浅野幸長とは~武勇に優れた歴戦の勇将も38歳で疑惑死する

浅野幸長

浅野幸長(あさの-よしなが)は、浅野長政の長男として戦国時代の1576年に近江の小谷城下(滋賀県長浜市)にて生まれた。
初名は浅野長慶、のち浅野長満。左京大夫、紀伊守と称した。
母は、彌々(やや・長生院、浅野長勝の娘)。


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父・浅野長政は、豊臣秀吉の正室・ねね(北政所)の義弟にあたり、本能寺の変織田信長が横死したあとは、豊臣秀吉に仕えた。
そして、1583年の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、近江・大津城にて20300石となっている。

そんな父を見て育った浅野幸長は、1589年に従五位下・左京大夫に叙任された。

1590年、小田原攻めでは父と共に出陣しているが、これが初陣であり岩槻城の戦いに加わっている。
この頃、前田利家とまつの間の5娘・与免と婚約していたが、この与免は1593年、嫁ぐ前に早世した為、のち正室には池田恒興の娘を迎えている。

1592年~1597年(17歳~22歳)には朝鮮攻め(文禄の役・慶長の役)にも参加。
この間、1593年に父・浅野長政が甲斐21万5千石(一説に浅野長政5万5千石、浅野幸長16万石)となり、甲府城の築城にも関わっている。

甲府城の山手御門

また、1595年には関白・豊臣秀次事件が起こった際には、豊臣秀次の正室・若御前と浅野幸長の正室が、共に池田恒興の娘で姉妹であったことから豊臣秀次をかばった。
そのため、浅野幸長は連座し、能登・津向に流されたが、前田利家と徳川家康の尽力もあり、まもなく復帰を果たすと、1597年、西生浦へと再び朝鮮に渡った。

1598年、豊臣秀吉の死去により、朝鮮から撤退すると、その後は黒田長政加藤清正福島正則らの武断派(7将)に接近し、五奉行の石田三成長束正家らと対立した。
1599年、前田利家の死去すると、加藤清正らと共に石田三成襲撃に加わっている。

1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に味方し、池田輝政らと岐阜城を攻撃。
9月15日の本戦では、南宮山毛利秀元、長束正家などの西軍に備えて、垂井一里塚付近に陣を構えた。

浅野幸長陣跡

戦後、37万6千石にて和歌山城主となり、従四位下・紀伊守に叙任されている。
江戸城造営では、赤坂見附御門や溜池を築造に家臣・矢島長雲を当てている。

父・浅野長政は、関ヶ原の戦いの前に、徳川家康より嫌疑を掛けられて謹慎していた。
しかし、許されて1606年には、常陸・真壁城5万石として、徳川幕府より隠居料を与えられているが、1611年に死去している。


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1611年、加藤清正と協力して二条城にて徳川家康と豊臣秀頼の会談を実現させ、また警備を担当した。
1613年8月25日、和歌山城にて死去。享年38。
墓所は、和歌山市吹上の曹源山大泉寺と和歌山県伊都郡高野町の高野山悉地院。

死因は梅毒ともされるが、和歌山藩は大阪城にも近い。
浅野幸長は江戸幕府の功臣ではあるが豊臣恩顧の大名でもあり、加藤清正と同じく徳川家康の天下を認めつつも、あくまでも豊臣の繁栄を願っていたとされ、これが原因で暗殺されたという説もある。
浅野幸長の死の翌年、大阪の冬の陣が勃発した。
真田幸村(真田信繁)が、徳川家康の本陣を目がけて突撃した際にも「浅野家が裏切った!」と流言を流している。


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なお、浅野幸長には男子が無かったため、死後、次弟・浅間長晟が家督を継いだ。
また、巡りに巡ってこの浅野家は、のちの「赤穂浪士」で有名な赤穂藩主・浅野内匠頭も輩出した。

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