後閑氏の存亡と後閑信純とは~後閑城の訪問記


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安中・後閑城(ごかんじょう)を訪問して参りましたので、後閑城主であった後閑信純(ごかんのぶずみ)を中心に後閑氏をご紹介してみたいと存じます。
この後閑氏(ごかんし)はもともと新田義貞系統の岩松氏支族ともされていますが、安中市教育委員会は新田岩松の子孫説を取っているように、諸説あります。

後閑城じたいは、1441年~1447年頃に、信濃佐久・御嶽城主である依田忠政(依田内匠頭忠政)が築いて本拠としたようです。
結城氏朝と合戦での戦功で後閑を賜ったともありますが、築城には7年の歳月をかけたともされています。
そして、1448年に長源寺を創建しました。

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依田忠政の孫・依田光慶は箕輪城主・長野業政の11女を娶って長野業政の同心となり、のち1538年8月には命に従い鷹巣城(板鼻城)に移りました。
その後、北条政時(北条四郎政時)が後閑城主になっています。
この北条政時は「きたじょう-まさとき」と言い、鎌倉幕府第7代執権・北条政村の末裔と言われています。
しかし、丹生城主・新田景純と領地巡いとなり、1555年、北条政時が敗れて新田景純が後閑城主となり、名を「後閑景純」と改めました。

後閑景純と子の後閑信純は箕輪城主・長野業政に従っていましたが、長野業政が死の前後に後閑信純は小幡信貞らと武田信玄に内応します。
武田家に臣従した年代は1555年、1559年、1563年と諸説あり、良く分かりませんが、あやふやだった時期もあったのでしょうが、取次は跡部勝資や原昌胤が務めました。

1556年には、荒廃していた長源寺を後閑信純が修復・寄進しました。

1566年、箕輪城が落城したあと、後閑信純は内藤昌豊の与力になった模様ですが、柳生聡氏より「補足説明」も賜りましたので、追記致します。

箕輪城の武田勢による落城年は、永禄6年説(1563年)もあります。
上泉伊勢守が柳生家に発給した一国一人の印可状が永禄8年(1565年)になっていますので、永禄9年説は矛盾してしまうのです。
永禄8年中には、13代将軍・足利義輝が松永弾正に殺害されていまから、永禄9年以後に上泉信綱(上泉伊勢守)には会えないわけです。
高崎市の箕輪落城年はこのへんの精査を怠っていると思います。

武田信玄の家臣時代1567年8月、武田義信事件の際に、後閑信純が跡部勝資に充てた起請文が生島足島神社に残っています。

一説によると後閑信純(後閑伊勢守信純)は甲斐の名族・上条氏を継いで上条真純と称したともありますが、ややっこしいので、このページでは一貫して後閑信純として記載致します。

1569年、武田信玄が駿府の今川氏真掛川城へ追い払った際に、後閑景純と後閑信純の親子は討死したようで、以後、家督は後閑真純が継いだ模様です。
ただし、上記にて記載したとおり、後閑信純は上条「真純」と名乗ったともされており、家督を継いだ後閑真純は後閑信純と同一人物である可能性もあり、良くわかりません。
とにかく、群馬の戦国末期は不明瞭な点が多いので、ご理解のうえお読み願います。

1578年、後閑信純の長男・後閑信重(ごかんのぶしげ)は総社に分家し、石倉城主となり後閑下野守信重を称しました。
1579年に後閑景純と後閑信純の親子が討死したとする史料もあり、後閑家の家督は二男・後閑重政が継ぎ、三男の後閑信久は武田信玄の命で上条家を継いだとありますが、この頃にはすでに武田信玄は亡くなっているため、武田信玄の命は完全な誤りです。

正確には武田勝頼が後閑家へ発給した文書が京都大学総合博物館にあり、そこから読み取れます。

上条伊勢入道の所領(後閑信純の所領)を息子の後閑弥太郎・上条善次郎に分割することを許可。
後閑弥太郎(後閑形部少輔)は後閑城、上条善次郎(後閑宮内少輔)は甲斐の上条領主、後閑下野守は「一族」扱いになっており、総社の蒼海城主と言う事になります。

総合的に判断しますと、後閑景純と後閑信純の親子は1569年の駿府城攻略時に出陣しますが、討死したのは後閑景純で、後閑信純はその時生き残っていた。
1579年に後閑信純が死去し、後閑家の家督は二男・後閑重政が正室の子であった?ためか家督を継いだ。
三男の後閑信久は、時期は不明だが甲斐・上条家を継いで上条信久と称した。

