連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第4回 『濱松御在城記』「一言坂の戦い」


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、『濱松御在城記』より「一言坂の戦い」です。

『濱松御在城記』(全1巻)は、徳川家康が遠江入りした永禄11年(1568)から天正10年(1582)の武田氏滅亡までの15年間を編年体で記述した古文書で、同時代史料ではなく、約100年後に書かれた本なので、全てが史実だとは言えませんが、よく調べて書かれていて、史料的価値は高いとされています。
著者や成立年は不明ですが、著者は永井随庵で、成立年は延宝~天和(1680年頃)と考えられています。

 

では、早速、「一言坂の戦い」について読んでみましょう。

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【未来のお気軽訳】 元亀3年(1572年)の出来事 一つには、閏1月、徳川家康が、大井川の右岸(西側)の金谷へ軍勢(「人数」とは軍隊のこと。ここでは偵察隊)を出して様子をみさせると、武田信玄が怒った。申し合わせ事項は、「今川領(駿河・遠江両国)の切り取りは、国境の大井川を境に西の遠江国(現・静岡県西部地方)を家康、東の駿河国(現・静岡県中部地方)を信玄」であったので、安心して大井川まで偵察に行ったのであるが、ここにきて武田信玄は、「今川領の切り取りの境は天竜川である」という無理難題を言ってきたのである。そして、10月中旬になって、武田信玄は、甲斐国(現・山梨県)から遠江国犬居村(現・ 静岡県浜松市天竜区春野町)の「秋葉ロ」を経て発向(目的地に向かって出発すること。いわゆる「西上作戦」を開始)した。犬居城主・天野宮内右衛門尉景貫((注1)藤秀(秀藤とも)の子)を案内者として、只来(ただらい)城(浜松市天竜区只来)・飯田城(周智郡森町飯田字峯山)を攻め取り、天野景貫(注1)を遠江国の「定番」(じょうばん。常に番(見張り)をする人)とし、久野城を取り囲み、木原(袋井市木原)から西島(磐田市西島)にかけて陣を敷いた。この時、徳川軍も三箇野台(磐田市三ケ野台)まで来ていた。武田軍が徳川軍の後方に右の方から回り込もうとしていたのを本多平八郎忠勝(この時25歳)が(「忠勝物見の松」に登って)よく観察していて、「今回は戦わない方がいい。詳しく説明すると、武田軍は大勢で、ここは、集まるのも散るのも自由自在の広くて平らな場所である。我ら徳川軍は小勢(3000人)で、特別、楯となって武田軍を防ぐ切所(せっしょ。難所。ここでは堀や土塁)も無い。武田軍がもし追ってきたら、武田軍が天竜川を渡っている最中に一戦交えれば、勝てると思う」と言ったので、徳川家康に報告すると、徳川家康も同じ考えであったので、すぐに撤退を始めた。撤退戦では、「退き口」(のきぐち。撤退戦の方法)が重要である。本多忠勝は、手勢(自分の家来)はもちろん、御家人(家康に直接謁見できない家康直属の武士)にまでも「引き回し」(あれこれ指導すること)して、殿(しんがり。最後尾)を受け持った。とはいえ、武田軍が猛烈に追跡してきたので、「武田軍は、このあたりの地形や道に詳しくないから、見付の町に火をつければ、その煙で道に迷うであろう」と、本多忠勝は、家来の大鐘(大兼)彦市政広に命じて、かつては遠江国府があった見付の町に火を付けさせたが、本多忠勝の予想に反し、(天野景貫(注1)をはじめとして、遠江国の「小侍」(身分の低い武士)が武田軍に従軍していたので)武田軍は道をよく知っていて、「上の台」(梅酢ヶ原。磐田市国府台)に登ってきたので、一言坂(ひとことざか)の下り口で、徳川軍は絶体絶命のピンチを迎えた。この時の本多忠勝の戦い振りはすさまじく、家来の桜井勝次、三浦竹蔵、柴田五郎右衛門、大原作右衛門、大原惣右衛門らもよく「いくさ働き」をして、武田軍を突き臥せ、または鉄砲で撃ち落とした。この間に徳川軍は、天竜川を渡りきった。一言坂の下りロでは、旗本(家康に直接謁見できる家康直属の武士)の大久保忠佐(ただすけ)とその弟・大久保忠正(忠核)兄弟、大久保忠綱、都筑藤市(藤一郎)が殿を務めていた。大久保忠正が鉄砲を撃ち外した事に関連して、大久保忠佐と都筑藤市は互いに褒めあっていた。(大久保忠正が鉄砲を撃ち外した原因は、徳川家康が解説した。)この会話の詳細は、大久保彦左衛門忠教著『三河物語』(注3)に載っている。武田軍は、天竜川を渡らずに引き返した。徳川家康は、馬込村(旧・馬込町。現・浜松市中区中央二丁目)で本多忠勝の帰りを待っていて、「今日の撤退戦での判断や対処は、これ以上になく素晴らしかった。徳川家の良将である」と上意(主君の意見)を申し伝えた。本多忠勝に続けて褒められたのは、敵・味方入り交じる中に馬で乗り込み、的確な指示をしたのが見事であった内藤信成である。武田信玄の「近習」(主君の側近くに仕える者)・小杉左近助(注2)が、「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」という落書(らくしょ、おとしがき。人々の目に触れる場に立てた掲示板)を見付の坂に立てた。これは、徳川軍の10人の武将のうちの6、7人が高価な「唐(から)の頭」(防水のために唐(チベット)原産の旄牛(ヤク)の毛を付けた兜)をしていたのに驚いたからである。ちなみに、この時の本多忠勝の兜の「立物」(たてもの。兜の額の部分や側頭部に付けた装飾部品。額の部分に付けたのが「前立」で、側頭部に付けたのが「脇立)は、黒く塗った鹿の角であった。」

