長宗我部信親とは~戸次川の戦いで無念の壮絶な最期を遂げる


スポンサーリンク
スポンサーリンク

長宗我部信親(ちょうそかべ-のぶちか)は、土佐の戦国大名・長宗我部元親の嫡男として1565年に生まれました。
母は元親夫人と呼ばれる石谷光政の次女で、1563年、蜷川親長の仲介を受けて25歳の時に嫁ぎました。長宗我部元親もこの時25歳です。
また、この母は、明智光秀の重臣・斎藤利三とも親戚となります。

長宗我部信親は幼少の頃から英才教育を受け聡明であり、父・長宗我部元親からも大切にされたと言います。
また家臣や領民からの人望も厚かったとあります。

父・長宗我部元親が織田信長と誼を結ぶと、長宗我部信親の烏帽子親となったが織田信長より「信」を与えられたとされます。

元服後は、父に従って各地を転戦し、長宗我部家の跡取りとして経験を積みました。
しかし、長宗我部家は織田信長とも仲が悪くなり、1585年、長宗我部家は豊臣秀吉の四国攻めを受けると降伏し、所領は土佐一国だけ安堵となります。
このように、長宗我部家は豊臣秀吉に従いました。

九州・豊後で一大勢力を誇った臼杵城主・大友宗麟は耳川の戦いで疲弊しただけでなく立花道雪も病没し、高橋紹運も失うと、薩摩・島津家の更なる圧迫を受けます。
そのため、滅亡の危機となり、豊臣秀吉に大坂城で面会して救援を求めました。

島津義弘岡城志賀親次が頑強に抗戦したことで落とせませんでしたが、周辺の城を次々に攻略。
島津家久も堅田の戦いでは栂牟礼城佐伯惟定に敗れるも、大友勢を破り続け1586年12月には豊後の要衝・鶴賀城(下記写真の山)を18000にて包囲しました。

このため、1586年、豊臣秀吉は黒田官兵衛(黒田孝高)らに毛利家の兵を率いさせ、さらに高松城主・仙石秀久を軍監に四国勢として、長宗我部元親・長宗我部信親、十河城主・十河存保を豊後に出陣させます。
ただし、これは先発隊と言う位置づけで10万の大軍はあとから入る予定となっていました。

豊後の鶴賀城では城主の利光宗魚が討死するも、島津勢の猛攻になんとか持ちこたえていたところに、四国勢が府内城(大分城)に到着します。

仙石秀久は浄土寺(大分市王子西町)、長曾我部元親らは瑞光寺(大分市六坊北町付近?)を宿舎としました。

大友家当主・大友義統が積極的に出陣しようとしないなか、仙石秀久は、鶴賀城が島津家久に奪われないよう、直ちに戸次統常の道案内にて四国勢約6000の軍勢を進めます。

 スポンサーリンク


戸次川の戦い

こうして、1586年12月12日、戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)となります。
仙石秀久、長宗我部元親、長宗我部信親、十河存保、依岡左京、桑名太郎左衛門らは戸次川(大野川)の西岸に布陣し、鏡城(下記写真の山)に本陣を置きました。

これを見た島津家久は、鶴賀城の囲みを解いて、東岸・南にある板原山に本陣を置きました。
冬季の早朝に戸次川を挟んで両軍は対峙しましたが、この時、豊臣勢の兵力は充分でなかったことからも、黒田官兵衛らの到着を待つようにと、豊臣秀吉は仙石秀久に交戦を禁じていたとされます。

しかし、功を焦った仙石秀久(36歳)は閉塞した状況を打開しようと、長宗我部元親・長宗我部信親の反対を押し切って、戸次川(大野川)を渡りました。
立花宗茂の援軍も、府内城まであと少しのところまで迫っていましたが、大友勢本隊の到着も待たず、兵力で大幅に劣りながらも無謀な攻撃に出たと言えます。
ただし、大友義統も敗戦続きで兵の士気も上がらず、いつ戸次川に駆けつけて来るのかわからない状態であったとも言えます。

豊臣勢は冬季の渡河を強行します。
しかし、深くて流れが早いため、思うように軍勢が動かない中、なんとか日暮れまでに渡り切ったため、その付近には「日渡り」と言う地名が残っています。

