秋月種実~大友氏に真正面から立ち向かった九州の反骨武将~


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戦後時代、筑前秋月(現・甘木地方)を治めた秋月種実(あきづき-たねざね)という戦国武将がいた。
北部九州の諸豪族が大友氏になびくなか、頑なに「反大友」を貫き、名将として名高い立花宗成や戸次鑑連に「油断のならない男」と評された人物。
一癖も二癖もある北九州の反骨武将・秋月種実とはどんな人物か、見ていこう。

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◆九州の名門・秋月氏
秋月氏は、九州でも名門の豪族である。藤原純友の乱で西国に派遣された大蔵春実の末裔で、秋月氏の3代種家は、蒙古軍が九州の地に再来襲した弘安の役で武功を挙げる活躍を見せている。

北部九州といえば貿易都市・博多の存在を忘れてはならないだろう。
古来より、博多は対外貿易の拠点として繁栄し、この地に多くの富をもたらした。
海外から豊な物産や魅力ある宝物が入ってくれば、戦国武将たちの収入源となり、力の源泉となる。
そこに目を付けたのが西国の雄・大内氏と、豊後を本領とする大友氏である。
戦国初期の秋月氏は大内氏の勢力下にあったが、それは同じ九州の大豪族である大友氏の侵攻を食い止めるための「遠交近攻」つまり外交政策上の側面もあったといえる。

◆父・文種の存在
秋月種実の父・文種には興味深いエピソードがある。
博多を巡り、長年の対立抗争が続いた大内氏と大友氏だが、天文七年(1539年)、室町幕府将軍足利義晴の勧告により、大友義鑑と大内義隆が和解したと『甘木市史』にある。
そのとき、両者が和睦工作で大きな働きをしたのが、他ならぬ秋月文種であったという。
足利将軍という権威を巧みに利用して地域の安定を図る、小大名ならではの政治センスといえるだろう。

その文種も、大友氏の腹心である戸次鑑連の軍勢に攻められ、家臣である小野九郎右衛門の裏切りにも遭うという不運もあり、悲劇の最後を遂げる。
息子の種実は、家臣の機転もあり、巧みに秋月城を脱出して周防の地に逃れる。
そして、大内氏に取って代わった毛利氏の庇護を受けつつ、反大友勢力を糾合して捲土重来を期すのである。

◆大友軍を撃破、秋月36万石の大名に
北部九州は名将・高橋鎮種や戸次鑑連らの活躍もあり、大友氏が大きな勢力基盤を築くに至る。
しかし、西の龍造寺、南の島津という二大勢力との争いを続ける中で、その勢威も次第に陰りを見せ始める。
また、当主となった大友義鎮(宗麟)は、酒色に耽り、キリスト教を重んじて神社仏閣を破壊するなど、人格や思想において統治者としての資質を欠く面があった。
盤石だった大友氏の支配が揺るぐ中で、毛利氏や島津氏のバックアップを受けた秋月種実が、お家再興を果たしてにわかに台頭してくる。

永禄九年(1566年)、岩屋城と宝満山城を預かっていた高橋鑑種が大友氏に反旗を翻した。
この動きに敏感に反応した種実は、大友一族を瓦解させる好機と捉え、鑑種軍に歩調を合わせる。この辺の抜け目のなさはさすがといっていい。

対する大友軍は、戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速など錚々たる顔ぶれが揃い、秋月種実がこもる秋月城に猛攻を加えた。
とくに勇猛で知られる戸次軍の圧迫は凄まじいものがあったが、種実率いる秋月軍も負けてはいない。
夜明け前に始まった戦闘は、日没までに槍合わせを七度も繰り返すほど、熾烈を極めた。
しかし、戦にかけては百戦錬磨の鑑連の前に劣勢となり、種実は秋月城を放棄して難攻不落の要塞・古処山城に退却、軍勢の建て直しを図った。

この頃、毛利氏が大軍を率いて大友勢を急襲するという報が入って来た。
中国地方から大友の本拠・豊後までは豊後水道を隔てたわずかな距離しかない。
背後を突かれることを恐れた大友軍は急ぎ兵を撤退。
秋月種実はこの機を逃さず、大友勢が筑後川まで軍を引いたところで、城を発して追撃に向かった。

