深沢城の戦い 武田信玄の駿河侵攻 信玄塚

深沢城の戦い

戦国時代小田原城北条氏と、甲斐の武田氏が争いましたが、静岡県御殿場市の駿河・深沢城近くでも、度々「合戦」となりました。
1568年12月6日に、武田信玄は甲相駿三国同盟を破棄して、今川義元のあと衰退した今川家の駿河へ12000にて侵攻します。
今川氏真掛川城に逃亡すると武田信玄は、12月13日に今川家の本拠地「駿府」を占領し、久能山城を築城開始すると板垣信安を配置しました。


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この時、北条氏康の娘・早川殿は、徒歩で掛川城へ逃げることとなり、武田信玄の扱いに怒った北条氏康は、今川氏真との同盟を維持。
北条氏政が援軍として、12月12日に駿河へ出陣し、伊豆の三島まで兵を勧め、駿東の拠点を押さえます。

同時期に、武田家と話を合わせていた岡崎城主・徳川家康も、井伊谷城・白須賀城・曳間城(浜松城)を攻略して、12月27日に掛川城を包囲しました。

1569年1月26日、北条氏政らが薩埵峠(さったとうげ)に布陣したため、武田勢は興津にて対峙し、3月13日に薩埵峠で小競り合いもしますが決着はついていません。

一方で、穴山信君が、今川家臣の富士兵部少輔(富士信忠)が守る駿河・大宮城を攻撃しますが、北条家の援軍もあり落とせず、武田信玄は甲府への帰路を確保するべく横山城を改修して、久能山城の築城を開始し、のちに久能山城が完成すると穴山信君(穴山梅雪)が移っています。
4月28日、横山城と江尻城に兵を残し、穴山信君に任せると、武田信玄は興津から甲府に撤退しました。


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そして、武田信玄は織田信長を通じて将軍・足利義昭の仲介による、越後の上杉謙信と同盟を試みていますが、武田勢が撤退したあと、手切れとなっていた徳川家康に駿府まで侵攻されてしまいました。
北条家は今川支配下であった興国寺城と葛山城などを手に入れ、掛川城にいた今川氏真を小田原城にて保護すると、6月9日には北条氏政と上杉輝虎(上杉謙信)が越相同盟を結んでいます。

以上が、第一次駿河侵攻で武田信玄は、今川家を滅亡させましたが駿河の支配を確立できませんでした。

第二次駿河侵攻

北条氏政(北條氏政)は深沢城の築城を開始すると、北条綱成と松田憲秀に守らせますが、再び武田信玄は駿河に入ると、1569年6月12日に深沢城を攻撃しました。
この時、深沢城は落ちなかったため、武田信玄は矛先を変えて、大宮城(富士市)を7月に攻略するに留まります。
大宮城主には原昌胤が任命されており、富士郡支配は原昌胤や市川昌房が務めました。

深沢城周辺から望む富士山

北条家の戦力が駿河に集中しては、武田の駿河侵攻は難しいと考えた武田信玄は、甲府に戻ると8月24日に2万の軍勢で出陣し、今度は、北とへ進軍します。
そして、碓氷峠を越えて、北関東に侵攻すると、南下し、松山城、滝山城と北条勢の関東拠点を攻撃しつつ、10月1日には小田原城を包囲しました。
そして、4日後の10月5日に小田原城下に火を放ち、軍勢を引き上げると、10月8日に三増峠の戦いと言う激戦になっています。


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この間、将軍・足利義昭から武田と和睦せよとの命を受けた上杉謙信は、同盟を結んだ北条家から再三の武田領内への侵攻要請を断り延期するなどしたため、2年後に北条家が上杉家と手を切って武田家と再同盟する遠因となっています。

第三次駿河侵攻

こうして北条氏政を抑えた武田信玄は、甲府に戻ると、またすぐの1569年11月に駿河に再び侵攻し、横山城、蒲原城などを落として駿府を再占領。
不利になった北条家は、普段は課役しない寺社領にまで人足を出させて、深沢城の普請などを行っています。

そんな中、武田信玄は1570年1月には駿河西部に進出し、花沢城と徳之一色城(駿河・田中城)を落として、駿河を完全に支配下に置いたのでした。
田中城には山県昌景が入り、改修していますが、徳川家康は本拠を移して浜松城の築城を開始しました。

なお、この間、深沢城も一旦武田勢が攻略し、駒井昌直(駒井政直、駒井右京之進昌直)が入り、足柄城河村城・大仏城山・湯ノ沢城・中川城も落城したと伝えられています。
しかし、1570年4月に北条氏康・北条氏政は38000にて深沢城を奪還したと推測されるため、足柄城や河村城、中川城なども奪還したのでしょう。


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1570年8月になると、伊豆の韮山城にまで武田勢は侵入し、12月には再び深沢城を攻撃したため、北条家は世田谷城主の吉良家の家臣。江戸氏らに出陣を命じています。
北条氏政の自ら援軍として深沢城の後詰をするため、1571年1月10日に出陣しますが、深沢城は残り「一曲輪」(本丸のみか?)となり、1月16日に北条綱成は降伏開城して、足柄城へ撤退します。
この時、武田勢は金堀衆(かなほり)を動員して、深沢城の本城外張(ほんじょうとばり)まで、掘り崩した模様で、のちに金山衆は各種税の免除が特権として与えられています。

なお、深沢城を失った北条家は相模防衛の最終ラインとして、足柄城と河村城の改修を行っています。

北側から望む深沢城
※光が差し込んでしまっていますが、北側から見た深沢城

武田信玄は深沢城を修復し、駒井昌直(駒井政直)を深沢城主とすると、足柄城の偵察などを命じられています。

1571年10月3日に北条氏康が死去した際「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したとされ、12月27日、北条氏政は武田信玄と同盟しました。

その後、深沢城には駒井昌直(駒井政直)の他、駒井宮内大輔、内山城主・小山田虎満の子である小山田大学助も在城したことが伺えます。

1573年、三方ヶ原の戦いで勝利した武田信玄も病にて没し、1575年には武田勝頼長篠の戦いで敗れ、1578年には、越後の御館の乱にて、甲相同盟は再び崩壊します。


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そして、1579年8月、武田勝頼三枚橋城(沼津城)を築城し、小笠原信嶺、高坂源五郎(春日昌元)、曽根昌長、堀内政豊らを配置すると、再び最前線の深沢城にも緊張が走ります。

特に、1581年10月には、北条家の伊豆・戸倉城主である笠原政堯(更科六兵衛のモデル)が、武田家に寝返っています。

しかし、1582年に2月に武田滅亡となると、深沢城の将兵は逃亡し、その後、深沢城は駿河を制した徳川家の支配下となったようで、1584年の深沢城主は、徳川家の譜第の家臣・三宅康貞と見受けられます。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにて、箱根山中城や足柄城が陥落すると、深沢城は役目を終え破却されました。

信玄塚

深沢城の東側のほうに「信玄塚」(御殿場市)があります。
どの合戦でなのか?、それとも全部の攻撃の際なのか?、わかりませんが、武田信玄が本陣を置いたとされる、小さな古墳のような丘になっています。

信玄塚(御殿場市)

別途、駿河・深沢城の記事もございますので、あわせてご高覧賜りますと幸いです。

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