藤田信吉~直江兼続と活躍し大名までになった武将


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 藤田信吉(藤田能登守信吉)(ふじたのぶよし)
 幼名:弥六郎・重信・源心、能登守。1559年~1616年8月26日

 関東管領・山内上杉家→北条氏→武田氏→上杉氏→徳川氏と戦国を渡り歩いた名臣で直江兼続と同年代の武将・藤田信吉について出来る限り詳細に調べてみました。

 藤田信吉は秩父・長瀞にある天神山城主・藤田重利と西福御前の次男として1559年生まれたとされている。幼名は弥六郎。なお藤田姓ではなく小野姓も見られる。
 この藤田氏は武蔵国北西部を地盤とした関東七党の一つ「猪俣党」の出であるとされる。また、別説には畠山重忠の末裔という説もある。滝山城主の大石氏とも姻戚関係があった。
 戦国時代初期の藤田氏は関東管領・山内上杉家に従い1531年~1540年頃に天神山城を築き、約400年も本拠地とした花園城から居城を移した。しかし、1546年川越合戦で上杉憲政北条氏康に破れると武蔵の北にまで勢力を伸ばしてきた北条氏康に父・藤田重利は1549年7月北条氏康に従属。
 そして、年代はよくわかっていないが、藤田信吉の姉・大福御前の婿養子に北条氏康の3男・北条氏邦(北条氏吉)を迎えて、北条氏邦が藤田家の家督を引き継ぎ藤田安房守(藤田氏邦)を名乗り、事実上、藤田重利は隠居。天神山城と花園城が藤田氏邦(北条氏邦)のものとなるが、恐らく藤田氏邦(北条氏邦)は10歳未満だったと考えられ、筆頭家老・岩田対馬守が実質実務を担当したようだ。
 北条氏康は滝山城の大石氏を配下に加えた際にも同様に実子を養子として送り込んでいる。
 藤田重利は寄居に用土城を築き居城を移して用土新左衛門を称し、名を重利から康邦(氏康の「康」と氏邦の「邦」)に改め、用土康邦と改名した。
 その後1560年に上杉謙信が関東侵攻を開始すると用土氏は一時上杉勢に加担するが、1560年9月北条氏康に攻められて天神山城は落城したと言う説もある。
 なお、北条氏邦はのちに1568年末に本拠地を天神山城から要害堅固な鉢形城に移し、天神山城には北条氏光が入ったとされている。
 用土康邦没後は藤田氏邦(北条氏邦)の小姓として仕えていた藤田信吉の兄・用土重連(藤田重連)が用土家の跡を継いだ。

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北条家臣から武田家臣へ

 1578年5月、上杉謙信の死去したが、後継者を指名していなかったことにより越後で家督争い「御館の乱」が勃発した。越後が内紛状態になると、越後に養子に出した北条一族とされる上杉景虎に家督相続させる支援すると言う目的も重なり、北条氏政は混乱している上杉支配下の沼田城を攻撃。鉢形城主・藤田氏邦(北条氏邦)ら30000を派遣し沼田城を占領する。また、北条勢の一部は三国峠を越えて越後領内に進入したが、本隊は雪の為進軍できず、結果的に御館の乱は武田勝頼と手を結んだ上杉景勝が勝者となる。
 北条氏政は奪った沼田城代に猪俣邦憲、城将に藤田重連、金子泰清(金子美濃守)らを置いたが、少しして藤田重連が藤田氏邦(北条氏邦)に毒殺される事件が起こる。
 藤田重連と藤田氏邦(北条氏邦)の間には長年の確執があったのだろう。藤田重連の後任には藤田信吉が置かれた。
 一部の説では、北条氏邦が城代に選ばれなかったから毒殺したとあるが、その理由には疑問点が残る。占領した沼田城の筆頭城代には猪俣邦憲が選ばれており、猪俣邦憲は北条氏邦の奉公人から城持ち武将まで北条氏邦が出世させた北条氏邦が信頼する配下の重臣と考えら、上州方面軍を任されていた北条氏邦自ら城代に選んだとも考えられる。また、藤田重連を亡き者にしたあと後役は順当に藤田重連の弟だった藤田信吉が着任しているので、藤田一族を阻害したり、藤田氏起用を妨害したとも考えにくい。
 この事を考えると、北条氏邦は単に藤田重連を嫌っていたのか、2人の間に確執があったのか、謀反の疑いを持ったのだと考えるのが自然だと思う。また藤田信吉自身も暗殺されそうになったと言う説もある。
 さて、上杉景勝と同盟を結んだ武田勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命じる。真田昌幸はまず城将の藤田信吉、金子泰清らに調略をしかけた。そして1579年、岩櫃城から進軍。名胡桃城主・鈴木主水重利と小川城の小川可遊斎も武田に内応し、名胡桃城と小川城などが武田のものになった。
 北条氏は11月21日に猪俣邦憲らを先鋒に5000で名胡桃城と小川城の奪回を目指したが、小川可遊斎らが撃退。そして、大雪のため行動が取れず鉢形城に退却した。
 1580年1月11日、真田昌幸は名胡桃城で軍議を行う。そして、1月31日に明徳寺城を攻略し、沼田周辺に放火してあと、名胡桃城に引き返した。この後、真田昌幸は沼田城攻略軍を叔父の矢沢城主・矢沢綱頼に任せ一旦甲府に戻る。

