大江広元~鎌倉幕府の源頼朝に助言した初代政所別当と方園寺


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 大江広元(おおえ-の-ひろもと、大江廣元)は、1148年に生まれた。
 出自については諸説あるが、武士ではなく貴族出身で鎌倉幕府に尽くした人物となる。

 江氏家譜においては、参議・藤原光能の子で、母(大江維順の娘?)の再婚相手となる中原広季に引き取られたとされる。
 尊卑分脈の大江氏系図では、実父が大江維光で、養父が中原広季。
 続群書類従の中原系図では、実父が中原広季で、養父が大江維光になっている。

 なお、晩年までは中原広元(なかはら-の-ひろもと)と称している。
 大江も中原も本姓であり、苗字ではないため「の」を入れて読む。

 正妻は多田仁綱の娘。

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 1168年12月13日、朝廷での宮中用衣服製造の監督と女官の人事を行う、縫殿寮(ぬいどのりょう)を任じられると、以後、下級貴族として仕えたが、1183年4月9日には従五位上に昇叙し、九条兼実の政務も行った。

 大江広元の兄・中原親能が源頼朝と周知の仲で、早くから京を離れて源頼朝に従っていたこともあり、1183年10月に中原親能は源義経の軍勢と共に上洛。
 1184年1月にも京に再度入って、源頼朝の代理として奉行や貴族との交渉をしている。

 この縁で、大江広元は鎌倉へと下り、鎌倉幕府の公文所・別当に就任した。
 公文所(くもんじょ)と言うのは、公文書の管理や、荘園などの訴訟取り扱いなどを行った鎌倉幕府の行政機関で、別当と言うのは職務全体を統括・監督する長官みたいな役職となり、庶務・執務に精通した事務能力が求められる。
 なお、兄の中原親能や二階堂行政らが寄人と言う、大江広元を補佐する役割を任じられた。

 1185年4月3日、正五位下に昇叙され、官位としては源頼朝の次の高官であり、鎌倉幕府において将軍に次ぐ存在であったと推測される。

 1190年、源頼朝が従二位に任じられて公卿となると、設置を許された「政所」を設けたため、公文所が政所に移行・統合された。
 政所とは、本来であれば公家の家政を担当する機関であるが、鎌倉幕府においては一般政務・財政も司ったが、移行時期は1185年説と1191年説がある。
 大江広元は引き続き政所の初代別当として、主に朝廷との交渉を担当している。

 摂政や関白の夫人を「北政所」と称するのも、夫人が家庭内の家政を仕切っていたことに由来する。

 また、源頼朝が守護・地頭を設置したのは、大江広元の献策によるものとされている。

 1199年、源頼朝が死去すると、北条政子や執権・北条義時と協調する形で引き続き幕政に関与した。

 承久の乱が起こると、嫡男・大江親広は朝廷側についたが、大江広元はあくまで鎌倉側として主戦論を唱えた北条政子に協力したようで、朝廷との戦いに慎重な御家人らを鼓舞して、鎌倉幕府側の調理に貢献したとされる。

 1213年の和田合戦では、軍勢の召集や所領の訴訟にて、大江広元が執権・北条義時とともに「連署」をした文書があり、執権・北条家も大江広元がいたから政権を維持できたと言えよう。

 なお、大江広元は、和田合戦にて大きく衰退した横山党の旧領地を与えられていたものと考えられ、八王子の片倉城などは大江広元が築城したとする説もある。
 そのうち、3男・大江季光は、厚木の毛利庄に入り、毛利季光と称して、毛利家の祖となり、戦国時代の毛利元就に繋がっている。

 1206年、政所別当を辞職して隠棲したようだが、1214年1月5日には正四位下を昇叙。

 1216年1月27日、陸奥守に任官されると、朝廷に大江広元と名を改めることを願い出で、閏6月1日に許された。
 吾妻鏡では、養父・中原広季に養育された恩があるが、大江家の衰退を憂いて、実父・大江維光の継嗣となることを望んだとされる。

 その後、1216年8月に、再び政所別当に復職しているが、1217年に出家して覚阿と号し、政務から退いたようだ。

 1225年6月10日に死去。享年78とされる。

 鎌倉の源頼朝の墓近くに、大江広元の墓がある。
 なお、地元の言い伝えによると大江広元の屋敷跡がある鎌倉市十二所の山中にある五輪塔が、本来の大江広元の墓とされている。

大江広元の居館・方園寺

 大江広元の所領であった八王子の方園寺(こうおんじ)は、かつて大江広元の館があったとされている。

 新編武蔵国風土記稿では方園寺(廣園寺)のことを「大江氏居蹟、広園寺の大門さきを云、このあたりに馬場と云所あり、馬立なりと云」と記載。
 ただし、武蔵名勝図会では、片倉城に大江氏がいたとし、大江氏館に関しては触れられていない。

 方園寺を訪れてみると、境内は静寂が漂っており、名刹と呼ぶに相応しい雰囲気である。
 なお、方園寺の縁起による開祖は、南北朝時代の1389年3月、大江広元の後裔である片倉城主・大江師親(大江備中守師親)とあるが、文献などは焼失しており、詳しくは不明との事だ。
 他の説では大江師親の子・大江道広の開基、大江氏惣領家である嫡流・長井氏5代目の長井貞秀の次男・長井広秀が1389年に開基したともある。

 関東管領・足利満兼などの寄進も見受けられるが、1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際に、北国軍(前田利家上杉景勝真田昌幸)による兵火で焼失した。
 その後、徳川家康より15石の朱印状を得て江戸初期に再建したあと末寺50ヵ寺を擁する本寺格の寺院となった。
 しかし、1697年の大火にて再び焼失しており、現在の建造物は江戸時代後半に再建されたものが多い。

 上記写真の山門は、江戸初期の建築とされており、かなり大きい。
 なお、現在でも臨済宗の修行道場となっているため、本堂付近から裏手は立入禁止で公開されておらず、東京都ではかなり貴重な名園とも言われる庭園も一般公開されていない。
 ※ただし、毎年の東京文化財ウィーク期間中に1日だけ特別公開される場合あり。
 
 方園寺へのアクセス・行き方は、下記の地図ポイント地点が無料駐車場の場所となる。

源頼朝と北条政子【鎌倉幕府の尼将軍と征夷大将軍】
毛利季光とは【戦国大名・毛利家の祖】すなわち長州藩主の祖
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コメント

    • 寺田 みゆき
    • 2015年 9月 16日

    毛利の祖先って本当ですかね?
    武将の先祖って結構怪しいことが多いですよね。

    • 高田哲也
    • 2015年 9月 16日

    寺田様、コメントありがとうございます。
    ご指摘のとおり、確実と言う事はないと私も思います。もっとも、養子を迎えたり、もうゴチャゴチャでしょうしね。
    天皇家もしかりですし、昔の歴史は家系に限らず、その辺りは寺田様も良くご承知のはずだと存じます。(^^)
    しかし、毛利季光から安芸の毛利家に繋がる話が本当だと仮定すると、他家と比較した場合、良くわかっている方だと思います。
    なお、長州藩の毛利家は江戸時代後期に、鎌倉に先祖の供養と言う事で、大江広元と毛利季光の墓を建立していますので、このように事実化しているのも大きいと思います。
    そろそろ、ご渡航ですかね?お気をつけて~。

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