甘糟景継(甘粕景継) の解説~上杉家の勇猛な家臣をわかりやすく解説

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甘糟景継(甘粕景継) とは


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甘糟景継(甘粕景継)  読み方は「あまかす かげつぐ」
戦国時代1550年?~1611年5月12日

いつも笑っているか、泣いているか、怒っているのどれかと、NHK大河ドラマ「天地人」で甘糟景継を演じるパパイヤ鈴木さんの演技が頭にこびりついてしまい、ついに甘糟景継を調べてみた。

甘糟景継(甘粕景継、甘糟備後守景継)(あまかす かげつぐ)は、1550年、登坂清高(登坂加賀守清高)の子として誕生。
登坂家はもともと上田・長尾氏の譜代家臣で、上田衆と呼ばれた強豪武士団の一員であった。
若い頃は登坂藤右衛門と言う名であったと考えられ、槍と長刀の名手で、上杉勢最強と呼ばれた上田衆の1人であったが、上田・長尾氏の上杉景勝ではなく、上杉謙信に直接才能を認められて、1577年に討死した甘糟継義(甘糟孫右衛門継義)の名跡を継ぐ形で、養子となり甘糟清長(甘糟藤右衛門清長)と改名した。
景継が継いだ甘糟家は、甘糟景持の遠い親戚筋で、上杉謙信の家臣として川中島で功績を挙げている飯塚灰毛城主・甘糟景持(甘糟長重)とは別の甘糟氏となる。


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甘糟景継は、護摩堂城主(田上町)として、上杉謙信の為に尽くそうとするのもつかの間、1578年、上杉謙信が亡くなる。
なお、それ以前の上杉兼信時代に、甘糟景継が活躍したと紹介する資料もあるが、あいまいで、甘糟景継本人かどうかは非常に怪しい。直江兼続も、上杉謙信時代に何をしていたのかは良くわかっておらず、1575年の上杉家臣軍役帳にも、直江兼続同様記載がないため、小生は甘糟景継の上杉謙信時代は不明にしたいと言うよりは、まだ若年で目立った活躍ができていなかったものと考える。
上杉謙信の葬式直後に勃発した御館の乱では、当然ながら直江兼続らと共に、上田出身の上杉景勝に味方し、上杉景虎と戦い、その戦功もあってのちに上杉景勝より1字賜り、甘糟景継と改名した。
甲斐の武田氏が滅亡し、織田勢の越後侵攻が本格的となった際、本能寺の変織田信長が死去し、上杉氏は窮地から脱したが、その後も続いた、新発田重家の乱では、護摩堂城は木場城とともに重要な最前線の城と化した。
甘糟景継は、新発田重家との戦いでも功績があったのか、1583年からは五泉城主(五泉市)になったが、新発田重家の乱は1587年まで続く。
1591年には東禅寺城主(酒田市)として酒田の水路の開削、米倉の増築、平田郷開田など、長年の戦で疲弊している越後復活のため、政治にも力を注いだ他、家老・志駄義秀に命じて飽海にある磐井出城の阿部氏を攻略もしている。
1594年の記録によると甘糟景継は7696石で、上杉景勝家臣として4番目の知行高と、直江兼続兄弟についで上田衆出身の中でも大変評価されていたことがわかる。

1598年に、上杉家は会津に移封され120万石となると、甘糟景継は20000石で、北の要になる白石城主となった。
1600年の徳川家康の会津征伐の際、甘糟景継の人生最大の不幸が訪れた模様だ。諸説あるのだが、わかっている範囲でご紹介したい。
「御家中諸氏略系譜」(上杉家御年譜)によると、徳川家康に対抗する為、白石城を留守にして、白河城での軍議に参加したが、その隙をついて、伊達政宗が白石城を攻撃し、7月24日、城の留守部隊は、たった2日で降伏してしまった。
江戸時代に書かれた軍記物では、会津の上杉本拠地に残していた妻が急死した為、白石城を留守にしている間に、伊達政宗に白石城を奪われたとある。
いずれにせよ、白石城が援軍も待たずに簡単に伊達政宗に降伏した事で、上杉景勝の怒りをかい、甘糟景継は責任を問われ死罪になりそうだったが、直江兼続の尽力もあり、命は助かる。
しかし、以後、上杉家臣としては冷遇された。
事実、甘糟景継は直江兼続の配下である小奉行として、上杉氏の新しい本拠地として築城を行った神指城を普請するなどして、過ごしたようだ。


