連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第9回 『藩翰譜』「井伊直孝」


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、『藩翰譜』4巻「井伊」より「井伊直孝」です。井伊直孝は、井伊直政の次男で、彦根藩2代藩主です。

 

『藩翰譜』(はんかんふ)は、江戸時代の諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつけた家譜集(全12巻。1巻:親藩(徳川諸家)、2〜6巻:譜代大名、7〜10巻:外様大名)です。甲府藩主・徳川綱豊の命を受けて新井白石が編纂し、元禄15年(1702年)に完成しました。

 

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では、早速、「井伊直孝」について読んでみましょう。

 

【未来のお気軽訳】 

井伊直孝は、井伊直政の二男である。(背が高く、骨太で、体の毛が逆立って生まれ、見るからに恐ろしいので、「鬼掃部」と呼ばれていた。)はじめ将軍家(徳川秀忠)に仕えており、慶長10年(1605年)6月26日、従五位下を賜り、掃部介と称した。

井伊直政の妻は、松平康親(松井松平家)の娘・花(徳川家康の養女)である。その花の侍女・於阿古(あこ)が井伊直孝を天正18年(1590年)2月(9月とも)に生んだ。花は、於阿古が妊娠したことを知り、親元へ帰した。その於阿古の父親は、印具(「印貝」とも)徳右衛門道重といって、松平康親の家臣(厩頭)である。天正18年(1590年)7月5日、北条氏が降伏すると、豊臣秀吉の命令で、徳川家康は、関東に移封された。井伊直政は、上野国箕輪(現在の群馬県高崎市)に12万石で封ぜられ、松平康親(天正11年(1583年)6月没)の子・松平康重は、武蔵国騎西(きさい。私市(きさいち)。現在の埼玉県加須市)に2万石を与えられた。松平康重の家来になっていた印具(貝)道重も主に従って関東へ行く途中、駿河国藤枝宿に着いた時に、井伊直孝が生まれた。文禄4年(1595年)、井伊直孝が6歳になった時、実母(於阿古)は、井伊直孝を抱いて、井伊直政がいる箕輪城へ行き、井伊直政が城から出てくるのを待ち伏せし、井伊直政が現れると、馬の轡をつかみ、「この子をここまで育てました。今、渡します」と言って、井伊直孝を井伊直政に渡すと、父親がいる騎西に帰っていった。井伊直政は、花(とその父・徳川家康)の手前、井伊直孝を箕輪城へ入れることが出来なかったので、領内の後閑村(現在の群馬県安中市下後閑)の庄屋・荻原図書に預けた。11歳になった時、預け先の庄屋の家に、夜、盗賊が押し込んできた。井伊直孝は、その盗賊の頭の「高股」(たかもも。ももの上の方)を斬り、「下部」(しもべ、手下)を召し捕って生け捕りにした。井伊直孝が12歳の時、井伊直政は、こっそりと井伊直孝を呼んで、「年来」(何年も前から)戦場で使っていた「采配」(軍隊を指揮するために振る道具)を与えた。死期を悟っていたのであろうか、年が明けた慶長7年(1602年)2月1日、42歳という若さで、井伊直政は亡くなっている。

慶長15年(1610年)7月27日、初めて領地(上野白井藩1万石)をもらって大名となった。また、大番頭に任じられた。(月日は不詳であるが、16歳の時、徳川秀忠に近習として仕えた。これは慶長10年(1605年)のことである。19歳の時、書院番頭に任じられた。慶長16年(1611年)、大番頭に任じられた。)慶長18年(1613年)には伏見城番役となった。慶長19年(1614年)冬、「大坂冬の陣」が起きた時、兄・井伊直勝は、病気で寝ていたので、徳川家康の命令で、井伊直孝は、兄・直勝の代理として井伊隊を率いて大坂城を攻めた。「大坂冬の陣」が終結した慶長20年(1615年)、徳川家康は、井伊直孝を呼び、病弱な兄・直勝に代わって井伊家の家督を継ぐよう命じた。この時、井伊直孝は、「兄・直勝が病気で「大坂冬の陣」に出陣できなかったとはいえ、兄が嫡男です」と泣きながら訴えたが、徳川家康は、「昔、そちの父である井伊直政の家臣にした武田旧臣などがまだ多く残っているので、そちに継がせるのである」と聞き入れなかった。しかし、井伊直孝は、「天下の一大事が起きれば、兄・直勝の代理として、兄の家臣を引き連れてすぐに向かいます。今回もそうしました。誰の命令であっても、兄がいるのに、弟が父の家を継ぐことはできません」と繰り返し辞退したが、やはり、聞き入れられなかった。そこで、安藤直次(慶長5年(1600年)から元和2年(1616年)まで江戸幕府の老中)を通して命令撤回を頼んでもらったが、やまり許されなかったので、井伊家を継いで出仕した。

