本願寺顕如~信長を困らせた浄土真宗の名僧


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 本願寺顕如が生まれたのは、1543年1月7日で、本願寺第十世証如(本願寺証如)の長子として誕生した。幼名は茶々で、母は庭田重親の娘。

 この頃は大阪の石山本願寺が浄土真宗の総本山となっており、一向宗と呼ばれた本願寺の伽藍は城郭にも匹敵する規模であり、周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展した。
 通常の宗教では、宗教や僧侶が信者に対して救済すると信じられているのに対して、一向宗では、信者が人々に対して救済を行う事を認めていた事からも「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱える信者の団結力は強く、不満を持つ人々と共に「一向一揆」と呼ばれる反乱も起こした為、徳川家康上杉謙信など多数の大名が一向宗の禁教令を出し、本願寺の脅威は時の権力者たちに恐れられた。

 本願寺顕如は、1554年、祖母・慶寿院(鎮永)の補佐を受けて、僧職を継ぎ、本願寺教団を運営を開始。

 1557年4月17日に、六角定頼・猶子の如春尼と結婚。この時、本願寺顕如は15歳であった。
 武田信玄の正室になった三条の方は、この如春尼の実姉である。
 如春尼は三条公頼の3女であったが、細川晴元の養女に出されたあと、六角定頼の養女となって本願寺顕如に嫁いだ。
 政略結婚ではあったが、二人の夫婦仲は良かったようで、1558年9月16日には、嫡子の本願寺教如(きょうにょ)、1564年1月22日には本願寺顕尊、1577年7月9日には本願寺准如が誕生している。

 本願寺顕如の時代はまさに戦国時代であり、本願寺教団としては父・本願寺証如が進めてきた門徒による「一向一揆」を掌握する一方、管領の細川家や京の公家衆との縁戚関係を深めており、経済的・軍事的な要衝である石山本願寺を拠点として、主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置し、大名に匹敵する権力を有し最盛期を迎えていた。

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 1568年、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛すると、当初の本願寺は「王法為本」に従って、織田信長に従う姿勢を見せ、本願寺顕如が自ら織田信長に挨拶し、織田信長から5000貫の軍資金を求められても、すぐに応じていた。
 しかし、織田信長からの要求がどんどん追加され、信者の動きの報告義務、本願寺として命令を出す際には織田信長の事前許可が必要、他の大名家と交渉禁止、そして、大阪の石山本願寺の開け渡しも要求された。

 1570年6月、三好三人衆が、摂津・池田城主・池田勝正の同族である池田知正と重臣・荒木村重を調略して、池田勝正を追放すると挙兵し、7月21日に三好三人衆は摂津中嶋に進出して、野田城・福島城を築城した為、織田勢の松永久秀、松永久通、細川藤賢、三好義継、和田惟政らと8月より野田城・福島城の戦いとなった。
 戦場では本願寺顕如の執事・下間頼廉が卓越な戦術能力を発揮し、本願寺勢を指揮したと言う。

 当初、中立だった本願寺顕如も無理難題を強いられていた為「仏法の灯火を守るため、織田家と一向宗に敵する者と戦え。従わぬものは破門する。」と激文を飛ばし、1570年9月より織田信長と交戦状態に入った。
 これに各地の一向宗門徒は一斉に武力蜂起して一向一揆が発生。
 1571年頃には、織田信長と不仲となった将軍・足利義昭からは、信長包囲網の為、本願寺にも信長討伐の命が届く。
 
 石山本願寺では籠城の備えも開始し、友好勢力の雑貨衆から鉄砲などの援助を受け、織田信長と敵対する毛利家と同盟し、村上水軍から海上経路での物資補給を受けた。
 1571年6月には、長男・本願寺教如が朝倉義景の娘と婚約している。

 織田信長は、ひとつひとつ、一向宗の勢力を個別に撃破する作戦を取り、1571年2月に最初の長島一向一揆攻めとして佐久間信盛柴田勝家、氏家卜全、稲葉良通、不破光治など50000の大軍を送ったが、氏家卜全が討死するなどし織田勢は撤退した。
 その後、本願寺とは直接関係は無かったが、1571年9月12日に比叡山延暦寺を焼き討ち。明智光秀らは僧侶など3000名を殺害した。