 1580年3月、矢沢綱頼は沼田城を包囲する。4月上旬、真田昌幸が名胡桃城に入ったところで金子泰清、渡辺左近允らが投降。そして5月になると沼田城の藤田信吉も武田に投降し、5月18日、真田昌幸は無血で沼田城に入城し、6月30日藤田信吉は沼田城をあとにしている。

 

 以後、藤田信吉は武田勝頼の家臣として真田昌幸に仕えた。はじめ用土・小野姓を称してようだが、沼田城開城の恩賞として12月に武田勝頼から藤田姓と能登守を賜り、上野国沼田や南雲に5700貫の所領を拝領した。
 そして1581年頃には沼田城代にもなっていたようで、会津に逃れていた旧沼田城主・沼田景義が沼田城奪回を目指し大胡氏・那波氏らの加勢を加えて3000の兵で挙兵し、田北の原の戦いで藤田信吉と海野勢は負けたと言う一面も見られる。沼田衆には旧城主の沼田氏に参陣する者も多かったようだ。しかし、真田昌幸の計略により不意打ちを受けた沼田景義は討死し沼田氏は滅亡している。

武田家臣から上杉家臣へ

 武田家臣として活躍するまもなく、1582年、武田勝頼が織田勢によって滅ぼされる。
 そして藤田信吉は沼田を去り、越後に逃れた。逃れた理由は滝川一益に沼田領を奪われた、滝川一益に反発したなど諸説ある。また、越後に逃れたのは武田が滅亡したあとなのか、本能寺の変のあとすぐなのか、滝川一益が前橋に入ってからなのか、滝川一益が北条氏直に敗れて伊勢に逃げてからなのか、真田昌幸が沼田城を占拠してからなのか、1582年の上野国は変動が激しく、藤田信吉が沼田を去った時期がわからない。
 まずは1582年の沼田を取り巻く上野国の動向を記載する。
 1582年3月武田滅亡後、織田信長は武田征伐で一番戦功があった滝川一益に信濃国の佐久・小県と上野国一国を恩賞とした。滝川一益は関東方面軍の指揮を任され同3月箕輪城に入る。そして富岡・小林・高山・倉賀野・内藤・小幡・和田・由良などの上野在地武士を掌握すると5月に拠点を厩橋城に変更した。自身、関東管領を称したとも言われている。藤田信吉が属していた真田昌幸も滝川一益の傘下に入ったが、沼田城には滝川一門の滝川益氏が入り沼田城主となった。
 しかし、1582年6月2日、本能寺の変が起き、滝川一益は6月9日に早馬で知る。滝川一益は明智光秀を討つ為、兵を厩橋城に集めて16000の兵力で6月16日出発し倉賀野城に入る。しかし、上野奪回の為、北条氏直が56000の兵を進めている知らせが入り、6月18日に神流川の戦いとなった。関東で最も大きな野戦である。初戦は滝川勢8000が先鋒の北条氏邦勢3000を攻撃。鉢形衆300騎あまりや北条氏直の近侍衆だった石山大学・保坂大炊助などを討ち取るなど、滝川勢が優勢だったが、翌6月19日には、北条本隊が到着。敵が大軍とわかると上野衆は戦意喪失。滝川一益の旗本のみで戦うが深追いをして4000の兵や重臣・笹岡平右衛門を失う大敗を喫し、箕輪城へ退却。上野衆も各拠点へ退却した。