と言う事になるのかな?と推測しています。

ちなみに武田勝頼の上野支配は、跡部勝資・内藤昌月・土屋昌恒が奉行となっており、沼田城方面に関しては真田昌幸が担当しています。

1582年、武田勝頼が天目山の戦いで自刃すると、後閑信純の長男・後閑信重(後閑下野守信重)は、厩橋城にいた北条高広(きたじょう-たかひろ)に従いました。

上条家を継いでいた上条信久(上条宮内少輔)は、後閑姓に復して後閑信久となり、箕輪城に入った滝川一益に妻子を人質として出しています。 
本能寺の変のあとは、次男・後閑重政と、三男・後閑信久は小田原城主・北条氏直に属して、鉢形城主・北条氏邦の配下となり「両後閑」と呼ばれています。

1582年7月10日発給の北条高広の文書では、上野惣社における後閑下野守の所領25貫文を安堵していますので、蒼海城主・後閑信重(後閑下野守信重)は、北条高広の家来に加わっていたのが確認できます。
1584年、厩橋城主・北条高広が小田原・北条家に降伏すると、北条氏直は両後閑に厩橋城の在番を命じました。

現在みられる後閑城の縄張りは、恐らく小田原の北条家による改修がなされたものと推測致します。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めでは、この両後閑は小田原城に入っており、後閑城は松井田城主・大道寺政繁の支城となり、後閑又右門衛門尉なる武将も松井田城にて籠城に加わっています。
この後閑又右門衛門尉は、後閑下野守と同一人物とする説もあります。

後閑城の標高ですが、例によって資料によりまちまちですので、私の手元で実測しました。
本丸の最高部は272mで、駐車場が252m(比高20m)、麓からの比高は73mとなります。
下記は後閑城の本丸から松井田城方面を望んだ風景です。

北條家滅亡後、両後閑の2人は出て来なくなり後閑氏は没落したようですが、井伊直政が箕輪城→前橋城主として赴任します。
井伊直政の次男・井伊直孝は後閑の北野寺にて萩原図書から約10年間教育を受け、のち彦根藩主となる有能な若者に育った訳です。

そして、安中藩主として長男・井伊直勝安中城に入ると、子孫と考えられる後閑善兵衛・後閑新兵衛の名が見受けられます。

後閑城の本丸には百庚申と呼ばれる、128基の庚申塚石碑がグルッと並んでいます。
庚申塔(こうしんとう)や庚申塚(こうしんづか)は、江戸時代に入ると関東で特にはやりましたが、後閑家の旧臣らが戦没者供養の為、建立したとも言われています。
これだけまとまってあるのも珍しいですので、もう少し宣伝すると良いかも知れません。

歴史にはほとんど登場しない後閑城ですが、公園として整備されており、見学しやすいですが、道を広げるなど多少の改変はどうしてもあります。
なお、下草処理もされているとはいえ、それでも夏季は草が生えてしまいますので、できれば冬季に見に行った方が、堀なども良くわかると思います。

しかし、規模的にも大きく、武田や北條の手も入ったであろう築城技術も見受けられます。
もっとも、これだけ整備されていなければ、訪れる事もなく、後閑氏について調べる事も無かったかもしれませんので、そのような意味では、古城の整備は必要であり、地元の子供たちへの継承を重ねて頂きたいと願うばかりです。
後閑城の見学所要時間は駐車場からで約30分。念入りに見る場合にはプラス願います。

後閑城への行き方ですが、電車の場合、磯部駅から約5km、徒歩60分です。
下記の地図ポイント地点がクルマが約30台止められる無料駐車場です。
近くにトイレも完備されています。

地図は縮尺を変更してご確認願います。
なお、行程がわかりにくいので、カーナビで設定して行くと良いでしょう。
また駐車場は東側にもあり、登城口もいくつかあります。

依田政知の墓と、新田信純(後閑信純)の墓は、安中市上後閑の「長源寺」にあるとの事です。
後閑からも山へとだいぶ入ったところになるのですが、長源寺にも訪問する必要性が出て参りました。
真田幸隆が箕輪城主・長野業政を頼った際に、長源寺でも世話になっていたようです。
そして、長源寺を去る際に伝為晃運和尚から「六文銭」を渡されたと言うような話もあり、また真田の里に復帰して創建した真田家の菩提寺・長谷寺の住職に晃運和尚を招いたと言う事ですので、機会があり訪問できた場合には、このページに加筆したいと存じます。

後閑城に関しても柳生聡氏の現地案内を賜り、また頂いた資料が大いに役立ったことをここで深く御礼を申し上げます。
また、安中や群馬に関してだけでなく、皆様からの寄稿もお待ちしております。

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