小早川元総(毛利秀包) 文武に優れた武将・小早川秀包

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小早川元総(毛利秀包)とは

小早川元総(毛利秀包)は、戦国時代の1567年、毛利元就の9男として生まれた。
母は毛利元就の継室(または側室?)である乃美大方(みののおおかた)。
母の出は小早川氏の一族である乃美弘平もしくは乃美隆興の娘で、1548年頃に嫁いでいた。

幼名は才菊丸。なお、長兄の毛利隆元は、小早川元総が生まれた時には既に他界しており、次兄・吉川元春は37歳、三兄・小早川隆景は34歳であった。


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1571年、僅か5歳で、備後に所領を持ったが、同年1571年5月に同じ備後の大田英綱が死去した為、その遺臣に懇願されて大田氏の後継となり、大田元綱(おおた もとつな)と名乗った。

そして1579年、母・乃美大方が小早川家の一族出身であるという縁もあり、実子がいなかった兄・小早川隆景の養子となり、元服した後は小早川元総(こばやかわ もとふさ)を名乗った。
毛利元就と兄・吉川元春の武勇を最も受け継いで素質があると見込んだ為、名将・小早川隆景は跡取りとして養子に迎えたとされる。

本能寺の変明智光秀織田信長を討つと、毛利家は羽柴秀吉と和睦し、その証として1583年に甥の吉川広家と共に小早川元総は、人質として大坂城の羽柴秀吉に送られた。
小早川元総は容姿に秀でていたとされ、羽柴秀吉より「秀」と「藤」の字を賜り、小早川藤四郎秀包(ひでかね)と改名。従五位上・治部大輔にも任じられ。

なお、人質と言っても行動は比較的自由で、1584年に、徳川家康と敵対した小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉に従い出陣もしている。
しかし、吉川広家はすぐに大坂から毛利家に帰さた為、母の乃美大方は人質生活を大変心配して、毛利輝元に対して、早く返してもらうようにと訴えている。

小早川秀包は羽柴秀吉からはかなり優遇され、1585年には羽柴秀吉の家臣待遇として河内に10000石を与えられた。
次いで四国征伐の際には、金子元春が守備する伊予金子城を攻略した戦功により、伊予宇和郡の大津城主として35000石と出世した。


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1586年からの九州征伐では養父・小早川隆景の軍勢に加わり、豊前・香春嶽城を攻略。
その功績で、小早川隆景が筑前・筑後を領すると、筑後3郡に75000石として入り、1587年には久留米城を改修開始した。
この頃、正室に大友義鎮(大友宗麟)の娘・桂姫 (毛利 ドナ・マセンシア)を迎えている。桂姫はキリスト教が禁じられた後も、熱心にキリスト教の信仰を続けた。
その影響で、小早川秀包も洗礼を受け、洗礼名はシマオ・フィンデナオ(Simao)としてキリシタン大名としての活動も目立つようになった。

1587年、佐々成政の元の隈部親永・隈部親泰父子が挙兵した肥後国人一揆では、立花宗茂、高橋統増、筑紫広門、鍋島直茂安国寺恵瓊らを率いた討伐軍の総大将を任じられ、和仁親実らが籠城した田中城を立花宗茂と共に攻略した。
この時、小早川秀包は立花宗茂と意気投合し、戦勝祝いの席で義兄弟の契りを結んだとされる。

この2人には1588年7月に、豊臣秀吉より羽柴氏を名乗ることが許された。更に、立花宗茂には豊臣姓が下賜され、翌年の1589年7月13日に、小早川秀包(23歳)が侍従に任官すると同時に小早川秀包にも豊臣姓が下賜され、以後、羽柴久留米侍従 と称された。