 そして、滝川一益は箕輪城からすぐさま碓氷峠を超えて小諸に入り木曽を経由し、滝川家本拠地の伊勢に逃亡してしまう。それを好機とし、真田昌幸は旧領の沼田城をなんなく奪還した。
 一方、滝川勢に勝利した北条勢の軍は前橋から信濃に侵入して、真田昌幸を圧迫する。真田昌幸は7月12日に北条に臣従した。
 その後、真田昌幸は9月に徳川家康に臣従し、1585年には上杉景勝に臣従している。
 しかし、1583年8月に、上杉景勝が新発田城を攻めた際、藤田信吉の名が見られるので、1583年には既に上杉家臣になっていたことを考えると、やはり1582年に上杉家臣になったと考えるのが妥当だ。
 小生が色々と調査した結果の考えでは、藤田信吉が越後に逃れた時期は1582年6月の神流川の戦いの直後と判断した。神流川の戦いには恐らく参戦していただろう。しかし北条氏直に滝川一益が破れると、帰陣の際その足で手薄となっている沼田城を攻撃したのだろう。しかし、滝川益氏の家臣の反撃にあい、藤田信吉は越後の上杉景勝を頼って逃れたと考える。
 いずれにせよ、上杉景勝は正室が武田信玄の娘・菊姫と言う事もあり、武田遺臣を迎え入れていたことから、藤田信吉も快く上杉家臣として受け入れ、その後、上杉家臣として活躍することになる。

越後での活躍

 上杉景勝の配慮で越後・長島城主だった吉江資堅(吉江喜四郎資堅)の未亡人を娶り長島城主となり、藤田信吉は2808石を知行。藤田一党は武蔵衆と呼ばれ軍役165人と記録があり、上杉家臣としては20位の地位であった。そして、新発田攻めでは最前線でほぼ同年代の直江兼続らと戦上手として、疲弊した越後を救う活躍をした。
 1585年、上杉と敵対していた豊臣秀吉石田三成ら僅かな手勢にて越後・越水城にて上杉景勝と面会した際に、上杉景勝に同行した人物に直江兼続と藤田信吉の名も見られる。
 1586年には豊臣秀吉より上杉氏に佐渡国制圧の命が下り、直江兼続らと共に遠征し戦功を上げる。羽茂高持、佐原利国らを 4度に渡り破り、平定に最大の貢献をした。
 1587年、新発田重家討伐の戦いにおいては新発田勢の五十公野氏が篭城する五十公野城を包囲。藤田信吉は場内に内応者を作り城門を開かせ総攻撃し落城させた。
 
小田原遠征軍での活躍

 1590年の豊臣秀吉小田原征伐が始まる。藤田信吉は北国軍上杉勢の先鋒として働き、城主・小幡信定が小田原城にあって留守だった、上野は下仁田の国峯城を4月17日落城させ、前後して宮崎城も藤田信吉が攻略。北国軍は4月20日に松井田城も攻略し南下を続けた。
 一方、北条氏邦は1月20日に行われた小田原城の小田原評定にて主戦論を主張したが、籠城策が取られることになり、北条氏邦は鉢形城へ戻って3000の兵で守備を固め、天神山城、虎ケ岡城八幡山城などの支城にも兵を配置した。