です。

 

 

井伊直政は、徳川家康の駿府在城期(1586~1590)の最終年に2人の子を儲けています。

1人は正室・花(松平康親娘・徳川家康養女)との間に儲けた長男・直継(後の直勝。1590年2月生まれ)であり、もう1人は妾・於阿古(松平康親家臣・印具徳右衛門道重の娘)との間に儲けた次男・直孝(1590年9月9日(2/1、2/11説あり)です。

井伊直政の死後、井伊直継が井伊家を継いだのは、長男で正室の子であるから当然のことです。次男で妾の子である直孝が家を継ぐ可能性が生まれるのは、直継が死んだ時くらいですが、直継が死んでも、直継に子供がいれば、その子が継ぐので、母親の身分が低い直孝が井伊家を継ぐ可能性は非常に低いです。

 

──井伊直孝は、本当に次男なのだろうか?

──井伊直孝は、本当に妾の子なのだろうか?

 

妾の子の井伊直孝の誕生日には、1590年の2/1説、2/11説、9/9説があってはっきりしませんが、もっとはっきりしないのは正室の子の井伊直継で、1590年2月としか分かっていません。双子かもしれませんね。(当時、双子の場合は、片方が殺されました。殺さずに侍女に預けて隠したのかも?)双子でないとして、井伊直孝が2/1生まれであれば、井伊直継が弟である可能性が非常に高いことになります。

 

井伊直孝の母親については、3説あります。

①妾・於阿古(松平康親家臣・印具徳右衛門道重の娘):『藩翰譜』など

②中里小町(美人だが、身分は低く、中里村の農民の娘):藤枝宿の伝承

③山西の庄屋の娘:中里村の伝承

井伊家の公式発表は、①説の於阿古です。ただ、この話で奇妙なのは、「田中城主である松平康親・康重親子に仕えた武士の娘が、関東移封に伴う移動中に藤枝宿で出産した」ということです。田中城に勤める武士の屋敷は、田中城の南部にあり、そこから藤枝宿までは1時間もかかりません。屋敷で産めばよかったのにと思います。早産で、突然、陣痛が始まったのでしょうか? そもそも、松平康親が田中城主であったとする史料が見当たりません。多分、松平康親は諏訪原城主であり、金谷から私市(騎西)に移動中に、藤枝宿で産んだのでしょう。

「井伊直孝が6歳になると、於阿古は、箕輪城へ行き、井伊直政に井伊直孝を渡すと私市(騎西)に帰った」と『藩翰譜』にはさらっと書いてありますが、実際は大騒ぎとなり、於阿古はその後、暗殺されたようです。於阿古の没年は、文禄4年(1595年)5月6日で、享年は不明ですが、20代前半と想像されています。戒名は身分の低い女性のものであったと思われますが、後に身分の高い女性にしかつけられない「養賢院殿窓梅香音大禅尼」という戒名が追号されたようです。

於阿古について調べてみると、「実母」というより、「乳母」のような気がします。

──於阿古は、なぜ6歳になった直孝を直政に返したのか?