※『濱松御在城記』は同時代史料ではないので、史実と異なると思われることが書かれていたり、誤記があったりします。

(注1)「天野藤秀」とありますが、通説に従い「天野景貫」(藤秀の子)と訳しました。

(注2)「大彦助」ではなく「大彦市」、「小松右近」ではなく「小杉右近」と思われます。(誤記か?)

(注3)『三河物語』の詳細は次回。

 

《戦場探訪(静岡県袋井市~磐田市)》

<写真1:武田信玄「西上作戦」侵攻ルート(堀川城址案内板)>

<写真2:久野城>

<写真3:木原畷>

<写真4:旧東海道の松並木と三ヶ野台>

<写真5:「三箇野合戦」古戦場>

<写真6:見付に火を放つ本多忠勝>

<写真7:見付に火を放ったのは町衆か?>

<写真8:見付の火を消した身代わり地蔵>

<写真9:兜塚古墳>

<写真10:池田近道「一言坂」>

<写真11:「一言坂古戦場」の案内板>

<写真12:一言観音>

※写真1:武田信玄の「西上作戦」侵攻ルートについて、従来は、信濃伊奈口から青崩峠を越えて南下し、犬居城に入ったと考えられていたが、現在は北からではなく、東から進軍してきたと考えられている。

※写真2:久野城址

「久野城の築城時期は、駿河に本拠を持っていた今川氏が遠江へ侵攻するための拠点として、明応年間(1492~1501年)頃に造ったと考えられている。歴代城主は、久野宗隆-元宗-宗能、松下之綱-重綱、久野宗能-宗成、北条氏重で、正保元年(1644年)に廃城となった。現在、城内には、「土塁」・「掘切」・「竪堀」・「井戸」などが比較的良く残っている。また、小字名の「西堀」・「南堀」等が示すように、城の周囲に水堀を備えていたようである。昭和54年10月1日に、市指定文化財に指定されるとともに、近年の発掘調査によって、屋根瓦や陶磁器などが発見され、徐々にその姿を現し始めている。」(案内板)

※写真3:古戦場木原畷(きはらなわて)

「元亀三(一五七二)年、鷲巣の久野城を攻めた武田信玄は、ここ木原に陣をはり、浜松城を守る徳川家康の偵察隊と衝突しました。この戦いが世にいう木原畷の戦いです。」(案内板)

※写真4:旧東海道の松並木と三ヶ野台。左上が三ヶ野台古戦場。

※写真5:三ヶ野台古戦場

「古戦場大日堂 戦国時代の始めごろは、遠江地方は駿河の今川氏の支配下におさめられていたが、今川氏滅亡後は今川氏に代って家康によって治められた。ところが、元亀三年(1572年)上洛を目指す甲斐の武田信玄が遠江へ進出し、木原に陣を布いた。これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、三ヶ野・見付宿・一言坂と戦った。この大日堂の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松が存在していた。この丘陵に立てば、太田川から遠く袋井まで一望でき、本多平八郎の物見もさぞやとうなずける戦国ロマンがただよう。」(案内板)

※写真6:林大功(はやしだいこう)画「本多平八郎一言坂合戦之図」。林大功は、従軍画家で、かぶと塚公園にあった中部第129部隊に在隊していた時に、「一言坂の戦い」の話を聞いて感動し、絵に描いたという。

