伊達輝宗とは~伊達家の行くすえを政宗に託した名君


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伊達輝宗の子育てや方針は、奥州を制覇する伊達政宗と言う非凡な武将を輩出しました。
そんな伊達輝宗の素晴らしき功績などに迫ってみたいと存じます。

伊達輝宗(だて-てるむね)は1544年9月に、桑折西山城・伊達晴宗の次男として誕生しました。
母は、奥州一の美女とされる久保姫(岩城重隆の長女)です。

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この頃の伊達氏は最上・相馬・蘆名・大崎・葛西ら南奥羽の諸大名を従属させていました。
しかし、当主・伊達稙宗が相馬顕胤に伊達領の一部をあげようとしたり、越後・上杉家へ伊達実元を養子として送り込もうとしたことから、伊達晴宗が反対して家中が割れ、天文の乱(てんぶんのらん)となっていました。
伊達稙宗の嫡男が伊達晴宗と言う関係です。

伊達晴宗は、中野宗時・桑折景長・牧野宗興ら重臣の支持を受け、1542年6月、鷹狩りの帰りであった伊達稙宗を捕らえて西山城に幽閉したことから、奥羽諸大名を巻き込む争いとなりました。
1547年には、蘆名盛氏が伊達晴宗に寝返り、1548年9月、将軍・足利義輝の仲介を受けて、伊達稙宗が降伏して、丸森城に隠居する形で、伊達晴宗(30歳)が家督を継承し、決着を迎えています。

伊達晴宗は、本拠地を桑折西山城から米沢城に移し、城下町の整備も開始した模様です。

この頃、伊達輝宗は5歳ですが、兄・鶴千代丸は、岩城重隆との約束によって岩城家の養子となることが決まっていたため、次男・伊達輝宗が伊達家の跡取りと目されました。

しかし伊達家では中野宗時・牧野久仲らの重臣が課税や軍役に強大な特権を持ったことから権勢を振るっており、1565年、に丸森城に隠居していた伊達稙宗が死去すると、相馬盛胤が丸森城を獲得するなど、伊達家は衰退していました。
そんな中、1564年、伊達輝宗(20歳)は最上義光の妹・義姫(16歳)を正室に迎え、さらには父・伊達晴宗が隠居したことから、家督も継承します。

ただし、伊達家の実権は引き続き父が持っていたようで、伊達輝宗は父・伊達晴宗としばし対立もしていますが、1566年には蘆名盛氏と和睦し、ひとまず伊達家の心配事を排除しました。
1567年8月3日、梵天丸(伊達政宗)を義姫(19歳)が生み、片倉喜多が乳母となり養育をします。

伊達輝宗はは嫡男・伊達政宗の教育にとても熱心だったようで、元亀3年(1572年)には、甲斐・恵林寺快川紹喜の弟子・虎哉宗乙禅師を招いて教育に当たらせています。
他にも、儒学者・僧などを米沢城に招いたほか、さらに片倉景綱・屋代景頼・湯目景康ら優秀な若手家臣を家中から選んで、早くから伊達政宗に仕えさせました。
この高等教育があったからこそ、のち伊達政宗の活躍があったと言っても過言ではないでしょう。

1570年4月、伊達輝宗は、小梁川盛宗らを処罰して先代の勢力を排除し、謀反の疑いがあった中野宗時・牧野久仲の父子を追放すると、伊達晴宗を杉目城に閑居し、伊達輝宗が権力を掌握しています。
鬼庭良直を評定役に抜擢したほか、謀反をいち早く報告した中野宗時の家来・遠藤基信を直臣に取り立てて外交を担当させるなど、有能な人材の適材適所も行いました。
伊達晴宗との確執も改善されています。

そして、1579年には田村清顕の娘・愛姫(12歳)を嫡男・伊達政宗(13歳)の正室に迎えて、相馬盛胤・相馬義胤をけん制、1583年には丸森城の奪還に成功。
相馬家との停戦をまとめ、伊達家は伊達稙宗の頃の勢力11郡をほぼ回復していますので、伊達輝宗も優れた武将と言えるかと存じます。

1584年10月、伊達輝宗(41歳)は隠居して、家督を伊達政宗に譲ります。

この時、刃傷沙汰により死去した蘆名盛隆の子・亀王丸(生後1ヶ月)の後見となったこともあり、伊達輝宗は隠居して、修築した舘山城に移りました。

以後は、伊達政宗が独自の考えで伊達家を成長させて行きますが、伊達輝宗は、そのやり方にあまり口出しをしたようには見受けられません。
父からは実権を握られ、思うように進められなかった苦い経験を、わが子にはしなかったとも言えるでしょう。
そのため、伊達政宗は、父の戦略方針とは異なる、急激な方針転換を図り、強硬に周辺国にも対処して行きました。

特に、伊達家に降伏した二本松城主・畠山義継は恨みが募っており、宮森城に滞在していた伊達輝宗を人質に取ってしまいます。
鷹狩りをしていた伊達政宗は、急ぎ二本松義継を追跡し、高田原にて補足しますが、二本松勢と父・伊達輝宗に対して「鉄砲」を放ち、伊達輝宗もろとも二本松勢をひとりも残さず殺害したとされます。(粟之巣の変・高田原の変)
伊達輝宗、享年42。

伊達輝宗は壮烈なる死を遂げましたが「自分を気にして家の恥をさらすな。わしもろとも、こ奴を撃て」と叫び、自らの命を顧みず、伊達家の行く末を心配したと言われています。
※もちろん諸説あり。

伊達輝宗の亡骸は寿徳寺(慈徳寺)で荼毘に付され、資福寺に埋葬されました。

このように伊達輝宗は、伊達家が四面楚歌の中、家柄や身分を問わず優秀な家臣を取り立て、外交工作も行い勢力を回復させました。
そのため家臣の忠誠心も高く、遠藤基信が墓前で殉死するなど家中では殉死が相次ぎ、慌てた伊達政宗が「法度」を作って、自刃するのを禁止したほどであり、人望厚い名君であったと言えるでしょう。

ただし、伊達輝宗が亡くならずまだ生きていたら、急性すぎる伊達政宗の方針についていけない家臣や周辺国は、反乱したり、より強固に抵抗したかも知れませんので、そのあたり、皆様はどのようにお感じになられるか?、ご意見も聞きたいところです。

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