田原親宏 田原親貫 戦国武将解説

安岐城

田原親宏(たわら-ちかひろ)は戦国時代の武将で、田原親述と、佐伯惟勝の娘の間に生まれました。
田原家は大友家の庶家でも、最も有力な大友一族です。
そのため、大友義鑑・大友宗麟(大友義鎮)からは警戒され豊後を追放され、1543年には大内義隆を頼っています。

二階崩れの変で大友義鑑が死去すると大友宗麟から許されて、国東郡安岐郷や国東郷政所職に復帰。
その後、戸次鑑連・田北鑑重・志賀親度らとともに秋月家の本拠・古処山を攻めて、秋月文種を敗死させるなど、大友家の主な合戦に参加して活躍しました。


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1557年、大内義長毛利元就に敗れると、豊前などの制圧に貢献。
その後、九州に進出した毛利家とも何度も戦い、1567年には大友宗麟より戦功を賞され、1568年には高橋鑑種を攻めました。

しかし、大友宗麟は引き続き田原親宏を警戒します。
そのため、田原親宏の所領を取り上げると武蔵田原氏という庶流の田原親賢を加判衆に登用し、田原本家の勢力分裂を図ろうとしました。

この田原親貫(たばる-ちかつら)の父は豊前長野氏の一族か長野助盛とされます。
田原家に入り軍勢を率いて、1578年11月、耳川の戦いに参戦しました。
しかし、大友勢は島津家に大敗します。


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この時、所領を取り上げられていた田原親宏は鞍掛城の城番を務めて、毛利家対策などしっかり務めていました。
でも12月に臼杵に出陣していた田原親宏が、国東に帰郷して安岐城に入ります。

安岐城

これが、大友家を出奔したとも、謀叛ともされ、大友宗麟は田原親宏に対して安岐城を田原親貫(田原紹忍)に返すよう迫りました。

この事件の背景には、田原親宏の勢力削減を狙う大友家の思惑と、それに対して不満を持つ田原親宏の行動があったものとなります。
田原親宏は大友家から離反した秋月種実・高橋鑑種らに同調して大友家と一戦を構える姿勢を見せました。
しかし、1579年9月16日、挙兵直前に病に倒れた田原親宏は死去します。

そのため、大友宗麟は田原親貫(田原紹忍)と謀って、田原親宏の次女と結婚させ、田原親貫(田原紹忍)に田原家を継がせました。

しかし、田原親貫は大友宗麟の次男・大友親家を田原宗家に迎えると言う密約が、亡き田原親宏と間にあったこと知ります。
そのため、毛利家の支援を受けて、大友家に対して謀反を起こしました。
田原親貫は軍船を率いて 府内攻撃を計画しましたが、嵐で上陸できず退却したところを、豊前では田北紹鉄が大友家を見限り熊牟礼城に立て篭もり、宇佐社官衆など多くの者が大友家から離反しました。
この時、宣教師らは今謀反が起これば大友家はすぐに倒れると述べているほど弱体化しており、田原親貫が府内に上陸していたら、大友館は危なかったとされています。
そのため、大友宗麟は嫡男・大友義統に和平交渉をさせましたが合意に至らず、田原親貫は安岐城と鞍懸城の防備を固め、豊後高田城には柴田礼能を入れ、大友軍を待ち受ける準備を進めました。


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1580年2月、大友宗麟はこの2名の謀反を討つべく、大友義統を速見郡へ出陣させ、大友親家と柴田礼能を雄渡牟礼城に配置。
当時15歳だった吉弘統幸は、屋山城を堅固に改修して大友家を支援しています。
大友宗麟自らは田北家内部の切り崩しを行い、日出荘の辻間村に布陣しました。
そして、4月に田北紹鉄の熊牟礼城を包囲します。
田北紹鉄は抵抗することなく、田北統員の家督継承を条件に降伏し、熊牟礼城は無血開城となりました。

安岐城への攻撃は7月から開始されますが、安岐城には海上から物資が補給されていたため、大友宗麟は伊予の村上水軍にも援軍を求めています。
田原親貫(田原紹忍)は毛利家に救援を求めており、毛利水軍の援軍が駆けつけますが、大友勢は8月10日にこれを撃退。8月20日にも数十隻の毛利水軍を豊後水軍が迎撃しています。
10月6日、ついに安岐城は降伏し、田原親貫は鞍懸城に移った(もしくは最初から鞍懸城にいた)ようです。

安岐城

吉弘統幸による鞍懸城の小屋破却、古庄鎮方の家臣・河野弾正忠の奇襲が成功し、鞍懸城も徐々に追い詰められます。
田原親貫は豊前の城井氏、一族の長野氏らに救援を求めましたが、田原親賢・佐田鎮興の大友軍により迎撃され、国東に近づけませんでした。
頼みの綱だった秋月種実はこの敗北を知ると、軍勢を戻したため、10月11日、万策尽きてついに鞍懸城が陥落しました。


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田原親貫の最後には諸説ありますが、安岐城を枕に討死したとも言われています。
他の説では鞍懸城落城の際に自害、または秋月種実を頼って逃亡したがその途中に宇佐郡善光寺村の時枝氏によって殺害されたなどあります。
大友宗麟も田原親貫の死を確認できなかったため、捜索を命じています。
なお、田原親貫は19歳くらいだったとされ、妻・田原親宏次女も、鞍懸城にて病死したと伝わります。

いずれにせよ、田原家の嫡流は断絶し、大友宗麟の子・大友親家が田原親家と称することになりました。

なお、大友親家(田原親家)は、1593年に大友家が改易されると立花宗茂に預けられました。
その後、1609年、小倉城主・細川忠興に100石30人扶持で客分として仕え、利根川道孝(とねがわ-みちたか)と改名しました。
この子孫は熊本藩士として明治維新まで存続しています。

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