※写真7:『濱松御在城記』は、見付に火を放ったのは本多忠勝のとっさの判断だとするが、後に見付の町衆が、「自分たちがやった」と将軍家に恩を売る文書を作成している。毎日、冷酒をたしなみ、徳川家康に「冷酒」と呼ばれた上村清兵衛は自分の屋敷に自ら火を放った功で名刀「成高」を拝領したという。

※写真8:「見付に火を放った」といっても、住宅を焼いたのは上村清兵衛くらいで、実際は道で枯れ草を焼いて煙を出して道を隠すと共に道を通りにくくしただけである。(林大功画「本多平八郎一言坂合戦之図」でも、「火」に囲まれているというより、「煙」に囲まれている。ただ、「本多平八郎一言坂合戦之図」は不正確。本多忠勝が乗っていたのは、白馬ではなく黒馬である。)しかし、住宅に燃え移ることもあったろう。その火を地蔵が消して回ったと言うが、実際には「火消しに子供も手伝った」ということであろう。

※写真9:兜塚古墳。本多忠勝が兜を脱いで兜塚古墳の頂上の梅の木に掛け、名槍「蜻蛉切」を振り回したことから「兜塚」と名がついたと伝えられるが、実際はそれ以前から形状が兜に似ている(写真では分かりにくいが、二段になっている)ことから「兜塚」と呼ばれていた。本多忠勝は、矢作川の渡河点を教えてくれた神鹿にちなみ、兜の立物を鹿の角にした。確かに、頭の上で槍を振り回すのには邪魔であるが…。徳川軍3000人を10人の武将が指揮していて、うち7人が高価な「唐の頭」(雨水などが入り込まないようにヤクの毛を付けた兜)をしていたという。この時、徳川家康がかぶっていた「唐の頭」(個人蔵)は、新城市指定文化財となっている。また、このあたりは梅の木が多かったというが、どうであろう。逃走中に家来が「喉が渇いた」というので、家康が機転を効かせて、「少し先に梅原があるので、実を食べれば良い」と言うと、自然に唾液が出て、喉を潤したという。以後、梅の木が無くても「梅酢ヶ原(梅原)」と呼ばれることになった。「うえ」→「うめ」(上原→梅原)であろう。

※写真10:姫街道「一言坂」。東海道は、大きく南を回るので、池田の渡しへ行くには姫街道(池田近道)を通った方が近い。

※写真11:「一言坂古戦場」の案内板

「この坂を「一言坂」といいます。元亀3年(1572年)甲斐国(山梨県)から攻め込んできた武田信玄と遠江国(静岡県西部)の領主であった徳川家康との間に戦いが起こりました。袋井市の三箇野川の戦いで破れた徳川軍は、浜松城を目指して敗走しましたが、一言坂で追いつかれ、再び合戦となりました。これが「一言坂の戦い」です。この時に敗走する徳川軍を救ったのが、家康重臣の「本多平八郎忠勝」でした。平八郎は「とんぼ切り」といわれた大槍を振り回しながら一人奮戦し、枯れ草に火をかけ、その煙の中、見事に味方の軍を退却させたと伝えられています。敵の武田軍も、この時の武勇をたたえ、「家康に過ぎたるものがふたつるある、唐の頭(兜)に本多平八」と書いた札を磐田市国府台に立てたといわれてます。」(案内板)

※写真12:「一言観音」。現在は坂の下にあるが、戦国時代は坂の途中の観音堂にあったので、その坂の名が「一言坂」になったという。如意輪観音である。「如意」は「如意宝珠」の略で、如意輪観音に祈願すれば、如意宝珠の力であらゆる願いを叶えてくれるという。この観音堂の如意輪観音は、「一生に一度、一言だけ願いを叶えてくれる」ことから「一言観音」と呼ばれている。

■おまけ:「蜻蛉切」誕生の地へ

<写真13:田中家墓所の藤原正真の墓(田原市)>

 本多忠勝が愛用した名槍「蜻蛉切」は、戦場(一説に「一言坂の戦い」)で槍を立てていたところに飛んできた蜻蛉が当たって二つに切れたという逸話からその名が付いたという。


愛知県田原市の田中久兵衛正真(田原文殊四郎正真、藤原正真)が鍛えし業物で、「屋敷跡が、田中家墓所となっている」と聞いて行ってみた。

「刀匠文珠四郎正真の墓所 大和国手掻包永の一派の刀工。田原の住人で、最も有名な作品に本多忠勝所持「蜻蛉切り」と呼ばれる天下の名槍をうった作者である。慶長十六年(一六一一)八月二十二日没 六十四歳」(案内板)