井伊家初代共保は、7歳まで井伊谷八幡宮の神主に育てられた後、藤原共資の養子になりました。「なぜ6歳? なぜ7歳?」──日本には「七つまでは神のうち」という言葉(地方によっては「六つまでは神のうち」「七つまでは神の子」)があります。この言葉の解釈は様々ですが、「生まれてから7歳までの死亡率が高く、7歳になれば一安心」(7歳までの生き死には神様次第)ということらしいです。6、7歳になって、「自分の役目はここまで」と於阿古も神主も感じたのでしょう。

《井伊直孝紀行 山西 ①産湯の井と若宮八幡宮》

井伊直孝が生まれたのは藤枝宿ではなく、山西(益津郡方上庄中里村)の「誕生屋敷」(村松五郎兵衛宅)だと聞いて行ってきました。「山西」とは、駿府(静岡市)と藤枝・焼津市の間の連山(通称:藤枝アルプス)の西側(藤枝・焼津市側)で、徳川家康が鷹狩をしていた場所であり、井伊直政やその家臣たちの領地でした。

 

<写真1:村松五郎兵衛宅跡>

<写真2:井伊直孝産湯の井>

<写真3:「井伊直孝産湯の井」案内板>

 

「あるとき、直政は東海道を通った折、岡部宿本陣へ泊まりました。そこで中里小町という美しい娘が、身の回りのお世話をすることになりました。直政はその娘をたいそう気に入りました。その後、娘は男の子を産みました。この子が後の井伊直孝で、出産の時の産湯を汲んだのが、ここにある井戸と伝えられています。」(案内板)

 

益津郡方上庄中里村(現・静岡県焼津市中里)の「誕生屋敷」(村松五郎兵衛宅)は、平地(観光客用の駐車場)になっていて、「井伊直孝産湯の井」だけが残っていました。ここの案内板では、井伊直孝の母親は、正室の侍女(印具氏)ではなく、岡部宿の本陣で井伊直政の世話をした中里村の「中里小町」という娘になっていました。

 井伊直孝が再建した若宮八幡宮へも行きましたよ!

<写真4:若宮八幡宮>

<写真5:若宮八幡宮の案内板>

<写真5:焼津市指定文化財の棟札と石橋>

井伊直孝は、寛永6年(1629)、40歳になって初めて「中里で生まれた」という出生の秘密を聞くと、すぐに中里を訪れ、京都の石清水八幡宮から八幡神を勧請して若宮八幡宮を再建したそうです。(そのことが黒漆の棟札(焼津市指定文化財)に書かれています。)

 

<写真6:若宮八幡宮の歌碑>

 

昭和53年(1978)に執行された「若宮八幡宮建立350年祭」には、井伊第39代直愛夫妻が出席されました。境内には、井伊直愛氏(当時は彦根市長)お手植えの金木犀と、文子夫人(旧琉球王家尚昌氏の長女で、佐々木信綱に師事)の歌碑があります。

歴史きさむ棟札のこ利 那可佐と乃

   王かミや能社尓わか祖を志のふ

                 文子

(歴史刻む棟札残り 中里の若宮の社に我が祖を偲ぶ)

この若宮八幡宮の今年の秋季例祭(2016年10月9日)に井伊家当主・井伊直岳氏が初めて訪れました。NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放映決定を機に、各所で新しい動きがみられます。

《井伊直孝紀行 山西 ②旗掛石(鞍掛石)と浅間神社》

 それにしても、井伊直孝が、家康の娘の子(嫡男・直勝)を退けて井伊家の宗主となり、さらには、直政以上のスピード出世をしているのは不思議ですが、この理由を、中里では、「御落胤だから」(徳川家康が鷹狩に山西に来て、庄屋の家に宿泊した時に、その庄屋の娘との間に生まれた子が直孝だから)としています。徳川家康が、井伊直政が死ぬと、井伊直勝よりも井伊直孝を優遇し始めたのは、「実子だから」とすれば納得できます。

