細川ガラシャの悲しい生涯を知って頂きたい(明智珠、明智玉)


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細川ガラシャ(明智珠、明智玉)は、1563年に越前で誕生した。
父は明智光秀で、母は明智光秀の2番目の妻である妻木煕子(つまきひろこ)。

明智光秀は美濃の斎藤道三に仕えていたが、1556年の斎藤道三・斎藤義龍父子の争い(長良川の戦い)で、斎藤道三が自害すると、母方の若狭の武田義統を頼り、のち越前国の朝倉義景に仕えていたので、その越前・朝倉義景に仕えていた際に、明智珠(細川ガラシャ)は誕生したのだろう。

母である妻木煕子は、妻木城主・妻木広忠の娘で
1553年頃、明智光秀の継室になったようだ。
浪人生活、朝倉家・足利家・織田家仕官という多難な日々の中で、明智煕子は自分の黒髪を売って、明智光秀を助けたと言われている。
明智光秀も、煕子が1576年に亡くなるまでは側室を置かず大切にした。
明智光秀が1573年に織田信長の直臣になり坂本城主になると、妻木広忠は与力として明智家を盛り立てた。

1578年、明智珠が15歳の時、織田信長のすすめによって、丹後の宮津城主・細川藤孝の嫡男・細川忠興(15歳)に嫁いだ。

この時、織田信長の命により細川家は九曜を家紋とした。
以前、細川忠興が、織田信長の小刀の柄に九曜が描かれているのを大変気に入っていたことを、織田信長が覚えていたためと伝わる。

珠は美女であったとされ、細川忠興とは仲のよい夫婦となり、1579年には長女・おちょう、1580年には長男・細川忠隆など、3男2女が生まれている。
細川忠興は、明智珠の美しさに見とれた植木職人を手討ちにしたという話もある。

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細川忠興は大変な戦上手で、政治家としても優れており、1581年の織田信長・京都馬揃えにも若年ながらも、一色満信らとともに参加を許されている。

しかし、明智珠が細川忠興に嫁いで僅か4年の1582年6月、明智光秀が織田信長を落命させた本能寺の変が起こる。
明智光秀は、当然、親戚である細川藤孝と細川忠興に、味方するよう書状を送ったが、細川藤孝は拒否。細川藤孝は剃髪して幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号して田辺城に隠居、細川忠興に家督を譲った。
明智珠は離縁されてもおかしくない状況であったが、細川藤孝(細川幽斎)は丹後・味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉し、累が及ぶのを避けた。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている。

細川家の協力も得られず、明智光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、窮地に陥った明智光秀は、山崎の戦い(天王山の戦い)で羽柴秀吉・池田恒興らに負けて、敗死した。

逆臣の娘となり幽閉された明智珠は、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘)らの侍女が世話をした。
1584年3月、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の計らいもあり、細川忠興は、明智珠の幽閉を解き、細川家の大阪屋敷に移した。
この年、細川興秋が誕生している。
明智珠は、出家した舅・細川幽斎とともに禅宗を信仰していたが、細川忠興が高山右近から聞いたキリスト教の話をすると、その教えに心を魅かれていったようだ。
 
1586年、細川忠利(幼名・光千代)が生まれたが、生まれつき病弱で、明智珠は日頃から心配していたと言う。
1587年2月11日、細川忠興が豊臣秀吉の九州征伐で出陣すると、彼岸の時期である事を利用し、侍女数人と供ら身分を隠して教会に行った。
教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、明智珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。
コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。
明智珠は、その場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からない。
身なりなどから高い身分である事を察してもいたので、この日の洗礼は見合わさられた。

留守を守る細川邸では、侍女の帰りが遅いことから明智珠が外出した事に気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰ったと言う。
この時、教会の若者が尾行して、彼女が細川家の奥方であることを知った。

これ以降、厳しく監視され、外出する事が困難となった為、明智珠は洗礼を受けないまま、侍女たちを通じて教会とやり取りし、教会から送られた書物を読むことによって。キリスト信仰を深めていった。
この時、清原マリアら、侍女たちを教会に行かせては洗礼を受けさせている。