秋月軍一万二千は手薄になった大友勢の休松本陣を急襲。
しかし戦巧者の鑑連はこの動きを事前に把握し、伏兵を忍ばせて秋月軍を迎え撃つ。
大挙して攻め寄せた種実率いる秋月勢と鑑連の軍が激突し、休松は大混戦の様相を呈す。
戦いはほぼ互角に終わり、種実はやむなく古処山城に引き上げた。

秋月種実は、大友軍を追い詰めながらも敵軍大将である鑑連の首を取れなかったことがよほど悔しかったのだろう。
その日の夜、記録的な豪雨が九州を襲った。これを「またとない夜襲の機会」と捉えた種実は、疲れ切った兵を鼓舞し、吉弘・臼杵の陣めがけて突入した。
敵方をさんざん蹴散らした後、戸次の陣にも夜襲をかけ、大いに暴れ回った。この豪雨の中思いもよらぬ秋月軍の奇襲に大友軍は大打撃を受け、「臼杵、吉弘の軍勢は大混乱となり古処山中に逃げ込む者、長谷山・甘水から楢原、隅江と退く者」もあったという。
(『筑前国続風土記』)まさに蜘蛛の子を散らすように、戦意を失い逃げ惑う大友兵の姿がそこにあった。

この戦いで大友氏の権威は見る影もなく失墜した。
筑紫・宗像・麻生などのお国衆はここぞとばかりに反乱の狼煙を上げ、一門衆である立花鑑載までが毛利氏と通じて反旗を翻した。
秋月種実の使者を受けた毛利もまた挙兵し、門司をかく乱するなど北九州は混戦模様と化した。

立花鑑載の反乱は名将・鑑連によって手際よく鎮圧されたが、大友義鎮は種実に奪った領地を返上し、和睦を申し出る以外に態勢を立て直す道はなかった。
秋月種実は大友軍をさんざん打ち負かしたことで、若干23歳の当主でありながら、「九州に秋月種実あり」の印象を強く残した。
それどころか、この戦いにより筑前・筑後・豊前にまたがる十一郡36万石の大名に上りつめたのである。

◆調略、奇襲…。多彩な戦いぶり
三十六万国を手に入れてからも、種実の野心と反大友の動きは留まるところを知らない。
立花城を守る戸次鑑連、岩屋城と宝満山城の防備を一任された高橋鎮種、そして鑑連に婿入りして立花城に入城した鎮種の実子・立花宗成らと幾度となく小競り合いを繰り広げている。

天正八年(1580年)、種実は調略を用いて高橋鎮種と家臣の切り崩しを試みる。
高橋鎮種には北原鎮久という股肱の老臣がいたが、種実は彼のところに密使を送り、「近く大宰府に出兵する。その折りは城に火をかけ、主君を討ち果たしてほしい。
恩賞として、岩屋城か宝満城のどちらかを与える」と持ち掛けた。鎮久はこの誘いに乗り、密かに計画を立てたが、露見して鎮種に誅殺される。

この離間工作は失敗したが、種実はあきらめず、天正九年(1581年)、新たな調略を仕掛ける。
大友方の豪族で、井上城(福岡県浮羽郡)を守っていた問注所鑑景を篭絡して味方に引き寄せる。
この報を聞いた同じ問注所一族の統景は、義鎮に「鑑景を攻めるから援兵を送ってほしい」と要請、義鎮の援軍とともに井上城に向かった。
大友方の城が、内紛によって大友軍に落とされるよう導く謀略である。

結局、井上城の攻撃は義鎮の鶴の一声で中止となったが、同じく援軍に駆け付けた戸次鑑連と高橋鎮種の軍は帰り際に秋月城を攻撃。
この挑発に乗った種実は軍勢を率いて追撃を試み、戸次・高橋軍と石坂の地で激突。
この戦いに初陣として参戦した立花宗成の働きもあり、秋月軍は敗退した。

