浅野長政 (浅野長吉)~絶大な信頼と秀でた才覚を持った五奉行筆頭


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 浅野長政(浅野長吉)は、1547年、尾張国春日井郡北野(現在の愛知県北名古屋市)にて誕生。幼名は弥兵衛。
 父は宮後城主・安井重継(安井弥兵衛重継)で、母は浅野長詮の娘。

 父・安井重継は、甥である蜂須賀小六に家督を譲り、安井家は蜂須賀家へ吸収され、嫡男であった浅野長政 (浅野長吉)は将来を失う事になった。
 しかし、織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝(母の弟)に男子がなかったため、浅野長勝の娘・やや(彌々、長生院)の婿養子として浅野家に迎えられ、のちに浅井家の家督を相続した。養母は七曲殿。

 この浅野家は、浅野長勝の養女となっていた ねね(おね、寧々、のちの北政所、高台院)がおり、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いでいる。
 その縁で、浅野長政 (浅野長吉)は、豊臣秀吉にもっとも近い姻戚として、織田信長の命で豊臣秀吉の与力となった。

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 1573年、浅井長政攻めで活躍し、豊臣秀吉が小谷城主(のちに長浜城に改名)となると、近江国内に120石を与えられている。

 1576年には、嫡男・浅野幸長が長浜にて誕生している。

 織田信長が本能寺の変明智光秀により横死すると、死後は豊臣秀吉の家臣として、1583年の賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げて、近江・大津に20300石を与えられた。当初、瀬田城に入ったが、のちに坂本城へ移ると、大津城を築城して本拠とした。

 1584年、京都奉行職に就任。織田信長亡き後、混乱する京都の治安維持に当たり、のち豊臣政権下では五奉行の筆頭となった。
 浅野長政は行政手腕が優れており、豊臣秀吉に命ぜられて太閤検地を実施するなどしている。
 また、東国の大名との関係が良くく、諸大名から没収した金銀山の管理も行っている。

 1586年、豊臣秀吉の妹・朝日姫徳川家康の正室として迎えられた際は、浜松城まで同行した。

 1587年、九州征伐などでも従軍して戦功を上げ、1587年9月5日、若狭・小浜80000石となった。

 1588年、従五位下・弾正少弼に叙任されている。

 1590年、小田原攻めにも参加。嫡男・浅野幸長は初陣となり、父・子で岩槻城などを攻略した。
 小田原に参上した伊達政宗と、豊臣秀吉の間をとりもったのも浅野長政である。
 奥州仕置では中心的役割となり石田三成大谷吉継らと奉行職を全うした。取次役として南部信直との関係を強め、羽柴秀次の軍奉行として葛西大崎一揆や九戸政実の乱へ対処している。

 1592年、豊臣姓を下賜された。

 1593年、朝鮮出兵では石田三成や増田長盛とともに目付として朝鮮に渡った。
 石田三成と違い、豊臣秀吉の渡海には断固反対したと言う。
 朝鮮では子の浅野幸長の功績があり、加藤光泰の死後に収公されていた甲斐・府中21万5千石を与えられて甲府城に入った。
 浅野長政に5万5千石、浅野幸長には16万石であったとされるが、忙しい浅野長政の軍役を抑える為に低くしたとされる。
 浅野長政は東国大名の取次役を命じられ、南部信直、宇都宮国綱、那須資晴、成田氏長らを与力とするが、その職務実施状況担当の伊達政宗より絶縁状を突きつけられた。
 浅野長政は豊臣秀吉の命で上方に詰めていることが多く、甲斐支配は嫡男・浅野幸長が行ったと言う。

 浅野家は、武田の旧家臣が不穏な動きもする甲府にて、近世に確立した地域区分である九筋二領にそれぞれ国奉行を配置し、郡内領や河内領においても支配機構を整え、太閤検地の実施や甲府城の築城を行い、甲斐支配を進めた。

 五大老筆頭の徳川家康とは親しい関係にあり、豊臣秀吉死後は同じ五奉行の石田三成と犬猿の仲にあったとされているが、これには近年になって疑問視されている。

 子の浅野幸長は猛将で、加藤清正福島正則らの武断派に与して、五奉行の文治派・石田三成らと対立。

 1599年、増田長盛の讒言により、前田利長大野治長、土方雄久らとともに徳川家康から暗殺の嫌疑をかけられて謹慎し、家督を浅野幸長に譲って武蔵・府中(遺臣・平田氏屋敷)にて隠居した。
 自国の甲斐ではなく、謀反を起こす気など無い事を示す為、徳川家の領地内である府中にて謹慎したようだ。

 1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康を支持するも謹慎中であった為、浅野長政は子・浅野幸長を出陣させた。浅野幸長は徳川家康の3男・徳川秀忠と共に中山道を進み、東軍の先鋒として、池田輝政らと岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦で毛利秀元長束正家らを相手に奮戦した。
 戦後、浅野幸長は紀伊・和歌山37万石へ加増移封され、和歌山城主となった。
 浅野長政自身は江戸幕府の成立後は徳川家康に近侍し、1605年には江戸城下に移った。
 
 1606年、浅野幸長の所領とは別に、浅野長政は常陸・真壁50000石を隠居料として与えられている。
 隠居後は、徳川家康の話し相手、相談相手として囲碁や茶会をして過ごしたと言われている。

 1611年4月7日、真壁陣屋にて死去。享年65。真壁50000石は3男・浅野長重が継いで、真壁藩となった。子の浅野長直の代に播磨・赤穂藩に転封となっている。
 ※赤穂浪士で有名な赤穂浅野家・浅野内匠頭に繋がる。

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