 北国軍(前田利家、上杉景勝、真田昌幸など)は、更に南下し80000(50000とも)の兵で鉢形城を5月20日に包囲。豊臣秀吉はなぜ早く攻撃しないのかと再三催促した中、6月11日総攻撃を開始。北条氏邦は荒川を堰き止めて、北国軍が川を渡ると一気に押し流すなど、知略の限りを尽くして戦ったが、藤田信吉は鉢形城を知り尽くしており、有利な車山から本多忠勝らが大砲を撃ち込むなどした。そして、藤田信吉はかつての義兄を説得する為、自らの故地で行動する。6月12日、藤田信吉や北条氏邦にとっても菩提寺である正竜寺の良栄大和尚に開城して降伏するよう北条氏邦の説得を依頼。北条氏邦は城兵の命と引き換えに6月13日降伏。北条氏邦は剃髪して僧衣をまとい、供の者僅か9人で前田家の陣へ下ったとされる。ここに鉢形城は開城し、以後、廃城となっている。
 前田利家、上杉景勝らはすぐさま小田原に出向き、6月18日、豊臣秀吉に拝謁し鉢形城落城を報告したが、攻略に日数が掛かったことを豊臣秀吉は怒り、すぐに八王子城を攻撃し、しかも一人残らず虐殺するようにとの厳命を受けた。
 現在に置き換えて考えてみる。仮に1日3回食べるのに安く見積もって食費1人1日1000円としても、50000の兵で1日5000万円。1ヶ月で15億円の軍資金が必要となる。もちろん各大名や兵個人の負担で豊臣秀吉が全額負担したとは考えにくいが、軍事作戦はすでに4ヶ月目であり、全体で20万動員していたのだから最低でも約240億円もの費用を費やしていたことになる。実際にはもっと多いだろうから、豊臣秀吉が少しでも早く戦を終わらせたかった気持ちはよく分かる。
 ちなみにアメリカがイラク作戦で捻出した軍事費は100兆円にもなるので戦争はお金が掛かる・・。
 話がそれてしまい申し訳なかったが、その後、北国軍は6月23日に八王子城を総攻撃し八王子城の悲劇が起こったのは有名な話である。そして、小田原城は7月に開城することになった。八王子城攻めでは藤田信吉が調略し一番乗りを果たしたと言われる。

朝鮮出兵、そして会津転封から出奔

 1591年頃には、上杉景勝や直江兼続が上洛した際、藤田信吉は越後の守りを任されるまで上杉家臣として重要な地位にまでなっていた。
 1592年の豊臣秀吉朝鮮出兵の際にも上杉景勝に直江兼続らと共に従い上杉勢は5000の兵で朝鮮に渡る。
 上杉勢は春日山城を3月1日に出発。3月17日に京を出て、3月22日には肥前名護屋での茶会参加が見られる。
 肥前名護屋には約2ヶ月滞在。6月2日には朝鮮に渡り、6月17日釜山浦に着岸した。上杉勢は熊川城を築城し従軍する。ただし、この戦は無益と直江兼続は、自軍に対し、財貨の略奪などを厳しく戒めたいたと言う。
 朝鮮で年越ししても戦は続いたが、上杉勢は病気に悩まされ、藤田信吉勢は310名中、44名が病で亡くなった。
 上杉勢はようやく1593年9月8日に肥前名護屋に帰陣。上杉勢は朝鮮で病気に苦しめられ、藤田信吉勢310人の内、44人が病を煩った。豊臣秀吉はすぐに越後に帰国し休養するように上杉勢に命じている。
 1594年頃の藤田信吉は知行高2808石3斗9升9合7勺、軍役160人半。
 1598年の豊臣秀吉の命により上杉氏が会津転封となった際、藤田信吉は越後との国境で要所でもある会津・津川城主となり11000石を領し、家中10位の地位まで登った。しかし、津川城に入ったのもつかの間である同年に関白・豊臣秀吉が死去する。
 藤田信吉は上杉景勝の弔問使や新年祝賀の代理となり大坂へ赴いたが、その際、徳川家康本多正信から上杉景勝が徳川に味方した方が「利」があると諭され、以後、上杉家中で石田三成よりも徳川家康に味方するよう「義」よりも「利」を唱えた。
 しかしながら、上杉景勝と直江兼続は豊臣との「義」を重んじていた為、上杉家としては石田三成と懇意であることに変わらず強行姿勢であり、説得に失敗した藤田信吉は孤立し、急速に居場所を失っていった。その結果、謙信の二十三回忌法要へ参加せずに1600年3月、大森城主の栗田形部と上杉家を出奔する。(直江兼続に命を狙われた為、追放されたなど諸説有)
上杉景勝は岩井信能に2人を追わせるが、栗田形部は伏拝坂で討ち取られ、藤田信吉は逃がれた。家族は皆殺しにされたと言う。また藤田信吉の家臣も行き場を失い、斎藤兵部は伊達氏に寝返るなどした。
 藤田信吉は関東の徳川秀忠を頼った。その際、徳川家康に上杉景勝は軍備増強をしていると讒言し、徳川家康の上杉征伐の一因になったとも言われているが確かな証拠はなく、藤田信吉は上杉景勝を救おうと大阪に何度も出向いて弁護する行動も見受けられる。
 いずれにせよ、1600年、徳川家康は上杉征伐の為、50000の軍で伏見を出発。その間、石田三成が挙兵し、関が原の戦いにとなった。結果、上杉氏は120万石から30万石に減封となった。