1587年6月19日に、豊臣秀吉がバテレン追放令を出すと、イエズス会宣教師たちは長崎の平戸に集結する事となり、明智珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸で、清原マリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。
この時、3歳の細川興秋も受洗を受けている。

それまで、明智珠は気情が高く、怒りやすい性格だったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったと言う。
なお、洗礼を受けたことは、バテレン追放令が発布されていた経緯もあり、夫・細川忠興にも改宗したことを告げなかった。

しかし、1595年に、細川ガラシャは改宗を告白して、屋敷内に小聖堂を造り、次女・たらも洗礼を受け、翌年には長女・おちょうも受洗を受けた。
細川忠興は禁教令発布直後にキリシタンになったのを知ると激怒し、侍女の鼻をそぎ、さらに細川ガラシャを脅迫して改宗を迫ったとも言われており、細川忠興は5人の側室を持つと言い出すなど、細川ガラシャに対して辛く接するようになったと言う。
細川ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けたが、キリスト教では離婚は認められないと悟られ「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説得された。
ただし、朝鮮出兵中、細川忠興は細川ガラシャに何通もの手紙を書いているが「秀吉の誘惑に乗らないように」と、豊臣秀吉に見初められるのを警戒するようにとしたためた文書だったとも言われる。

1598年8月に豊臣秀吉が死去すると、細川家は徳川家康に誼を通じた。
1599年には加藤清正福島正則加藤嘉明浅野幸長池田輝政黒田長政らと共に、細川忠興も、石田三成襲撃に加わっている。
徳川家康は、細川家に丹後12万石に加え、九州豊後・杵築60000石を加増した。

1600年、細川忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣。細川忠興は大阪屋敷を離れる際「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺して、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と、屋敷を守る家老・小笠原秀清、河喜多(川北)石見一成、稲富祐直たちに命じた。
武家の習いとしては、他家でも同様に命じていた時代である。

この隙に、石田三成は挙兵すると、まず、徳川家康に味方している武将の奥方を人質にと考え、大阪屋敷に滞在していた加藤清正の正室・徳川家康の養女、黒田官兵衛の正室・光姫(幸円)、黒田長政の正室・保科栄姫、細川忠興の正室である細川ガラシャを人質に取ろうした。

7月16日に、石田三成の使者が細川邸を訪れたが、細川ガラシャは使者に屈せず拒否。
拒否された石田三成は翌日、実力行使に出て兵で細川屋敷を囲んだ。
これを受けて、細川ガラシャは屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り、自分だけが死にたい」と言い、侍女たちを屋敷から逃亡させた。
キリストの教えでは自殺も禁止されているため、家老の小笠原秀清(小笠原少斎)が、細川ガラシャの胸を長刀で突いて介錯した。(享年37)
そして、細川ガラシャの遺体が残らぬよう、屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて、小笠原秀清らは河喜多らと共に自刃。

辞世の歌は「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」

黒田官兵衛の正室・光姫(幸円)、黒田長政の正室・保科栄姫は、細川邸から火の手が上がった隙に、石田三成の包囲を突破して、九州に逃亡する事に成功している。
正室が自害しては、細川忠興ら諸将を憤慨させるだけでなく、石田三成の評判にも影響すると判断し、すぐに石田三成は人質作戦を中止した。

細川ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは、細川屋敷の焼け跡から細川ガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬ったと言う。
細川忠興は、死を選んだ細川ガラシャの細川家への忠節を痛み、1601年にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列。後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬している。

しかし、細川ガラシャが大坂屋敷で自害した際、嫡男・細川忠隆の正室である千世は、屋敷を脱出して、姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。
細川忠隆は関ヶ原の戦いでも武功を上げ、徳川家康より感謝状も受け取っていたが、1600年10月になって、細川忠興は、千世が屋敷を脱出して生き延びたことを咎め、千世は前田利家の娘であったが、離縁するように細川忠隆に命じる。
これに、細川忠隆は反発し、千世をかばい、離縁を承知しなかったため、前田利長に相談もしたが効果は無く、細川忠隆は追放・廃嫡とされた。
細川忠隆は千世と長男を連れて、6000石を知行していた祖父である細川幽斎を頼って京都で隠居したと言う。