無事に渡河した豊臣勢ですが、ずぶ濡れで凍える中、島津家久は得意の釣り野伏せ戦術を用います。

夕刻になって島津勢左翼の伊集院久宣と仙石秀久の間で鉄砲の撃ち合いが始まると、島津勢は敗れたふりをして後退し、勢いに乗った豊臣勢が追撃して来たところを伏兵にて撃退します。
仙石勢が深追いしたところを島津家主力の新納大膳と右翼の本庄主悦(本庄主税助)が突撃し、仙石勢はあっという間に混乱し敗走しました。

続いて島津勢は、第2陣の十河存保と長宗我部信親の部隊も包囲すると、翌13日朝までに殲滅させました。
この戸次川の戦いで、長宗我部信親と十河存保は、約2000名の兵と共に討死したとされており、大友家では戸次統常も戦死しています。

十河存保は、国元にいる嫡子・千松丸を豊臣秀吉の前に出仕させるよう家臣に頼み、敵陣に斬り込みました。享年33。
羽床城主・羽床資吉らも討死しています。
下記は十河一族の碑(十河一族慰霊碑)です。

長宗我部信親3000の兵は、島津勢・新納大膳亮5000と中津留川原にて戦ったもの、長宗我部信親は鈴木大膳に討たれました。享年22。

長宗我部信親の太刀は先端から根元まで、無数の刃こぼれでボロボロになっており、甲冑にも矢弾、太刀、槍の跡がたくさんあったとされ、袖や草摺も途中からちぎれていたと言います。
長曾我部信親に従っていた、石谷頼辰、三宮左兵衛、広井六郎右衛門、谷彦十郎、桑名太郎左衛門、森頼清、五百蔵左馬進、五百蔵六之進、依岡左京、久保貞吉、野中重治、大高坂新助、片岡光政、奥宮正家、入交蔵人と一族15名、依光越中ら700名も討死しました。
当然ですが、合戦の経緯などには諸説あることを念のため、記載しておきます。
下記は長宗我部信親の墓となります。

長宗我部元親が率いた第3陣は合戦に参加することができず、敗報を受けると、全ての馬を放棄。
長宗我部元親は自刃を覚悟しましたが、家臣の説得を受けて僅かな手勢と共に「舟」にて下り、伊予の日振島へ撤退しました。
将来を大いに嘱望していた長宗我部信親を失った父・長宗我部元親の岡豊城での生活は、ガラッと変わったと言います。

軍監である仙石秀久も諸将を残して辛くも小倉城へ撤退し、僅か20名の家臣らと讃岐へ逃げ帰っています。

戸次川の戦いでの敗北を目の前で見た鶴賀城の大友勢は降伏開城。

島津家久らは、その日のうちに大友館(大分城)を攻略開始したため、大友家当主・大友義統は家臣の柴田礼能、臼杵鎮尚、吉弘統幸、志賀親次、佐伯惟定、木付鎮直、狹間鎮秀、帆足鑑直、朽網鑑康、森鎮生、田北統員、清田正成、吉岡妙林尼らが奮戦するのを横目に逃亡。
隠居している父・大友宗麟の臼杵城へ逃れたとされます。(諸説あり)

一方、仙石秀久は敗戦の責任を問われ、領地没収の改易処分となり、高野山へ追放されていますが、のち徳川家康の仲介で大名としての復帰を許されています。

父・長宗我部元親は谷忠兵衛を使者として島津陣に遣わして長曾我部信親の遺骸の引き渡しを懇願。
島津家久もこれを認めたため、長宗我部信親の遺骨は高野山の奥の院に納められ、のち分骨したものが、高知市長浜の天甫寺に埋葬されました。

長宗我部信親の墓

上記でもご紹介致しました「長宗我部信親の墓」は、大野川の東岸にある小高い丘の上にあります。
下記の看板がある場所で、山崎台公園、地元では長宗我部公園と呼ばれているようです。

