宇佐美定満(宇佐美定行)とは~上杉家の軍師と琵琶島城(野尻湖での溺死)


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宇佐美定満(うさみ-さだみつ)は1489年に生まれで、父親は宇佐美房忠とも、宇佐美孝忠(宇佐美越中守孝忠)ともされる。
母は不詳であるが、初め宇佐美良勝と称し、のち宇佐美定満と改名した。
なお、宇佐美定行と言うのは、江戸時代になってから見られる名前で、当時名乗っていたのかは確認できていない。

父とされる宇佐美房忠は越後守護・上杉定実の家臣であり、名刀「宇佐美貞光」を上杉定実に献上した記録もある。
もう一方の宇佐美孝忠(宇佐美越中守孝忠)は上杉房定の家臣で、上杉定実の復権を目指して長尾為景と戦い、1514年に討死したとされる。宇佐美定満(宇佐美定行)16歳の時となる。
この宇佐美孝忠の代に、居城が越後・琵琶島城になったともされている。

ちなみに、宇佐美家は、工藤祐経の弟・宇佐美祐茂(うさみ-すけしげ)を祖とする伊豆の豪族・名門となる。

宇佐美定満(宇佐美定行)は、上条上杉家に仕えており、1535年、上杉定実の弟・上条定憲に協力して、上条上杉家の再興を目指し上杉定実・長尾為景と戦った。
しかし、1536年、春日山城下で敗れただけでなく、上条定憲が死去した可能性があり、宇佐美定満(36歳)は長尾為景に降伏したと考えられる。
なお、宇佐美定満(宇佐美定行)は長尾為景に味方した功績で、駿河守を拝領したとする説もあるので、とにかく良く分からない事が多く、色々な疑惑も生じる。
ただし、その長尾為景も同じ年には隠居に追い込まれており、1543年に死去した。
よって、宇佐美定満は長尾晴景に仕えた。

その後、1548年に長尾晴景が隠居すると、あとを継いだ長尾景虎(のちの上杉謙信)に仕える。
1550年には、長尾景虎に反抗的な坂戸城主・長尾政景の征伐で武功を挙げた。
1560年には、関東出陣にも名が見られ、1561年には小田原城包囲にも加わり、鎌倉・鶴岡八幡宮での長尾景虎(上杉謙信関東管領就任式では、柿崎景家、甘粕景持、河田長親らと御先士大将を務めている。
このように宇佐美定行は上杉謙信の参謀として、上杉25五将の1人に数えられ、北越軍記にその活躍が明記されている。
特に、武田信玄との第4次川中島の戦いで、山本勘助の啄木鳥戦法を見破ったのが宇佐美定行とされた。
このように、武田家の甲州流軍学に対抗した越後流軍学の祖とされるが、軍師であった事実は、江戸時代の創作である可能性が高い。

1559年、長尾景虎が無事に上洛を果たして春日山城に戻った際、越後の諸将は太刀を献上して祝賀した。
そのとき宇佐美定満は「琵琶島殿」(びわ嶋殿)と名前があり、上杉家の外様・譜代衆の中で、中条藤資、本荘繁長、本荘秀綱、石川重次、色部勝長、千坂景親、長尾政景、斎藤朝信、安田顕元?、長尾藤景、柿崎景家の次となる12番目の序列となっている。(披露太刀之衆)

その頃には高齢を理由に隠居した模様で、子の宇佐美定勝が家督を継いだと考えられる。

そして、有名なのが野尻池事件となる。

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宇佐美定満の野尻池溺死

1564年、坂戸城近くの野尻池で、上杉謙信に対抗して裏切った事もある長尾政景(長尾義景とも?)を謀殺しようとして、宇佐美定満(宇佐美定行)は共に溺死した。
武田信玄と結んで、上杉謙信に謀反を企てる長尾政景を道連れにしたという説が有力とも言われる。

ここで注意したのには、野尻池であって、野尻湖ではない可能性がある事。
坂戸城近くの野尻池は、現在の銭淵公園内にある池と、湯沢町にある大源太湖の2説がある。
舟遊びの最中、酒に酔って溺死したともある。
宇佐美定満(宇佐美定行)は享年78。
長尾政景は享年38。