 御落胤であることを知っていた原川氏は、自分の屋敷で生ませるのを「恐れ多い」と拒否したために村松宅で生むことになったそうです。

<写真7:「旗掛石」(「鞍掛石」)>

 伊勢新九郎(後の北条早雲)の出世の足がかりとなった石脇城(静岡県焼津市石脇下字山崎)の近くの浅間神社(静岡県焼津市石脇)の前に磐座(巨石)があります。この「旗掛石」(徳川家康が武田氏と戦う時に、旗を立て、鞍を置いて休んだそうです。)と名付けられた巨石が「石脇」という地名の由来だそうです。

<写真8:浅間神社由緒>

 

浅間神社由緒
鎭座地 焼津市石脇七〇五番地
祭神 木花咲耶姫命・品陀和気命・天照大御神
例祭日 十月十日
境内社 津島神社 境内地四七七坪
由緒
浅間神社登り口右側に大きな岩が二つある。旗掛石又は鞍掛石という。
本来この二つの岩は、我国の古い信仰である神の依りつかれる磐座(いわくら)であった。この浅間神社は、延徳三年九月天下の英雄徳川家康の三河時代からの家臣であった原川新三郎氏が郷里原川村から浅間社を勧請してこの聖地の側に奉斎したものと伝えられ、明治八年二月村社に、同四十年三月神饌幣帛料共進社に指定された。旧除地高は二石であった。
旗掛石
当時、岩の近くに原川新三郎氏の門前があり、家康が天下を取ってからしばしばこのあたりで鷹狩を催し、そのつど原川家を尋ね、その際家康の旗を立て掛け、馬の鞍を置いたのでこの名があるという。他にやきつべの小径、駒つなぎの松の名跡がある。又、氏子達で年二回大しめ飾りが行われる。
災害
昭和五十七年九月十二日本県を直撃した台風十八号により境内の南側階段等倒壊し多大の災害を蒙るも四百六十四名の氏子一丸となって懸命な努力を続け復旧に直進し同年十月吉日大鳥居を再建した。
昭和五十八年三月吉日建之

 

駿河に於ける原川氏

其一原川新三郎家、志太郡東益津村石脇に原川新三郎と云旧家あり、元遠州原川の住士なりしが故ありて当所に住す。天正中徳川家康遠目陣のとき唱師となり十七ケ付の農夫を狩立徳川勢に見方し教導をなす、其賞として諸役免許の朱印を受けたり。後家康の鷹狩りのとき此家へ立寄りしと云、家の近くに大石二あり旗立の石という。松三本あり馬繋松という、現在の松は植継ぎのものなりという。其東北一丁許に家屋ありきと云えば相当大なる邸宅なりしと見ゆ、天正年間にかヽる大邸宅に住し、旧家と云わるヽより見れば永禄の原川大和村より遥か先に分れて此地に来住せしものなるべく想わる。駿河誌料に曰く

駿河誌料巻十五 石脇

旧家 原川氏 新三郎  先祖は遠江国原川の住士なりしが故ありて本国に移り石脇に住し原川新三郎と云、天正年間武田領たりしとき神君当目筋御陣に忠節を尽しけるに亭宅へ入御あり、宅の古図に凡一丁許西南に堀の路あり、御旗立石、馬繋松等は其古跡なり、今は家衰えたり。天正十二年甲申八月廿二日御印章を給わり、方の上・大覚寺・八楠・越後嶋・策牛・関方・右の郷中十五歳始め六十を限り一揆を立、年寄は乗鞍、物主は原川新三郎指図次第走廻り可申の由、駒井帯刀坂本豊前奉り命ぜられしなり。 松と石とに太き注連を張れり、こは古より正月四月九月の十七日此里民集ひ張替へ新三郎が家へ来り一体を述ぶる例なりと云。(駿国雑誌も大体同じ)

其二(以下略)

※掛川岩井寺『原川大和守関係者顛末』「駿河に於ける原川氏」

──直継は病弱である。

祖父・家康自らが大鉈を振るい、彦根藩主にして井伊家宗主を直孝に替えた。

※彦根藩主を解任された直継は、安中藩主になっており、「病弱」とはいえない。直継は、井伊家臣団の統率ができなかったので降ろされたようである。寄せ集め集団を「人斬り兵部」こと直政はよくまとめていたが、彼の死後、問題が噴出し、家老・木俣守勝がなんとかまとめたものの、木俣が亡くなると直継は、功労者の守勝の養子・守安ではなく、鈴木重辰と椋原正直を家老に任じたため、家臣の不満が一層高まっての交替と考えられる。

結果的には、井伊直孝の彦根藩には武田旧臣などが残され、井伊直勝の安中藩には井伊谷以来の家臣が配属され、家臣団の分裂が治まった。家康の見事な処置としかいいようがない。

 

どうでしたか?