 1573年4月には武田信玄が西上途中で急死し、包囲網が破たん。
 1573年8月に織田信長は浅井家・朝倉家を滅ぼすと、9月には佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益丹羽長秀、羽柴秀吉、蜂屋頼隆、富田長繁、林通政などに命じて伊勢の長島一向一揆を再び攻撃開始して北伊勢ほ平定するも、ここでも一向一揆衆は待ち伏せ攻撃などで善戦した。
 織田信長は再び1574年6月23日に織田信忠織田信包、滝川一益、柴田勝家、佐久間信盛、羽柴秀長池田恒興前田利家九鬼嘉隆(水軍)など70000の大軍で伊勢を攻め、一揆衆が籠城した城ごと焼き払い約20000名が命を落とし、完全に鎮圧した。
 1575年8月からは、本願寺顕如が派遣していた下間頼照や七里頼周らが指導する越前一向一揆の鎮圧の為、織田信長自ら出陣し、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、簗田広正、細川幽斎原田直政、蜂屋頼隆、荒木村重、稲葉良通(一鉄)・稲葉貞通、氏家直昌、安藤守就、磯野員昌、阿閉貞征・阿閉貞大、不破光治・不破直光、武藤舜秀、織田信孝、津田信澄、織田信包、織田信雄らにより、約12000の一揆衆が討ち取られ、奴隷として40000名が尾張・美濃に送られたと言う。
 これら、織田信長の徹底した残虐な手法により、次第に各地の一向一揆衆も恐れをなして沈静化し、徐々に石山本願寺も影響力を弱めて行った。

 1576年4月には、天王寺合戦で明智光秀・佐久間信盛らに敗れたが7月に毛利の村上水軍と九鬼水軍の海戦となった木津川口海戦では織田勢は大敗している。
 石山本願寺は織田勢により包囲されることとなったが、制海権は毛利勢が握っており、海路からの補給は可能であった。
 木津川での敗戦後、織田信長は九鬼嘉隆に燃えない船を造るように命じ、鉄甲船の建造が始まり、滝川一益も白仕立ての大船を建造している。
 そして、1578年6月、織田勢の鉄甲船が石山本願寺は海路も封鎖し、11月の毛利水軍との対決にも織田勢が大勝利し、石山本願寺は完全に包囲された。
 その直後、1578年10月、織田勢の荒木村重が謀反を起こし、有岡城の戦いとなったが、本願寺顕如は援軍を出せず、1579年12月になると、籠城の継続が難しくなり、朝廷を介して織田信長との和議を模索。

 1580年4月9日、正親町天皇の仲介で本願寺顕如と織田信長は和睦。本願寺顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡の本願寺教如に渡して退去し、紀伊国(和歌山県)の本願寺鷺森別院に退いた。
 しかし、本願寺顕如が退去したあとも、本願寺教如勢が講和に反対して占拠して織田信長に抵抗。しかし、荒木村重が逃亡するなど情勢も悪化した為、本願寺教如勢も雑貨に退去。
 本願寺教如は廃嫡され、3男の本願寺准如が跡継ぎと定められている。
 石山本願寺は織田信長の物になった8月2日の直後に出火し、石山本願寺は三日三晩燃え続けて完全に焼き尽くされたと言う。
 なお、この本願寺の抵抗によって織田信長の天下統一は大幅に遅れたと言われている。

 明智光秀の本能寺の変により織田信長が憤死すると、清洲会議など経て柴田勝家を滅ぼし、実権を握った羽柴秀吉(豊臣秀吉)とは友好関係を保ち、1585年に大阪城郊外に天満本願寺を建立。
 1586年には、羽柴秀吉の九州征伐にも同行して、本願寺顕如は下関に滞在している。
 1589年、京都聚楽第の壁に落書きした犯人を匿ったとして、石田三成により咎められ、 本願寺顕如は豊臣秀吉から怒られている。
 1591年3月、京都に寺領を与えられ本願寺を再興。8月に長男・本願寺教如と共に本願寺(現在の西本願寺)へ移住し、次男・本願寺顕尊は興正寺を再建。
 しかし、本願寺顕如1592年11月24日、50歳にて示寂した。

 1593年閏9月16日、豊臣秀吉の命で、3男・本願寺准如(じゅんにょ)が本願寺(西本願寺)を継承。
 しかし、石山合戦で篭城した強硬派を側近に置いて、本願寺顕如と共に鷺森に退去した穏健派を重用しなかった為、教団内は対立した。
 
 1600年、関ヶ原の戦いで勝利し、江戸幕府を起こした徳川家康は、1602年、隠居していた本願寺教如(ぎょうにょ)に寺領を寄進すると東本願寺が建立され、本願寺は豊臣派と徳川派に分裂した。

下間頼龍~本願寺の僧侶であり武将としても活躍した重鎮
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  1. 2016年 1月 27日

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