少弐冬尚と小田鎮光~かつては天守もあった蓮池城と阿安姫(お安)の逸話


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肥前・蓮池城(はすいけじょう)は、常陸・小田城の庶流である、小田直光(小田常陸介直光)が1429年に築城した小曲城が前身となります。
そのため、小田城、蓮池陣屋とも呼ばれます。

1536年、大内義隆の家臣・陶興房に攻められた梶峰城・少弐資元は自刃し、子の少弐冬尚(推定8歳)が頼ったのが蓮池城主・小田資光(すけみつ)となります。

少弐冬尚(しょうに-ふゆひさ)の母は大友親治の娘です。

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少弐冬尚は佐嘉・水ケ江城を訪れて、家臣・龍造寺家兼らの助けを借ると、1540年に少弐氏を再興し、小田政光(おだ-まさみつ)はこれに従っています。
しかし、1545年、家臣の馬場頼周が龍造寺家の拡大を妬んで、龍造寺家兼の一族大半を暗殺しました。
1546年、柳川城にて世話になっていた龍造寺家兼は、馬場頼周を討伐し、少弐冬尚と対立するようになります。
こうして、少弐冬尚は龍造寺家兼の跡を継いだ佐嘉城(村中城、佐賀城)主・龍造寺隆信と争います。
しかし、龍造寺隆信の勢いは止める事ができず、1553年、村中城の城番を務めていた小田政光は、龍造寺隆信の攻撃を受けると居城・蓮池城も攻められ、小田政光は龍造寺氏に降伏しました。

<お断り>蓮池城の各写真ですが、梅雨時期で大雨警報となり、大粒の雨が写真に入り込んでいる箇所がありますこと、謹んでお詫び申し上げます。

その後、小田政光は1558年に、龍造寺隆信の要請によって少弐冬尚の家臣・江上武種を討伐する長者林の戦いで討死します。
この時、龍造寺隆信は小田政光の援軍要請を無視し、小田政光の死を知ると、蓮池小曲城を攻略したと言われています。

小田政光の子らは家臣・深町理忠の手引きで落ち延びました。
そして、大友宗麟の支援を受けた小田鎮光小田氏を再興します。

この小田鎮光の正室は龍造寺隆信の娘・阿安姫(お安)で、1562年頃に結婚したものと推測できます。
阿安姫(お安の方)の実父は龍造寺胤栄ですが、竜造寺隆信に引き取られて育ち、たいそうな美人であったとも伝わります。
しかし、1568年に小田鎮光は梶峰城へ移され、龍造寺長信が多久から蓮池城に入りました。

大友宗麟が1569年に大軍を率いて高良山へ出陣すると、多久梶峯城主・小田鎮光も協力します。
これに対して龍造寺隆信は毛利家に通じて大友氏と対抗しますが、1570年、毛利家は大友家の奇略により、九州から撤退しました。
こうして大友宗麟は龍造寺隆信を討つため、一族の大友親貞を大将として大軍を肥前に派遣します。
龍造寺隆信の佐賀城の落城は時間の問題でしたが、鍋島信生(鍋島直茂)の献策にて夜襲を敢行すると、大将・大友親貞が討ち取られ、大友勢は総崩れとなりました。

この時、末弟・小田増光は龍造寺長信に従って、小曲城(蓮池城)にて大友勢と対峙し、のち荒平城の城番を命じてています。

その後、筑後の吉井に移住した小田増光は、吉井増光と称し、1585年に病死したとされます。
小田増光の子孫は、のち鍋島直茂に仕えて存続したとの事です。

今山の戦いに敗れた小田鎮光と小田賢光の兄弟は筑後へと出奔しましたが、多久梶峯城に残された小田鎮光の妻・お安の方と、龍造寺隆信の3男は無事保護されたと言います。

女婿の身でありながら反逆した小田鎮光に対して、龍造寺隆信は激怒しており、1571年、阿安姫に手紙を書かせて佐嘉城(佐賀城)に誘い出します。
そして、小田鎮光は謀殺され小田賢光ら一族も殺害されました。
衝撃を受けたお安の方(於安)は、その場にて卒倒するほどであったと伝わります。
その後、阿安姫(お安)は今度は強力な水軍を従える上松浦党の当主・波多親(波多三河守親)に再嫁し、安子姫、秀の前と呼ばれています。

そのあと蓮池城には、後藤家信や龍造寺家晴が城主として入っています。

なお、少弐冬尚もついに勢福寺城を囲まれて自害し、1559年、少弐氏は滅亡しました。

下記の写真は蓮池城跡にある蓮池神社ですが、今にも朽ち果てそうでして、立入禁止になっていました。

なお、戦国時代の蓮池城は、現在のように佐賀江川で分断はされておらず、佐賀江川の蛇行部分(小曲・大曲)を上手く利用した強固な守りの城でした。
その後、昭和50年頃に、蛇行していた川が「まっすぐ」に改良されたため、現在のように城域が分断されています。
このように、この辺りは本当に川と言うか水路が非常に多い所でして、街の区画が分断されてしまっています。

