有鹿姫(あるかひめ)~相模国に伝わる伝説のお姫様

有鹿姫(あるかひめ)

小沢城金子氏・金子掃部助には悲話として有鹿姫伝説が残る。

室町時代、太田道灌に小沢城が攻撃され、城主・金子掃部助は、小沢城を捨てて敗走した。
この金子掃部助には、美しい姫君がおり、姫は早くから有鹿の地(海老名の河原口)に住む海老名氏系の若君と婚約中で、海老名館に来ていたが「小沢城危うし」と言う声に、急いで小沢城に戻った。
しかし、時すでに遅く父の金子掃部助は戦死、母は行方知れずと聞き、すっかり生きる望みを失った。覚悟を決めた姫は、見苦しい姿を人目にさらしたくないと、薄化粧をして、まだ燃えている小沢城を後ろに、天に向かって手を合わせると「ざぶん!」眼下の相模川に身を投げた。


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すると、美しかった姫の体は、たちまち恐ろしい大蛇に変わり、大きくうねりながら下流に向かって泳ぎ出した。途中、六倉という所で大きく身震いすると、相模川の水が舞い上がり、中津の原に大きな水たまりができた。
さらに水しぶきを上げながら進み、河原口に近ずくと、姫は再び人間の姿に戻り、息絶えて有鹿神社の裏の河原に打ち上げられた。

神社の氏子らは、海老名の地に嫁ぐ日を夢みていた姫の死を悲しみ、せめてもにと「有鹿姫」の名を贈り、神社の片隅に、その亡きがらを葬った。
現在、海老名市の有鹿神社と有鹿小学校の間には、若くして散った有鹿姫をしのぶ碑が建てられている。

ちなみに、1439年永享の乱で嫡流の海老名氏は滅亡しており、1477年の長尾景春の乱の時には、諸流と考えられる海老名左衛門が太田道灌と戦い討死している。のち、小田原北条氏の家臣にもなっていることから、諸流の血筋は耐えなかったと考えられる。

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