る落武者が訪ねてきて、主君の供養を乞うて、明智光秀愛用の直垂を残して去ったとあります。
なお、龍護寺にある明智光秀の供養碑も、高野山にある明智光秀の墓と同様に「ヒビ」が入っているそうですが「願いが割れる」と言う事で、石にヒビが入っていると説明にあります。

龍護寺の駐車場は下記の地図ポイント地点となります。

城下町のほうから道を入っていくと、結構狭いので車はご注意願います。
次は、明知城の支城「千畳敷砦」です。

千畳敷砦

明知城から南にある城下町を隔てて、明智城の支城となる千畳敷砦(落合砦)があります。
現在、千畳敷公園となっており、山の上に大きなグランドもあります。

なお、明智町を見下ろす崖の上が砦になっており、下記の通り明智光秀が産湯を取ったと伝わる井戸「明知光秀産湯の井戸」があります。
深さは16mもあるそうです。

また、井戸の近くには「日向松」と呼ばれる松が古くからあったと言われます。
この千畳敷砦は、千畳敷と言うくらいですので、広い平坦な場所があり、天正年間(1573年~1592年)には明知城主・明知遠山氏の一門となる串原経景(串原五郎経景)の屋敷があったと伝わります。

串原経景と言うと、串原城の串原遠山氏(くしはらとおやまし)と言う事になりますので、遠山経景と呼ばれてもおかしくはないでしょう。

1572年12月の上村の戦いでは、串原遠山右馬助と串原遠山五郎教景が秋山虎繁と戦っており、串原遠山右馬助が討死しています。
そのあと、1574年、長篠の戦いの前に、串原城は落城し、遠山経景が明知城主・遠山利景の客分になったとあります。
そして遠山経景(遠山五郎右衛門経景)は明知遠山氏の元で活躍し、明知遠山家が徳川旗本として存続するのに貢献したため、遠山経景(串原経景)は、吉良見村と猿爪村に500石を受けて、落合砦(千畳敷砦)の麓に屋敷を構えたとされています。
その後、吉良見村にて元和18年(1662年)没しました。
ご子孫は永田に改姓していますが、明知陣屋の家老として幕末まで存続しています。

伝承とはいえ、光秀産湯の井戸があると言う事は、遠山経景(串原経景)が千畳敷砦を任される前の遠山一族が、明智光秀の実父と言う可能性も出てきます。

落合砦(千畳敷砦)への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点に20台ほどの駐車スペースと公衆トイレがありました。
井戸跡はその駐車スペースから一段上がった公園化部分にあります。

公園の高所へと繋がる舗装道を歩くと、明智町が良く見える展望部分に出ます。
明知城も良く見えますよ。

なお、明知城や千畳敷砦のある明智町は「日本大正村」として観光客誘致を図っています。
大正村は、入園料が必要な区画となっているテーマパークと言う事ではなく、明智町(かつての城下町)に、大正時代を中心とした古い建造物がいくつも残されていることから、保存活動を行い観光の目玉としています。

大正浪漫館、日本大正村資料館、大正時代館の3施設に入館する場合だけ共通入場券が必要です。

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