蜂須賀小六(蜂須賀正勝)~豊臣秀吉の腹心


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 蜂須賀小六(蜂須賀正勝)は、1526年、蜂須賀城主・蜂須賀正利(200貫)の長男として誕生した。続柄は不明とする説もある。
 母は宮後城主・安井重幸(安井弥兵衛、安井弥兵衛尉重幸)の娘・安井御前。
 この蜂須賀氏は、尾張国海東郡蜂須賀郷(現在の愛知県あま市蜂須賀)の国人領主で、美濃・斎藤氏に従っていた。

 豊臣秀吉の父・木下弥右衛門は、この蜂須賀正利に仕えていたとされ、その縁で豊臣秀吉は少年時代に、蜂須賀正利の子である蜂須賀小六とも面識があった。
 なお、蜂須賀小六は1553年に蜂須賀正利(はちすか まさとし)は死去すると蜂須賀村を出て、母(1565年没)の故郷・宮後城(江南市宮後町)に移り、美濃の斎藤道三に仕えたとされる。
 その後、斎藤道三が息子の斎藤義龍と戦って敗死すると、美濃を去って尾張岩倉城主・織田信賢、その後、犬山城主・織田信清と渡り歩き、織田信清が当時急速に台頭してきた織田信長に攻められて、尾張から追い出されると、1557年頃、宮後城から約3kmと近い、小折(愛知県江南市)の富商・生駒家の食客となった。
 そこで、蜂須賀小六は「川並衆」と言う独立勢力を束ねて行くようになるのだが、1558年に子の蜂須賀家政が誕生しているので、正室の大匠院(松、まつ)と結婚したのも、生駒家に移った際とも考えられる。
 大匠院(松、まつ)の出自は諸説あり、豊臣秀吉の家臣・三輪吉高の娘、尾張国の豪族・益田持正の娘、また三輪吉高が仕えていた北畠具教の側室だったとする説もある。

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 川並衆としては稲田大炊助、青山新七、青山小助、後号彦右衛門、後号又十郎、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、松原内匠助などの名が見られる。
 今でもそうだが、大きな川の河川敷には、村を追われた罪人や、いわゆる不労者などが集まりやすく、国と国、領地と領地の境である木曽川中流は、治外法権の中洲を根拠地とする武装集団「川並衆」となった。その中で徐々に頭角をあらわして数千人を率いる親分になったのが、蜂須賀小六だ。
 川並衆は川舟や馬を使って運送業を営んだり、有力商人の商品輸送の用心棒をしたりして利益を得、織田信長から国中通り抜けの特権を与えられ、また1560年の桶狭間の戦い今川義元を破った際にも戦いにも参加して活躍したとされる。

 豊臣秀吉との出会いは諸説あるが、放浪して宿もなく矢作橋(愛知県岡崎市)のたもとで寝ていると、夜盗の一団が通りかかり、その首領に気に入られて子分ったとされる、矢矧川の橋(矢作橋)にて、蜂須賀小六と出会ったと言う逸話が有名である。しかし、当時の矢矧川はまだ架橋されていないので明らかに誤りで、後世の創作である可能性が非常に高い。
 なお、蜂須賀小六は、織田信長の側室・生駒吉乃(生駒類)の実家である生駒氏とは縁戚関係で母の実家から3kmと近くで、豊臣秀吉が織田氏に仕えたのは蜂須賀正勝と縁のあった生駒吉乃の推薦によるとする説もある。生駒家は、当時大量生産できなかった藁の灰を売る豪商で、日本全国との取引もあった事から、水運でも蜂須賀小六との繋がりもあったと考えられている。生駒吉乃は初め土田秀久(土田弥平次)に嫁ぐが、1556年9月に斎藤義龍との戦いで夫が戦死した為、生駒家に出戻っており、そんな生駒吉乃に惚れこんだ年下の青年が織田信長だったのだ。

 蜂須賀小六と豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)との実際の出会いと言うか、行動を共にした初見は、織田信長が豊臣秀吉に命じた、鵜沼城の大沢基康攻略で、豊臣秀吉と蜂須賀小六が行動を共にして、調略を成功させている。

 「墨俣一夜城」の逸話も後世の創作である可能性が高いが、桶狭間の合戦で今川義元を倒して歴史の表舞台に華々しく登場したその後の織田信長は、美濃攻略の為前線基地を必要としており、佐々成政佐久間信盛に命じて何度か墨俣に築城を試みたが斎藤道三の抵抗でうまく行っていなかった。
 そんな1566年9月、当時、足軽頭になっていた豊臣秀吉は川並衆の蜂須賀小六や前野長康らの協力を得て墨俣に築城することに成功。
 以後、織田信長の命があったのか、蜂須賀小六は11歳年下の豊臣秀吉の与力として軍・政・外交の各方面で補佐。
 有能な武将として活躍し、豊臣秀吉の出世・天下統一を支え、蜂須賀小六も歴史に名を残すこととなったのだ。