徳川家臣で大名になる

 会津を出てから藤田信吉は剃髪して「源心」と号して京・大徳寺に蟄居していた。関が原後、徳川家康より下野・那須10万石を与えると言われたが辞退している。
 
しかし、その後還俗し徳川家康に仕えると大名として下野・西方藩主として15000石を与えられ、藤田重信と改名した。西方では城下町の構築や治水工事をするなど藩政にも力を注いでいる。
 佐竹氏が秋田へ国替えになった際には、水戸城を守備し水戸に残っていた反対派を捕らえるなど徳川家康の家臣としても名を残した。
 この頃になると10年以上戦乱がなく、藤田重信(藤田信吉)のような実戦経験豊かな武将は貴重な存在となっており、1615年、大坂夏の陣では当時25歳前後だった榊原康勝勢の軍監を命じられた。しかし、軍勢を戦に参加させず真田幸村の猛攻を受けた責めを負い、信濃に蟄居。藤田重信(藤田信吉)に恨みを持つ上杉などの陰謀もあったとされる。
 そして、失意のまま翌年1616年7月14日、信濃は木曽の奈良井で没する。享年58歳。嗣子はなかったとされ除封となり下野・西方藩も1代で廃藩。藤田家は断絶した。
 大坂夏の陣で戦傷を負ったのが死因とも言われるが、一説には、大坂の陣の戦功評議の場での失言を咎められた事を悩んだとも言われ、近年では自殺説が有力である。

 藤田信吉は北条氏を裏切り、結果的に上杉氏からも離れ、上杉氏を窮地に追い込んだが、ある意味、豊臣秀吉の亡き後、徳川と豊臣の戦いになれば、徳川有利と先を読んでいたとも考えられ、上杉氏存続のために最後まで尽くしていた。自領や家を守るためで、私利私欲から内応したとは考えにくく、評価が分かれるところである。

豊臣勢に敗れた北条氏邦らのその後

 小田原北条滅亡時、北条氏邦の側室に前田慶次郎の娘がいたことから前田利家の助命嘆願で、剃髪することで豊臣秀吉に一命を許され、能登国津向(七尾)に知行1000石を得て前田家お預けとなった。その後、1597年加賀金沢にて病没。享年57歳。
 北条氏邦の正室で、藤田信吉の姉でもある大福御前は小田原にて人質となったが、その後尼となって鉢形に戻ったものの1593年6月9日に死去した。普門千部読誦の発願を千日間なし、その満願の日に自刃したともの言われている。享年52。北条氏邦はその報を能登で知らされたのであった。

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