十河一族の碑(十河一族慰霊碑)もここにあり、長宗我部信親の鎧塚も近くにあります。

下記は多田一族慰霊標(多田一族の慰霊碑)です。
多田元平(多田筑後守元平、吉成五郎右衛門)は細川家の家臣でしたが、多田水軍を率いて長宗我部家に加勢し、戸次川合戦では輜重輸卒(しちょうゆそつ)を担当しました。
輜重とは輸送すべき軍需品の総称で、輸卒とは輜重の輸送に従事した兵卒と言う意味です。
この功績が認められて、多田元平は土佐湾一円の「漁業権」を与えられ、長宗我部家の家臣になっています。

戸次川にある長宗我部信親の墓がある場所は下記の地図ポイント地点となります。

上記の地図縮尺を拡大すると幹線道路から細い道がポイント地点に続いています。
その細い道の先に5台ほど止められる駐車場があり、バイオトイレ?も併設されています。

最後には高知の菩提寺・雪蹊寺にある長宗我部信親の墓をご紹介させて頂きます。

高知にある長宗我部信親の墓

四国八十八ヶ所霊場の第三十三番札所である雪蹊寺(せっけいじ)にもお参りさせて頂きました。

1599年、長宗我部元親の死後、4男・長曽我部盛親が廃寺となっていた少林山高福寺を再興しました。
この雪蹊寺の裏山が長宗我部元親の初陣となる長浜城の戦いの舞台となった「土佐・長浜城」と言う事になります。

長宗我部元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と改名しています。
下記は雪蹊寺・大師堂です。

この雪蹊寺の本堂右手の渡り廊下をくぐって、本堂の脇を抜けて奥へと進むと、長宗我部家の墓所へ行けます。

下記が長宗我部家墓所となりますが、戸次川合戦で討ち死にした「長宗我部信親の墓」と石柱が立っていました。

長宗我部信親の墓です。
山内一豊が土佐に入ると、雪蹊寺は寺領100石を与えられています。

その傍らには、戸次川の戦いで命を落として戸次川戦没者の供養塔もありました。

なお、雪蹊寺の東隣には、長宗我部元親を祀った秦神社があります。

以上、高知の雪蹊寺や長宗我部信親の墓への行き方・アクセス・駐車場に関しては、当方オリジナルのGoogleマップ「高知」編をご参照願えますと幸いです。

岡豊城と長宗我部国親の栄光~秦氏や明智との関係も
志賀親次と岡城~荒城の月の舞台でもある見事な山城の岡城
仙石秀久~武勇にも優れた情に篤い武将
長宗我部元親~5分で分かる長曾我部元親
長宗我部盛親~土佐再興に命を賭け大阪城に馳せ参じたが
大友義統とは~逃亡・改易・失脚・幽閉となった稀代の凡将?【大友氏館も】
府内城(大分城、荷揚城)を築城したのは?~大分城の訪問記
島津家久とは~釣り野伏せにて数多くの敵将を討ち取った勇将
吉弘統幸とは~最後は義を重んじた歴戦の猛者
吉岡妙林尼~見事な采配と智略で鶴崎城を奪還した女性【乙津川の戦い】
臼杵城と丹生島城の戦い~オランダ製大砲の国崩しで島津勢を蹴散らす

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 1568年に誕生した愛姫(めごひめ)の父は、三春城主・田村清顕で、母は相馬顕胤(小高城主)の娘・於北…
  2. 常高院(じょうこういん)・浅井初(お初、於初)は、1570年に小谷城にて生まれた。 父は小谷城主・…
  3. 曳馬城主である飯尾連竜(いいお-つらたつ)は、今川義元に仕えていた。 飯尾致実(いいお-のりざね)…

人気の戦国武将

  1. 安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の標高199m安土山に織田信長が命じて築城した山城(比高112m…
  2.  小山田氏の祖である鎌倉武士・小山田有信から、戦国武将で武田信玄に臣従していた小山田信茂までの「小山…
  3. 高知城(こうちじょう)は、別名を鷹城(たかじょう)とも言う、梯郭式平山城です。 江戸時代に建造され…

オリジナル戦国グッズ

限定「頒布」開始しました。無くなり次第終了です。
戦国オリジナルバック

 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

甲冑型ストラップ

戦国武将「Tシャツ」や「スウェット」その他もあり。
戦国武将シャツ

戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信可能。

ページ上部へ戻る