1584年、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで討死すると、蓮池城には龍造寺隆信の次男・江上家種が入りました。
この江上家種は龍造寺隆信の次男で、鍋島直茂の嫡男・鍋島勝茂を養子に迎えています。
1590年、蓮池城の天守が、肥前・名護屋城に移築されたとあります。
しかし、朝鮮攻めの文禄の役にて、江上家種は戦死したため、蓮池城は鍋島直茂の居城となりましたが、この頃には、再興した天守が存在していたと言います。

江戸時代に入ると、分家となっていた蓮池藩主・鍋島直澄が、1654年に蓮池城跡地に蓮池陣屋を構えました。
現在は蓮池神社、蓮池公園として整備されています。
下記は城跡にあるマリア観音の石仏像です。

さて、波多三河守親に再嫁した阿安(おやす)(お安)ですが、豊臣秀吉が肥前・名護屋に入った際、波多三河守親の妻・秀の前が大変な美貌であると聞いて、夫が朝鮮に出陣している間に、名護屋へ出頭するよう命じています。

断る事も出来ず、秀の前(阿安姫)は名護屋城に赴き、豊臣秀吉に拝謁します。
年齢的には30歳代でしたが、その美貌はまったく衰えてはいなかったとされ、豊臣秀吉はその美しさに驚嘆したと言います。

なお、拝謁した際に、秀の前は頭を下げるのと同時に、わざと胸から懐剣を「畳に落とした」とされています。
この胸に懐剣を納めているのを見せつけて、操を守る方法は、義父・龍造寺隆信の母・慶誾尼(龍造寺胤和の娘)からの秘伝とも言われ、自分に手を出すとその場で自害するという意志表示だったようです。
また、俗説では、秀の前は、美しい顔を、自ら焼いて謁見したともされ、いずれにせよ、豊臣秀吉の不興を買いました。
※当時の秀の前は40代後半とする説もあり、創作の可能性も捨てきれません。

その後、鍋島直茂の与力として朝鮮に渡っていた夫・波多親は朝鮮で戦死を遂げます。
徳川家康に預けられて、常陸・筑波に配流となり病死したとする説もあります。

波多家には養子がいましたが家督相続が許されず、唐津城には寺沢広高(寺沢志摩守広高)が入りました。

孤独になった秀の前は佐嘉城(佐賀城)に戻り、仏門に入ると静室妙安尼となり、80歳の長寿を全うしたと伝わります。

阿安姫の墓は、龍造寺家の菩提寺・高伝寺にあります。
下記の写真右側の低い方が恐らく阿安姫の墓です。

平安時代末期の蓮池には土肥氏が赴任

平安時代の末期には平重盛の家人・土肥宗綱(土肥左衛門尉宗綱)が押領使として蓮池に赴任したようで、恐らくは蓮池宗綱と改名したものと考えられます。
この土肥氏は相模・土肥(神奈川県足柄下郡湯河原町)の一族と推測されます。

押領使(おうりょうし)と言うのは、暴徒の鎮圧、盗賊の逮捕など治安維持にあたった警察のようなもので、当然軍事力を行使したので、武芸に秀でた者が任命されることが多いです。

土肥宗綱の子・土肥家綱は、四国土佐の高岡(高知県土佐市高岡)に押領使として派遣されると、平治の乱のあと、土佐冠者源希義(源義朝の4男)を成敗した功績で土佐を賜り、蓮池城(土佐市)を築城しました。

この土肥家綱は、蓮池権頭家綱(蓮池権守家綱)と言う名で吾妻鏡にも出てきます。
ちなみに、この土佐・蓮池城主の蓮池家綱は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際の1182年に、源頼朝に従った夜須行宗(夜須七郎行宗)に討たれ、滅亡したようです。
※蓮池家綱は近藤家綱と称したとする説もあります。

ちなみに、毛利家の智将・小早川隆景の小早川家も土肥一族が出自であるのを忘れてはいけません。

蓮池城へのアクセス

蓮池城は佐賀県佐賀市にあります。
佐賀城からだとクルマで10分ほどの距離です。
下記の地図ポイント地点が蓮池公園の駐車場入口となります。

なお、川の北側にある蓮池神社の右側(東側)にも駐車場があり、私の場合は、そちらに止めて雨の中、散策させて頂きました。
靴が泥んこになったのは言うまでもありません。

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