ただし、宇佐美定行(宇佐美定満)が野尻城(琵琶島城)主であり、宇佐美定行の供養塚も野尻湖(芙蓉湖)の琵琶島にあること、そして、長尾政景の墓も野尻湖に近い真光寺に移されていることから、野尻湖で溺死した説も根強い。

しかし、宇佐美定満はそれ以前の北条家との戦いとなる武蔵・上尾原の戦いにて討死したとも言われている。

宇佐美定満の長男である、宇佐美定勝は宇佐美定満よりも先に死去したようで、次男の宇佐美勝行が後を継いだ。
しかし、上杉景勝の代なると、上杉景勝の父・長尾政景を暗殺したとの嫌疑のためか疎まれ、出奔し佐々成政小西行長に仕えた。
関ヶ原の戦いの際に宇佐美勝行は、上杉家遺民一揆にも加わっている。

なお、宇佐美定満の正式な墓所は、新潟県南魚沼市雲洞の雲洞庵となる。
野尻湖・琵琶島の宇賀神社にある供養塚は、上杉謙信が忠死に感激し具足を埋めて供養した経塚とされる。

越後・琵琶島城

琵琶島城(びわじまじょう)の最初の築城は不明であるが、上杉憲顕に従って越後に入った、伊豆の豪族・宇佐美氏が築城したと考えられる。
琵琶島城の場所は、新潟県柏崎市にある鵜川の蛇行地点であり、野尻湖とはまったく別の場所となる。
枇杷島城とも書く。

宇佐美家没落後は、前島修理亮が入り、御館の乱の際に、上杉景勝勢の佐野清左衛門尉の攻撃により降伏・開城した。
その後は、桐沢具繁が入城し柏崎市北条の所領を与えられている。

この越後・琵琶島城に対して、下記の信濃・琵琶島城もあるので、余計にややっこしい。

信濃・琵琶島城

信濃・琵琶島城(びわじまじょう)は、別名が野尻城、野尻島とも言われる、野尻湖に浮かぶ琵琶島に築かれた城となる。

こちら野尻城は、戦国時代においては高梨家の所領であった。

しかし、上杉謙信の春日山城との国境の境目であり、重要視されたことから、上杉家は野尻湖の北に野尻城(野尻新城)も追加で築いたようだ。

特に、第4次・川中島合戦のあと、上杉勢は野尻城にも兵を入れて、武田勢の反攻を警戒している。
※この記事においては、ここからは信濃・琵琶島城に上陸した際の写真となる。

1564年、一時、武田信玄の攻勢で「野尻島を乗っ取り候」とあり、このとき信濃・琵琶島城が乗っ取ったようだが、上杉勢がすぐさま取り戻している。
このように武田家との攻防の最前線でもあった。

下記は琵琶島城の堀切。島のほぼ中央にある。

琵琶島城は野尻湖に浮かぶ琵琶島(弁天島・お島・野尻島)にあるため、舟でないといけない。
下記の360度動画(約1分)もあるので、よければご覧頂きたい。

現在は観光遊覧船が琵琶島に約15分接岸するので、その間に、信濃・琵琶島城に上陸する事ができる。
そして、島の東端の最高所に宇賀神社が鎮座しているが、その場所が本丸跡と考えられる。

宇賀神社(琵琶島)にある、宇佐美定行(宇佐美定満)の供養碑(墓)にもお参り可能だ。

1578年、上杉謙信が没し御館の乱となった時には、琵琶島善次郎が城主として見られる。

上杉謙信が建立したとされる、宇佐美定満の供養塔がある場所は、琵琶島・宇賀神社の参道沿いで左側にあるので、気がつかない事はないだろう。

遊覧船はほぼ1時間置きの運行予定だが、時刻表と言うものは無いが、概ね「毎時」出港で、乗船時間約50分。
遊覧船乗り場は下記の地図ポイント地点。

近くには長尾政景の墓がある真光寺もあるので、セットで訪れたい。

長尾政景の溺死事件と仙桃院の数奇なる運命の果て
長尾為景~二度主を殺した「奸雄」謙信の父の苛烈な生涯
上杉謙信・長尾景虎・上杉景虎の人物像に迫る
野尻湖遊覧船と野尻湖のみどころ駐車場まとめ情報

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