荒木村重の解説~池田家家臣から摂津37万石の大名に出世した豪傑を簡潔に紹介

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荒木村重

荒木村重とは

荒木村重(あらき-むらしげ)は、1535年、荒木義村(荒木信濃守義村)の嫡男として生まれた。祖父にあたる荒木高村の子とする説もある。
母の名などは不詳。

元々、荒木家は波多野氏の一門で、荒木村重から見ると祖父にあたる荒木高村が摂津川辺郡小部庄に移り住み、荒木家は、摂津・池田城主・池田長正の家臣と言う身分であった。

荒木村重の子供の頃は、他の少年たちより力が強く、弓と馬の鍛錬を好んだと言う。そして、大食で、常に槍太刀での勝負毎をして遊んでいたとされる。

荒木村重は、池田長正の娘・だし(ダシ、たし)を娶って、池田家の一族衆となった。
1561年頃?には、北河原三河守の女との間に、嫡男・荒木村次を設けている。(荒木ダシの子とする説も有)


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1563年、主君の池田長正が他界。家督を継いだ池田勝正は、前当主・池田長正の子ではなかったが、文武に秀でていたため池田家当主となった。
しかし、当然のように実際の嫡男である池田知正との関係が悪化。

1563年3月20日、酒宴の場で荒木村重は池田知正派の池田勘右衛門に寄りそい、酌を装った際に隙をみて太刀を抜いて粛清し、その場で池田勘右衛門に与する8名も、荒木村重が討ち果たとされ、武名を轟かせた。

1568年?8月中旬、猪名寺の戦いで、茨木重朝・伊丹親興連合軍が池田勝正を攻撃した際、荒木村重は池田二十一人衆である池田清賓斎・池田周防守・池田豊後守・池田因幡守・池田久左衛門・池田和泉守・野々村丹後守・荒木志摩守・ 荒木越中守・中川清秀・那部田市助・高野肥前守らと共に出陣。荒は村重が宇都宮作丞を槍で打ち取るなどし、逆に伊丹城下まで撃退したと言い、荒木村重の父・荒木義村はこれを喜んで荒木村重に家督を譲ったとされる。

1568年9月、織田信長足利義昭を擁して上洛すると、頼みの三好が追われた為、伊丹親興が早々と恭順を示した。これに池田家を含む摂津の豪族も次々に織田信長に臣従。
池田勝正の盟友であった三好長慶の死後、三好家では後継者に当たる三好義継はまだ幼く、三好長慶の弟達も死去していたため、後見役として三好政権を支えて活躍した三好三人衆(三好長逸三好政康岩成友通)に池田勝正は協力して、畿内の主導権をめぐる松永久秀との争いに加担したが、翌年、三好家とは決別する事になる。

1569年1月、三好三人衆に京都の足利義昭攻めた(本圀寺の変)。織田勢の留守部隊だった明智光秀は足利義昭を救援するべく抵抗。
これに細川藤孝や松永久秀、三好義継、伊丹親興らが後詰したが、池田勝正と荒木村重も三好三人衆と決別して救援に加わり、桂川河畔で合戦(六条合戦)して勝利している。


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しかし、池田家では内紛が表面化。
1570年6月、荒木村重は三好三人衆の調略に乗り、池田知正を擁立する形で、主君・池田勝正を高野山に追放。
池田知正が池田家の家督を継ぎ、摂津・池田城主となったが、池田家の家臣は荒木村重が受け継いだようだ。
織田信長への印象が悪くなったのは言うまでもない。

1571年8月、池田家と敵対する和田惟政が、池田領の境に砦を二つ築いて挑発したが、荒木村重が撃破。
1572年には、同じく池田知正に仕えていた中川清秀(中川瀬兵衛)と共同して連合を組み、対立する茨木重朝を支援する織田勢の和田惟政が戦死(白井河原の戦い)。中川清秀は茨木城主になった。
荒木村重は和田惟政に協力していた茨木城の茨木佐渡守を討ち取っている。

1573年頃から、将軍・足利義昭と織田信長の仲が険悪になると、池田知正は細川藤孝の説得も聞かず足利義昭に属した為、次第に台頭していた荒木村重は池田知正を追放して、池田家を掌握(乗っ取り)した。
1573年3月には、高槻城主の和田惟長が、家臣の高山友照高山右近親子の暗殺を計画したが失敗し、和田惟長は切りあいの際致命傷を負い、逃亡先の甲賀で3月15日に死亡。(生存説もあり)
その後、高槻城には高山友照・高山右近親子が入り、荒木村重の支配下に加わった。

その直後の1573年3月29日、荒木村重は、上洛して来た織田信長を近江山城の境・逢坂において出迎えて謁見。
織田信長は荒木村重の勇気と才能を高く評価し、三好家から織田家に移ることを許して茨木城主とし、織田家の家臣団に組み込み、中川清秀も荒木村重の傘下に加わった。
織田信長から差し出された太刀に刺さった「まんじゅう」を平気な顔で食べたというのはこの時のことである。

同じ1573年11月、織田信長が足利義昭を討伐する際には、三好義継との若江城の戦いで戦功を挙げている。

1574年11月5日、荒木村重は伊丹城の伊丹親興を攻略して伊丹城主となり、織田信長より、石山本願寺の寺領をのぞく摂津37万石を任されるまでになった。
伊丹城は大改修を開始して、有岡城と改名。
その後、織田信長の石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)、紀州征伐などにも参加している。


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しかし、荒木村重と言う武将は、クーデターを起こしても殺害では無く追放処分にしており、戦闘で敵城主を捕獲しても逃がしたり、裏切った家臣などの人質も殺害はしておらず、もちろん敵からの使者も家臣の反対も押し切って、命だけは助けている。
勢力を伸ばしていた織田信長に臣従したものの、残虐な事を平気で行う織田信長の本性を知り、次第に織田信長から離れようとしたものと推測する。

荒木村重

・以後は荒木村重の謀反・有岡城の戦いに続く

有岡城(伊丹城) 伊丹駅前に残る城跡
摂津・池田城 池田信正・池田勝正・荒木久左衛門(池田知正)
高槻城 城域も大きかった高山右近の名城
有岡城(伊丹城) 伊丹駅前に残る城跡と伊丹親興も
摂津・大物城(尼崎古城) 大物崩れの舞台
尼崎城が復活 4重天守が400年ぶりに蘇る
和田惟政とは
中川清秀 荒木村重傘下の有能な武将
茨木城 茨木長隆の居城も今はその面影なし
高山右近~60000石になったキリシタン大名
荒木村次(尼崎城主)は荒木村重の嫡男、そして次男・荒木村常

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