感想をコメント欄に書いていただければ幸いです。

では、最後に原文を載せておきますね。今回の記事を参考に、解読に挑戦してみてね。

 

 右中将藤原直孝は、侍従直政の二男なり。(此人せい高くして骨ふとく身の毛逆さまに生ひ出で恐しげなる男なれば鬼掃部といひしなり)初め将軍家に仕へ奉りて従五位下掃部頭たり。

直政の室は松平周防守康親が娘なり。それに随ひ来りし女の、直孝をば生めるなり。初め直政の室、彼の女の娠む事あるを知りて、其の父が許に送れり。其の父をば印具(一作貝)徳右衛門某といひて康親が家の侍なり。此の年天正十八年の秋、徳川殿、関東に移らせ玉ひ、直政上野国箕輪の城を給ひ、康親の子・康重、武蔵国私市(きさい)の地を給はりて、印具(貝)、関東に移るとて駿河の国藤枝の宿に至る日、直孝は生れてけり。六歳に及びし時、其の母いだきて箕輪の城に赴き、直政が城外に出でしを待ち得て、此の御子かくまで育て参らせて候、今は渡し参らせ候ふべしといひて、みづから参らせて、私市にかへりぬ。直政、頓て其処の庄屋といふ者に、此の子よく育てよとて給ひてけり。十一といふ年の暮に、彼の庄屋が家に夜盗余多入り来る。直孝其の一人が高股斬りて、下部等召して生けどりぬ。十二歳の時、直政ひそかに直孝めして、年来みづから執りし所の采配を授けぬ。如何に思ふ所やありけん、其の明年に直政は卒してけり。

慶長十五年七月二十七日、初て所領の地を給ふ(上野国にして一万石を領す)又大番頭となる(年月未詳。年十六歳にして将軍家に召仕はる。慶長十年なり。十九にして書院番頭となされ、同じき十六年大番の頭となされ)、同じき十八年伏見の城を守る。十九年冬、大坂の兵起こりしに、兄の直勝、病に臥す。大御所の仰せを受け給はり、直孝、兄の代官として軍勢を率して城をせむ。此のとし東西和睦の後、将軍家、直孝をめして、兄の代りに父が家をぞ継がしめらる。
此のとき、直孝は涙を流して、兄にて候ふ直勝、年頃病に犯され軍国の務にたえず、然りとは申せども、大御所、むかし父にて候ふ侍従直政に附けさせ玉ひしふるき者共、猶多く候へば、家の事をば沙汰し申すべし、また直孝かくて候へば、天下の御事あらんには、兄が代官として彼手の者を引き具して馳せ向かひ候はん事、此の度の如くにこそ候ふべけれ、如何なる仰せなりとても、兄にて候ふものを退け、父が家を継がん事、望む所に候はずと辞し申しけれども、御許しなければ、重ねて安藤帯刀直次に就きて頼りになげき申す。終に御許しなかりけり。かくて直孝、父が家を継ぎて後、出仕す。

(つづく)

連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第1回 『以貴小伝』 築山殿(長男・松平信康の母)
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第8回 『遠江古蹟図会』「秋葉大権現」
戦国未来の連載シリーズ一覧
井伊直継-井伊直勝と井伊直孝~兄弟の数奇な運命
井伊直政~井伊の赤鬼の異名を誇る徳川四天王
彦根・龍潭寺と清凉寺【井伊家菩提寺と島左近屋敷跡】
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