 1570年6月、豊臣秀吉は蜂須賀正勝・前野長康を伴って、竹中半兵衛を何度も訪れて説得し招聘にも成功。

 その後、蜂須賀小六は斎藤氏などを調略する案内役も務め、越前の天筒山城・金ヶ崎城攻め、近江の横山城攻略、および、長島一向一揆攻めなどで、豊臣秀吉の軍として戦功をあげ、1573年、浅井長政攻略で、豊臣秀吉が近江・長浜城主となると、蜂須賀小六(48歳)は伊勢長島に1000石、近江浅井郡に600石の合計1600石となった。

 織田信長が上洛した際には、蜂須賀小六が豊臣秀吉の代官として洛中の警備を担当し、数々の難題を適切に処理している。
 本願寺顕如との戦いの際には、蜂須賀小六だけでなく、子の蜂須賀家政も活躍し、織田信長は蜂須賀家政に150石を与えている。
 安土城築城の際には、総奉行・丹羽長秀の下、蜂須賀正勝と前野長康が石垣・掘割奉行としても活躍した。

 荒木村重有岡城に籠り謀叛した際には、その配下の安部二右衛門、柴山監物を調略。

 1577年からの明智光秀・羽柴秀吉による中国攻めにも従軍。
 1577年7月、豊臣秀吉と蜂須賀小六らが、黒田官兵衛から提供された姫路城に入ると、御着城主・小寺政職は織田信長に臣従。
 福原両城(兵庫県佐用町)を攻略して西播を平定すると、要衝の上月城には尼子勝久を配置してて、山中鹿介幸盛を補佐に付けた。
 
 黒田官兵衛・竹中半兵衛らと共に、1579年の播磨・三木城攻め(三木合戦)にも参加。
 蜂須賀小六は、長水山城を与えられ初めて城持ちとなったが、その直後の1581年の因幡・鳥取城攻めにも従軍して活躍した功によって、改めて播磨龍野・龍野城主として53000石を与えられ、大名となった。

 1582年、明智光秀による本能寺の変の際には、備中高松城・清水宗治を攻略している最中で、毛利氏まで出向いたのが黒田官兵衛と蜂須賀小六で、急ぐ交渉のなか高松城開城に尽力し、中国大返しを成功に導いた。川並衆の親分が、豊臣秀吉軍の副将格としてだけでなく、いつしか老練な外交交渉に長けた有能な武将になっていたのだ。

 豊臣秀吉は織田信長の仇討ちを果たし、清洲会議を経て実権を握ったが、対立していた柴田勝家を打ち破り、最後まで抵抗した尾山城主・佐久間盛政への降伏勧告を蜂須賀小六が行い、将兵や妻子を助命すると約束して成功している。

 1584年1月には、黒田官兵衛の嫡男・黒田長政(17歳)に、蜂須賀小六の娘・糸姫(11歳?)が嫁いだ。
 1584年の徳川家康との小牧・長久手の戦いにも参加。子の蜂須賀家政が、播磨佐用郡内に3000石を与えられている。
 
 1585年、朝廷より従四位下の官位を賜り、蜂須賀小六は修理大夫に叙任される。本当の味方が少ない豊臣秀吉にとって、蜂須賀小六は腹心と言えたのだろう。
 豊臣秀吉は蜂須賀小六の為に、大坂城下の御殿山屋敷を建てて住まわせ、参勤料として丹波・河内に5000石を与えた。以後、龍野城は子の蜂須賀家政が政務を執り行っている。
 また、同じ1585年の四国攻めでは阿波木津城を陥落させ、四国取次として戦役前後の交渉や領土引き渡しなどの処理を担当した。
 そして、長宗我部元親への押さえと、長年の労をねぎらわれて、豊臣秀吉から阿波一国175000石を与えられるが、蜂須賀小六は豊臣秀吉の側近として引き続き仕えることを望んで辞退し、嫡男の蜂須賀家政が阿波を与えられ、龍野城には福島正則が入った。
 その後、黒田官兵衛と共に毛利輝元の取次役も務め、中国国分で国境を確定させた。軍事面でも優れていたが、民事的にも随所で大変高い能力を発揮しており、蜂須賀小六の功績としては一番評価できる。しかし、この頃、蜂須賀小六は病にかかり京で静養した。

 1586年5月22日、大坂城下の御殿山屋敷(京橋の川端・八軒家一帯)にて死去。享年61。
 墓所は徳島県徳島市の眉山町、および、徳島市下助任町の大雄山興源寺に所在するほか、出身地である愛知県あま市蜂須賀の池鈴山蓮華寺にも蜂須賀家政との合同墓碑がある。

蜂須賀家政と蜂須賀至鎮とは~徳島にて阿波踊りを始めさせた戦国武将
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コメント

    • 伏野敏博
    • 2015年 4月 19日

    蜂須賀小六の一生を判り易く説明して戴き有難う御座いました。益々好感を持ちました。今後応援したく存じます。何時も縁の下での働きで表にでず、家臣を称え控えめな人生に感嘆しています。

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