長宗我部盛親~土佐再興に命を賭け大阪城に馳せ参じたが


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 長宗我部盛親(ちょうそかべ-もりちか)は、土佐の大名・長宗我部元親の4男として1575年に生まれた。幼名は千熊丸。
 母は斎藤利三の妹(正室)。

 1586年、命令無視した仙石秀久が壊滅すると言う戸次川の戦いで、十河存保らが討死した際に、長兄・長宗我部信親も討死した。
 その為、兄の香川親和を推す一派、津野親忠を推す一派、長宗我部盛親を推す一派と分かれて、家督争いが起こる。

 六尺(約180cm)の長身であったと言う長宗我部盛親は傲慢で短気な性格であったとされるが、兄の2人は既に他家に出ており、父・長宗我部元親が討死した長宗我部信親の娘を娶らせるかたちで長宗我部信親の血を残そうとした為、1588年、12歳の長宗我部盛親が世子に指名された。
 そして、豊臣秀吉の重臣・増田長盛が烏帽子親となり元服の儀を行う「盛」の一字を授かり、長宗我部盛親と名乗った。

 長宗我部元親の弟・吉良親貞の息子・吉良親実らが反発したようで、長宗我部元親の説得も聞かなかったため、処断されている。

 正室は長宗我部信親の娘。

 その後は父・長宗我部元親と共に土佐を共同支配し、豊臣秀吉の小田原攻めや、1592年からの朝鮮出兵にも参陣した。

 また、1594年以降は、父が発給した文書が減り、長宗我部盛親が発給した文書が増えているので、事実上の運営を行ったものと推定されている。
 そして、1597年3月24日には「長宗我部元親百箇条」を父と共に発布した。

 1599年5月、父・長宗我部元親が死去すると、家督を継いだが、この継承を豊臣政権が承認したことを示す記録が存在していない。
 どういう事かと言うと、官位を受けていない長宗我部盛親の家督継承は問題だとしたようで、豊臣家は当主として認めていなかったようだ。

 そんな状況の中、1600年の関ヶ原の戦いに突入する。

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関ヶ原の戦い

 石田三成関ヶ原の戦いで、長宗我部盛親は当初、徳川家康に味方しようと密書も送っていたが、近江の水口で石田三成の盟友・長束正家に進路を阻まれ、やむなく西軍に協力した。
 そして、6600を率いて伏見城や安濃津城などを攻略しながら東へと向かった。

 関ヶ原の本戦では徳川家康に内応した吉川広家毛利秀元南宮山から動かず、そのため長宗我部盛親の前方に布陣していた長束正家も動けなかったため、状況がつかめないまま最終的に戦闘に参加しせず、小早川秀秋の寝返りにより西軍は大谷吉継も討たれて壊滅した。

 長宗我部勢は、徳川勢の追撃を振り切って土佐へと帰還。
 家臣の立石正賀、横山新兵衛を懇意にしていた徳川家の重臣・井伊直政の元に派遣して謝罪しようとする。
 しかし、井伊直政は関ヶ原で受けた傷が元で死去してしまい、家臣・久武親直の讒言によって、藤堂高虎と共謀して企んでいると兄・津野親忠を殺害したことから、徳川家康は領土没収の裁決を下した。
 
 こうして、土佐には山内一豊が入り、大名家としての長宗我部家は滅亡した。
 一領具足として知られる勇猛な家臣らは、他の大名に仕官する者、牢人となる者、百姓へと帰農する者など、散り散りになる。

 長宗我部盛親は京都へ送られると京都所司代・板倉勝重の監視下にて謹慎した。
 烏丸上立売柳が辻に住んでいいたとも。
 京都では大岩祐夢(幽夢とも)に名を変えて清原秀賢らと交流し、桑名吉成らからの仕送りで暮らしていたとされる。
 また、寺子屋の先生をして生計をたてたとの記録もある。
 この隠棲により、穏やかな性格に変わったとされている。

大阪の陣

 1614年秋、豊臣家と徳川家の戦の気運が高まると、豊臣秀頼からの招へいに応じて、京都を脱出。わずか6人の従者との脱出であったが、吉田康政、吉田政重、中島重房、佐竹親直、久万俊朝、豊永藤五郎、五百蔵左馬進などかつての旧臣や浪人が合流。
 長宗我部盛親は家臣1000人もを率いて、大阪城に10月6日に入った。
 それ以降も、長宗我部家再興を願う旧臣らが続々と大阪城に馳せ参じ、大坂城の浪人衆の中では最大の手勢となる。
 こうして長宗我部盛親は、真田幸村後藤又兵衛毛利勝永明石全登とともに「五人衆」と呼ばれる豊臣家の主力部隊となった。
 大阪冬の陣では、豊臣家の重臣・木村重成や後藤又兵衛らとともに八丁目口・谷町口に布陣して、真田丸に入った真田幸村に軍勢の一部を加勢させている。

 12月4日、真田丸にて戦いが始まると、大阪城の火薬庫の爆発事故を南条元忠の寝返りの合図と勘違いした井伊直孝松平忠直の部隊に応戦し、損害を与えている。

 大阪夏の陣では、木村重成と共に徳川家康本陣を突くべく5000の主力を率いて出陣したが、藤堂高虎隊と八尾・若江の戦いとなる。

 1615年5月6日未明、八尾に進出していた長宗我部盛親の先鋒・吉田重親が藤堂高虎の軍勢と遭遇し開戦。
 鉄砲を撃ち込まれた先鋒は壊滅し、吉田重親は本隊に伝令を出したあと討死した。
 藤堂勢は勢いに乗じて進軍したが、長宗我部盛親は川の堤防に兵を隠し、敵を十分に引き付けたところで槍部隊で突撃開始。
 これにより先陣が壊滅した藤堂勢は混乱に陥り、藤堂高刑などを討ち取った。
 しかし、若江へ進んでいた木村重成が井伊直孝らの軍勢との戦闘で壊滅し、ほどなく井伊勢が藤堂勢の援軍に駆けつけたため、長宗我部盛親は敵中で孤立し、やむなく大坂城へ退却した。

 翌日の最終決戦の際には、大坂城の京橋口を守備したため、戦闘には参加しなかったが、天王寺・岡山の戦いでも豊臣勢が惨敗したと聞くと「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残して中内惣右衛門らと逃走した。

 その後、京都八幡に潜伏していたが、家臣の中内惣右衛門に食料の調達を命じたところ、蜂須賀家領内にて食料の支払に、大阪城の小判を使用したことから、大阪方の武将が潜んでいると村人に感づかれてしまう。
 そして、5月11日、男山に潜んでいるのを蜂須賀至鎮の家臣・長坂七郎左衛門に発見されて捕えられる。
 男山の目の前は街道であり、この街道を通るだろう徳川家康を狙撃しようとしていたのではと考えられている。

 長宗我部盛親は見せしめのため、二条城門外の柵に縛りつけられた。
 この時、粗末な飯を与えられると

戦に負けて捕らわれることは恥としないが、かくも卑陋な物を食わせるとは無礼な奴。早く首を刎ねよ

 と怒ったとされ、井伊直孝が改めて大名料理を振る舞ったと伝わる。

 そして、5月15日に六条河原で6人の子女や豊臣国松と共に斬首され、三条河原に晒された。享年41。

 墓所は京都市五条寺町の蓮光寺。

 寺子屋の大男の先生として慕っていた京の人々は、長宗我部盛親の顔を見て驚いたとも伝わる。

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