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江戸時代の別の軍記物では、甘糟景継が冷遇されている話を聞いた徳川家康が、20000石で徳川家に迎えようと試みたが、甘糟景継は「景勝殿の怒りは私の責任でありいかなる罰を受けてもそれは尤もな事である。
それに長き事上杉家に仕えており、今更二君にまみえる事は出来ない。」と断ったとされる。
なお、徳川家康より誘いがあったと聞いた上杉景勝は更に怒ったとも言われている。
1601年の上杉景勝、米沢移封後、1607年2月の記録では甘糟景継は6600石を知行しているので、知行的には他の上杉家臣と余り遜色ない割合での減少で、立場的には同心与力を統括する米沢藩最上位の身分であり、特に冷遇とは感じられない。
1606年、江戸城の桜田御門普請の際には、築城技術を期待され、頭取指揮をして、徳川将軍家より時服と銀子を賜っている。
1611年5月12日に死去。享年62。原因は不明だが、甘糟家先祖書(1633年著)ては「故あって自害」「6600石は取り潰された」とある。


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余談ではあるが、一族の甘糟右衛門信綱は、キリシタンであったため、1628年12月18日に米沢北山原で家族と共に処刑されている。
甘粕右衛門信綱(洗礼名ルイス)は、甘糟景継の次男とされ、上杉家重臣も上杉定勝に助命嘆願し、また甘粕右衛門に対しても改宗を勧めたが、甘粕右衛門信綱はキリシタンを貫き、結局斬首されたと伝えられている。
上杉景勝死去後、つぎの藩主・上杉定勝は1624年に、甘糟景継の子供2人を200石で上杉家に復帰する事を許した模様である。
1626年11月の記録では、甘糟景継の子、甘糟久五郎吉継は200石、甘糟彦七郎(帯刀)長継は300石として認められている。戊辰戦争では、軍務参謀となり長岡藩と同盟して戦った甘粕継成が子孫。
現在、甘糟景継の墓は、米沢の林泉寺にある。

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コメント

  • コメント ( 4 )

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  1. 玉堂

    片倉家に伝わる「片倉代々記巻之六景綱」の中に伊達政宗が白石城を攻撃する日を予告していたかのような記述を見つけた。
    代々記には伊達政宗の言動と白石城を攻略するまでの経緯が記されてる。
    問題の箇所までを略して書くと次の通りである。
    徳川家康が上杉景勝討伐の令を下すと大坂にいた伊達政宗は戦に備えて帰国の途につく。上杉領を迂回して7月12日に北目城に到着。同日、白石城を警固していた上杉方と山中で激戦を交えた刈田郡小原村の野臥(のぶし)が討ち捕った上杉方の首を北目城へ持参している。政宗公との取次には伊達家家臣の屋代景頼があたった。野臥の名は斎藤吉左衛門、斎藤善七である。その日の記述を原文のまま書く。

    「公吉左衛門、善七を褒美し給ひ、来る廿四日には白石へ出馬し給ふへき間、其前何とそ小原を抱持すへきの旨仰付られ、鉄炮(砲)八挺下し給ふ」

    とある。文面から24日に白石に行くことを野臥に伝えて鉄砲八挺を渡したことになる。続けて代々記には緊迫した文面が綴られているものの、なぜか7月21日までの一頁が落丁している。(初代景綱が残した文書が紛失するとは考えられない)
    そして伊達政宗が白石城に攻め入った7月24日。白石城主の甘糟備後守景継は城を離れている…。

    (参考) 片倉代々記第六巻景綱

  2. 玉堂さま、この度も貴重な情報を誠にありがとうございます。(^-^)

  3. 玉堂

    高田さま

    いつもお世話になっております。
    また誤字がありました。
    最後の行 巻六巻 を 第六巻 です。
    訂正を宜しくお願い致します。

  4. ご連絡ありがとうございます。対応致しましたので、ご報告申し上げます。