1590年には、小田原攻めにも参戦。

1591年、嫡男・毛利元鎮が誕生。
その1591年、高良山の座主・麟圭(りんけい)・了巴(りょうは)父子を誘殺すると、城下にキリスト教の天主堂を建て、キリスト教信者は7000人になったと伝わる。
麟圭を殺害したのは宗教対立からではなく、武力抗争の結果であり、後に小早川秀包は麟圭の末子である秀虎丸を高良山座主・尊能に付けている。

1592年からの文禄の役では1500を率いて朝鮮に出兵。全羅道攻略の大鼓城攻撃で戦功を挙げた他、碧蹄館の戦いで小早川隆景、立花宗茂、宇喜多秀家、実兄の毛利元康と共に明の大軍を撃破している。
その戦功により筑後久留米のまま55000石を加増されて合計13万石となり、筑後守に叙任された。

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また第二次晋州城攻防戦では、明・朝鮮軍、琳虎の40000を、小早川秀包は立花宗茂は4000の兵にて撃退することに成功したとされる。

1594年、豊臣秀吉の養子・木下秀俊(後の小早川秀秋)が小早川隆景の養子となったため、小早川家の嫡流からは除外された為、分家を創設した。
 
1597年からの慶長の役にでも参戦し、竹島城と星州谷城の防戦で戦功を挙げ、朝鮮出兵でも小早川の武名を轟かせた。
兄でかつての養父・小早川隆景が死没。


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以後は、毛利家同様に石田三成に協力し、1600年、関ヶ原の戦いでは西軍として、8月には大坂城の玉造口を守備した。
9月3日には京極高次が籠城した大津城を、兄・末次元康や立花宗茂らと共に攻撃。
6名の家臣を失い、3名の重臣が重傷を負うと言う苦戦を強いられたが猛攻の末に落城させた。

しかし、関ヶ原本戦では、小早川秀秋の内応や吉川広家・毛利秀元の静観により、石田三成の西軍が敗れたため、占領した大津城から撤退して立花宗茂らと大坂城に戻っている。
大阪城では主戦論を唱えたが、9月24日に西軍・総大将の毛利輝元が降伏した為、大坂城からも退去。

この頃、九州の久留米では黒田官兵衛らが西軍に味方した諸城を攻略しており、10月14日に久留米城は黒田官兵衛・鍋島直茂・加藤清正らが率いる37000の大軍に包囲された。
城代の宿老・桂広繁と、白井景俊らは、わずか500の兵にて数日城は持ちこたえた後、降伏して開城。
小早川秀包の正室・桂姫と嫡男・小早川元鎮は、黒田家の人質となり、桂広繁の四男・黒寿丸は鍋島直茂の人質となった。
桂姫と小早川元鎮は、久留米城の受け取り役で、同じキリシタンの黒田直之(黒田惣右衛門)の尽力で脱出に成功し、小早川秀包のいる滝部へ逃れたとも。

関ヶ原の戦い後は、徳川家康から毛利家共々改易され、久留米の所領を失い、毛利輝元から長門に所領を与えられた。
 
義兄弟である立花宗茂も同じく改易されて牢人の身となり、敗戦の原因とも言える小早川秀秋が同じ小早川の姓名であった為、小早川姓から毛利姓に復し、毛利秀包と改名した。
そして、京都の大徳寺で剃髪して玄済道叱と称している。

長門に入ってからは体調が悪化し、長門赤間関の宮元二郎の館で療養したが、1601年に35歳の若さで病没。

遺体は当時の毛利秀包の知行地で、館があったと伝えられる現在の山口県下関市豊北町滝部に葬られた。
後に久留米に、毛利秀包を祀る小早川神社が建てられている。


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嫡男・毛利元鎮は7000石を継いで、吉敷毛利家の始祖となった。

結果論ではありますが、毛利家を支えた智将・小早川隆景の後を、豊臣秀吉の縁者である金吾(小早川秀秋)が継ぎ、関ヶ原で徳川家康に寝返り、石田三成ら豊臣側は敗れた訳ですが、、小早川秀包がそのまま継いでいたら? と考えてしまうのは、小生だけでしょうか?

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