 「手掻派」とは、大和国の東大寺の転害門の前に群居していた刀工集団である。その中の木村家を田原城主・戸田憲光が田原に招いた。

──三河文殊派の誕生である。

文殊包吉(木村包利11世孫・包貞の嫡男)には息子がいなかったので、弟子たちの中で最も腕の良い田中久右衛門の息子・田中久兵衛正真を娘婿として迎えて、三河文殊派を継がせた。そして、包吉のマンツーマン指導で正真がうった槍が「天下三名槍」の1本、「蜻蛉切」である。

 

どうでしたか?

感想をコメント欄に書いていただければ幸いです。

では、最後に原文を載せておきますね。今回の記事を参考に、解読に挑戦してみてね。

「元亀三壬申 一、閏正月、金谷大井川江御人數御出シ、巡見被仰付候得者、信玄被致立腹、國切ノ約ハ天龍川ニテ候ニ、大井川切ト被思召候ハ難心得ノ由、難題被申越、其以後十月中旬ニ、信玄、甲州ヨリ遠州犬井秋葉ロヨリ發向。犬井ノ天野宮内右門藤秀ヲ爲案内者、多々羅江・飯田ノ兩城ヲ攻取、天野ヲ遠州定番二居、久野ノ城巡見、袋井二着陣。此時、濱松ノ御人數モ三加野臺江押出ス。敵兵、御味方ノ後ヲ遮ラソト、兵ヲ右ノ方江回ス。本多平八忠勝(時廿五)、敵ノ機ヲ能察シテ、「今ノ御合戦御無用ニアソハサレヘクソロ。其子細ハ、敵ハ大勢、引自由ノ廣場ナリ。御味方ハ小勢、殊楯トカタトリ防ヘキ切所モ無之候。敵、若追來ハ、天龍川ノ半渡ヲ見合蒐テ、御一戦被成候者、御勝利可有御座」ト奉存候旨、言上被仕付、権現権モ御同心被遊、則、御人數御引取被成候。此退口大事二御座ヲ、平八郎手勢并御家人ヲモ引迫シ、殿仕退申侯。然トモ敵猛勢追掛來候付、不案内敵、度二迷候半哉ト、平八郎、家來・大彦助二申付、見付ノ國府二火ヲカケ候得共、案ノ外、敵道筋ヲ能シリ候テ、(天野ヲ初、遠州ノ小侍、信玄二随故ナルヘシ、)上ノ臺江押上ケ、ノリツケ申候。一言坂ノ下リ口ニテ、御人數危御座候。此トキ平八郎カ戦、家來・櫻井庄之助、三浦竹藏、柴田五郎右衛門、大原彦右衛門、同左近右衛門等能働、敵ヲ突、亦ハ鉄炮ニテウチヲトシ申候。此間二御味方、天龍川ヲ渡申候。一言坂ノ下りロ二テハ、御旗本・大久保次右衛門忠佐、舎弟・勘七郎忠正、大久保荒之助忠綱、都筑藤市、殿仕候。勘七郎、鉄炮ウチハツシ申付、次右衛門ト藤市ト問答御座候。是ハ委細、彦左衛門忠教ノ記二見申候。敵モ天龍川ヨリ引カエシ申候。権現様ハ、馬籠二御、平八ヲ御マチナサレ、「今日ノ進退度二中リ、無比類儀、我カ家ノ良将」ト上意ノ由、申傳候。此中、平八郎忠勝ニツヽキテ、敵味方ノ間ニテノリ廻シ、下知ノ振合見事成ハ、内藤三左衛門信成ニテ御座候。信玄ノ近習・小松右近、「過タル物カニツ有」ト云落書ヲ見付ノ坂ニタツル。参河衆十人に六、七人ハ唐ノカシラヲ被用ニツキテナリ。平八ハ、甲ノ立物二クロキ鹿角二御座候由。」

(つづく)

連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第1回 『以貴小伝』 築山殿(長男・松平信康の母)
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第2回 『以貴小伝』 小督局(次男・結城秀康の母)
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第3回 『以貴小伝』 西郷局(三男・徳川秀忠の母)
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第5回 『三河物語』「一言坂の戦い」
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犬居城の歴史と武田流の見事な縄張り~天野景貫とは
三方ヶ原の戦いと一言坂の戦い~史跡の写真や地図・駐車場情報も
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浜松城(引馬城)の観光詳細はこらちです
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