穴山信君(穴山梅雪)とは~武田家の親族衆筆頭と下山城


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 穴山信君(あなやまのぶきみ、あなやまのぶただ)は、身延町付近を知行した下山城主・穴山信友の嫡男として1541年に生まれた。
 幼名は勝千代、その後、穴山彦六、穴山左衛門大夫、穴山玄蕃頭、穴山陸奥守とも称している。
 母は武田信虎の娘・南松院(武田信玄の姉)であり、穴山家は武田一族衆(武田親族衆)の筆頭に列した。

 なお、穴山家の河内地方は武田家が支配した訳では無く、穴山家独自の家臣団や行政組織となっており、山林と金山の開発、そして検地を行うなど、独立性もあったようだ。

 穴山信君は1553年に1月15日に、甲府の穴山氏館に移っており、武田信玄の人質として赴いたと考えられている。

 穴山信君の正室は武田信玄の娘・見性院で、武田家との関係をより強固なものとした。

 父・穴山信友が1558年に出家し、以後、20歳になった穴山信君が文書を発給していることから、家督を相続したものと推定される。
 なお、穴山家は土地柄、今川家との外交を担当しており、父は隠居後も1560年、桶狭間の戦いのあとに死去するまで、今川氏との外交に携わっているのが確認できる。

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 1561年、20歳のとき、上杉謙信との第4次川中島の戦いでは、武田信玄の本陣を守った。

 1565年10月、武田信玄の嫡男・武田義信が謀反の疑いで幽閉される義信事件が起こると、傅役・飯富虎昌が自害しているが、穴山信君の弟・穴山信嘉も連座し、身延山久遠寺で切腹したようだ。

 武田信玄は、三河吉田城酒井忠次のもとに穴山信君を派遣し、徳川家康との誓詞を交わしている。
 1568年の駿河侵攻では、穴山信君が今川家の家臣を内応したり、徳川家康との連携にも尽力。
 落城させた興津城の城代を任されている。
 1569年には、小田原城攻めと三増峠の戦いにも参戦し、大宮城に籠城する富士信忠との開城交渉も成功させた。

 1572年、三方ヶ原の戦いでは、武田信玄の本陣に後備えとして配置されたようだが、敗走する徳川勢を深追いした武田兵が、犀ヶ崖で逆襲を受けた際、穴山信君隊が防戦したとされている。

 1573年、武田信玄が死去すると、武田勝頼に仕える。

 1575年、織田信長・徳川家康との長篠の戦いでは、穴山家の家臣・川原弥太郎が、敵将・鳥居勝商を生け捕りにしている。
 しかし、武田勝頼に退却を進言するも受け入れられず、37歳だった穴山信君は独断で戦線から離脱し、敗北の要因になったと言われている。

 江尻城主だった山県昌景が長篠の戦いで討死したため、その後任として江尻城代に就任。
 1579年には、江尻城に天守閣を築いている。

 1580年、出家すると穴山梅雪斎(ばいせつさい)、不白(ふはく)と号した。
 甲斐国志によると、穴山梅雪は文化的教養も高かったとされ「筆法も見事にて、好事の趣あり」と記載されている。

 1582年2月、織田勢が甲斐侵攻開始すると、2月25日に新府城にいた人質を逃がし、2月末に面識があった徳川家康を頼り、織田信長に内応。
 この時、織田信長には黄金2000枚、徳川家康には太刀、鷹、馬などを献上したとされ、本領安堵と、武田勝頼のあと、穴山信君が武田家を名乗ることが許された。

 3月5日、江尻城を徳川家の家臣・本多重次に明け渡し、穴山梅雪は徳川家康に合流し、甲斐に侵攻した徳川勢の案内役となった。
 最も信頼した一族筆頭の穴山信君にも裏切られた武田勝頼は、小山田信茂岩殿山城を目指すも、裏切られて天目山の戦いで自害するに至る。

 3月10日、一条信龍の襲撃を受けるが、捕らえると処刑している。

 3月11日、甲府善光寺に本陣を置いた織田信忠に謁見すると、府中の治安に当たった。
 この夜半、武田勝頼が田野で自刃したことを知る。

 3月17日、織田信長が諏訪に入ると謁見し、甲斐河内領と駿河江尻領が安堵され、下山城に帰った。
 その後、甲斐武田氏惣領として徳川家康の与力に加わる。

 4月25日、母・南松院殿の17年忌を南松院で営むと、滅亡した武田勝頼を非難し、自らが武田家を再興すると誓っている。

 1582年5月8日には、徳川家康に同行して西へと向かい、5月15日から3日間、安土城に滞在すると織田信長に謁見。
 その後、徳川家康一行と堺を遊覧し、今井宗久千利休、松井友閑ら茶人の歓待を受け、京に戻る途中の1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死したのを京都の豪商・茶屋四郎次郎から知らされる。
 そして、徳川家康とは別行動で本領を目指したが、木津川河畔(京都府京田辺市の山城大橋近く)で、落ち武者狩りの百姓勢に襲撃され、穴山梅雪は殺害された。享年44。

 一説には痔が悪化して馬に乗れず、馬で逃げる徳川家康とは一緒に行動できなかったとされている。

 ルイス・フロイスによると「穴山殿は遅れ、また少数の部下しかいなかったため、不幸にして一度ならず襲撃され、まず部下と荷物を失い、最後には殺された」と記している。

 なお、穴山梅雪が継承した甲斐武田家の名跡は、徳川家康の息子の武田信吉が一時継承。
 しかし、豊臣秀吉小田原攻めのあと、1590年に下総・小金城3万石となると、松平姓に戻っている。

下山城跡

甲斐源氏・加賀美遠光の孫・加賀美光重が下山郷に入り、下山氏を称したとされ、この身延・長國寺(長国寺)のある場所が、下山氏館跡、すなわち「下山城」とされています。

穴山氏は奥州に去った南部家の河内領に進出して下山城(穴山氏館)を本拠とし、河内領を支配しました。
下山城主・穴山信友の嫡男が穴山信君(穴山梅雪)です。

1575年に穴山信君が駿河・江尻城主となると、下山城は留守所となりました。

小さな寺院かな?と想像していたのですが、意外にも敷地面積がありまして、失礼致しました。

3段くらいに別れているなだらかな丘陵地となっており、西側には小さな川が天然の堀の役目を果たしています。
東側にも堀跡があるそうです。

敷地内には幼稚園?もあるようでして、館・城としては充分な面積と言えるでしょう。

下山城への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点となります。
国道からの入口はわかりにいくので、追突されないよう、危険防止の為、早めにウインカーを出して、曲がってください。
山門を入って右側に無料駐車場があります。

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