このため、細川家は細川ガラシャが3歳で洗礼を受けさせた細川忠利が熊本藩の初代藩主となっている。
次男の細川興秋は、藩主になれなかったことから、細川家を出奔し、大坂の陣で豊臣勢に加わり、道明寺の戦い天王寺・岡山の戦いなど転戦したが、戦後に父・細川忠興の命で切腹した。

越中井

大阪城からほど近い場所に「越中井」と呼ばれる井戸があります。
この井戸は細川家の大阪屋敷の井戸であったとの伝承があり、細川越中守忠興の官位から「越中井」と呼ばれています。

現在は、道路の真ん中に取り残されたように保存され、繁みのようになっています。
その繁みをわざわざ道路が迂回しているような感じです。

場所は下記の地図ポイント地点となりますが、駐車場は付近のコインパーキング利用となります。
地図は縮尺を変えてご覧下さい。

当然、屋敷に火を放ち、家臣に自らの胸を突かせた細川ガラシャの最後の地とされており、南へ200m行ったところにある聖マリア大聖堂(カトリック玉造教会)の正面には細川ガラシャの像と、高山右近の像が並んでいます。


 
明智光秀に関してはこちら
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細川幽斎(細川藤孝)~断固たる態度を取った戦国大名
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コメント

    • 輪多里鳥
    • 2015年 9月 22日

    私は細川ガラシャはそこまで悲劇の人だとは思わないです。

    伝わっている自筆の書状からは「勢い」が感じられ、元気な人柄であるとされていますし、忠興宛ての手紙で「からしゃ」と名乗ったりもしています。

    他にも禅問答は免許皆伝の域に達しており、和歌・茶道・絵画(自筆の袱紗が残されています)・機織(忠興のための自作の「露払い」が残されています)にも精通していたようで、人生を楽しんでいた可能性があります。

    それに、最期につきましても、徳川に人質になっていた子供の忠利の身や、いずれ徳川の時代に問題になるであろうキリシタンであるという自身の危険性(徳川家の家臣にカトリックの人間は非常に少なく、家康は三浦按針というカトリックと敵対しているプロテスタントと仲が良いのです)を考えると、捨て石になったことはむしろ本望だったかもしれません。

    細川ガラシャよりも、むしろ佐和山城落城で亡くなった女性達の方がはるかに悲劇だと思います。

    佐和山落城の絵には、炎の中で白装束で手を合わせて介錯を待っている女性の絵があり、そちらが世間で全く知られていない方がずっと問題だと思います。

    他にも、滝に身を投げて亡くなった女性もたくさんいたようです。

    細川ガラシャばかりが有名になっていますが、無名の悲劇の女性はたくさんいたということです。

    彼女達こそ、大河ドラマ等で取り上げられて欲しいですね。

    • 高田哲也
    • 2015年 9月 23日

    輪多里鳥さま、この度は大変素晴らしい貴重なご意見、誠にありがとうございます。
    また、ご意見などございましたら、コメントお寄せ頂けますと幸いです。(^-^)
    他の皆様からのご感想などもお待ち致しております。

    • リキスター
    • 2016年 7月 20日

    広告に邪魔されて読む気しない
    興味あって読みたかったのに残念です。

    • 高田哲也
    • 2016年 7月 20日

    リキスターさま、ご閲覧、誠にありがとうございます。
    広告により皆様にご負担頂かずに、無償で情報提供することができ、また、記事追加などの充実を図っておりますこと、何卒ご理解を賜りますと幸いです。
    いずれにせよ、お役に立てなかった事は、謹んで深くお詫び申し上げます。

    • 珠子
    • 2017年 2月 10日

    大変為になるお話を頂戴致しました。
    ありがとうございます。

    • 高田哲也
    • 2017年 2月 10日

    珠子さま、コメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    励みになります。
    深く御礼を申し上げます。
    高田

  1. 2015年 11月 24日
  2. 2015年 12月 04日

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