また、『名将言行録』によると、ある日、種実がお忍びで博多の歌舞伎芝居を見物に出かけた。
この情報を探知した戸次鑑連の家臣が主君に向かって、「私に任せて頂ければ、芝居見物でうつつを抜かす種実を討ち取ってごらんに入れましょう」と進言した。
これに対し鑑連は「そうたやすく討ち取られるほど、種実は甘い男ではない」と家臣をたしなめたという。
あの武田信玄をして「会って教えを乞いたい」と言わしめた鑑連が慎重になるほどだから、種実という男がいかに生半可な武将ではなかったことが伺い知れるだろう。

◆秀吉の前に屈服…。
九州で島津や大友が覇を争っていた頃、全国では豊臣秀吉による天下統一が進んでいた。
島津が降伏しないことが分かると、秀吉は大軍を差し向けて九州平定の準備に取り掛かった。
島津の庇護を受けていた種実も、「秀吉何するものぞ」と全く相手にしない。
しかし、この種実の時勢眼のなさが、秋月氏の栄華を失わせることになる。

36万石を抱え、絶頂にあった種実を唯一諫めたのが、家臣の恵理暢尭だった。
恵理は、自ら使者を願い出て、秀吉側の軍容がいかほどか、探索に出向いた。
広島で秀吉と面会した恵理は、その威容と軍備の充実ぶりを目の当たりにし、たちまち忠誠を誓った。
「秋月が九州で生き残るには、島津を離れて秀吉に降伏するしかない」と判断したのである。

秋月に戻った恵理は秀吉に潔く降伏し、領土を安堵してもらうよう進言するが、種実はそんな家臣を「卑怯者」と激しく罵り、満座の前で恥じをかかせた。
直情一本気な恵理は、死でもって主君を諫めようと妻子とともに自害して果てる。
福岡県朝倉市には、恵理が切腹した場所とされる巨岩が『恵理暢尭腹切り岩』として今も残されている。

恵理の思いもむなしく、種実は秀吉軍と戦端を開き、自滅の一歩を踏み出す。秀吉は蒲生氏郷前田利長に命じ、古処山と並ぶ要害の城といわれた岩石城を攻撃。
たった一日で落としてみせた。岩石城には秋月の中でも勇猛で鳴らす隈江越中と芥田六兵衛が兵三千を率いて守っていたが、武力の差をまざまざと見せつけられた格好となった。

疾風怒涛の勢いで迫る秀吉軍の前に、種実はたまらず益富城を破却、天下の要衝・古処山城にて防備を固めた。
一夜明けて古処山城から覗いてみると、そこには驚愕の光景が広がっていた。
壊したはずの益富城が、もとの姿のまま見事に復元されていた。実は城の白壁は奉書紙を貼って白く見せかけただけで、実際に一から復元したわけではない。
戦国時代においては誰でも用いていた仕掛けだが、田舎武士たちには秀吉が超能力者のように見え、瞬く間に戦意を喪失し、逃げ惑った。
大将の種実も城内の混乱を収拾しきれず、こうとなっては秀吉に降参せざるを得なかった。

◆井の中の蛙過ぎて、時勢を見抜くセンスに欠けた…
大友氏をあれほど苦しめた種実も、しょせんは「井の中の蛙」だったのかもしれない。
36万石の所領は、自らの力だけで勝ち取ったわけではなかった。
そこには、毛利氏や島津氏の助けもあったし、失政続きで民心離れも加速する大友義鎮自身のオウンゴールもあった。
その状況分析もできず、秀吉の実力を見誤ったところに、種実の不運があった。

戦場における勇猛果敢な戦いぶりだけみると、種実は戦国期の北部九州でも特筆すべき存在である。
願わくは、父・秋月文種のような政治センスが種実にも備わっていれば、秋月氏ももっと上手い立ち回りができて所領を奪われることはなかったかもしれない。

秋月種実は、息子の秋月種長とともに日向高鍋に流され、36万石から3万石の小大名へと転落した。
種実は失意のうちに病を得て、文禄5年(1596年)、病没した。52歳だった。
死の間際まで、秋月に戻ることを願っていたという。
ちなみに秋月氏が藩祖である江戸時代の高鍋藩は、数々の名君主を輩出し、農政を中心とした改革を行い、現在の酪農王国・宮崎の基礎を築いたといわれている。

(寄稿)筑後守只人

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