堀秀政 かなり有能な武将なれど注目されていない?

堀秀政とは

堀秀政(ほり-ひでまさ)は、戦国武将で斎藤道三のあと織田信長に仕えた堀秀重の長男として1553年に生まれた。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優の小橋川嘉人さんが堀秀政を演じられる。

若くして順調な出世

若くして木下藤吉郎(のちに豊臣秀吉)、織田信長にその才気を見出され、奉行職だけでなく数多くの戦場にも出陣し、多くの武功を挙げている。
堀秀政は名人・久太郎(きゅうたろう)の異名をもつ、物知りでもあった。

美形の堀秀政が信長の小姓に名を連ねるようになったのはわずか12歳の1565年。
織田信長の傍に長くあってその才能を開花させたのか、16歳という若さでときの将軍・足利義昭の仮住まい光圀寺を普請奉行として担当している。
その後も奉行として成果をあげていくが、堀秀政の才は戦でも秀でていた。
戦場での活躍も目覚ましい。
22歳の1575年には越前の一向一揆征伐に参加。
24歳の1577年にはすでに一隊を率いるまでに出世しており、紀伊雑賀討伐戦に参加。
25歳の1578年の有岡城攻めでは鉄砲隊を率いている。
28歳の1581年、第二次天正伊賀の乱の後は、近江国25000石の大名となる。
堀秀政はまさに織田家にあってのスーパーエリートだ。
失態もなく、順調に武功を挙げている。味方といえども不手際があれば容赦がなかった織田家の家風の中で、プレッシャーに打ち勝ち素晴らしい健闘ぶりを示している。


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本能寺の変のあとは羽柴秀吉につく

全国が揺れ動いた1582年。ここで堀秀政は大きな選択を迫られている。
まず安土城を訪れた徳川家康の接待役を明智光秀から受け継ぎ、丹羽長秀と共に対応した。
この交代劇は、明智光秀の不手際が原因といわれている。
その後、すぐに中国地方へ向かい羽柴秀吉(のちに豊臣秀吉)の軍監に就く。
ここで発生したのが明智光秀の反乱である本能寺の変であった。
堀秀政は進退を考えぬいたに違いない。
羽柴秀吉は備中から意表を突く大返しを行い、準備のおぼつかない明智光秀の軍を山崎の戦いで破ることになる。
堀秀政はこのとき、羽柴秀吉と手を組むことを決めて先鋒として、中川清秀高山右近らと活躍。
明智光秀を蹴散らし、明智秀満坂本城にて自害に追い込んだ。

なぜ堀秀政は羽柴秀吉を選んだのか?

堀秀政は羽柴秀吉の口利きで織田信長の側近になったといわれている。
堀秀政には羽柴秀吉に恩があったし、羽柴秀吉も堀秀政のことを可愛がっていた。
その後、羽柴秀吉派の急先鋒として大活躍をするのだが、もしかすると、明智光秀の不穏な動きを読み取り、事前に秀吉に注意を促していたのは堀秀政だったのかもしれない。
謀反を事前に予知していれば、羽柴秀吉が信長旗下のうちで一番迅速な動きをとれた理由にもなりえる。

豊臣秀吉の忠臣として戦場を駆け巡る

よほど羽柴秀吉に信頼されていたのであろう。
清須会議ののち、堀秀政は三法師の傅役として蔵入地の代官を務めつつ、近江の佐和山城9万石を拝領した。
羽柴性も羽柴一族以外で初めて受けたとされている。

佐和山城跡

堀秀政は30歳で柴田勝家とのいくさである、北ノ庄城の戦いで武功を挙げて従五位下、左衛門督を賜った。
31歳では徳川家康と戦うのだが、これは羽柴秀吉の敗戦に終わった小牧長久手の戦いである。
堀秀政は伏兵の策をもって徳川方の榊原康政・大須賀康高を敗走させ、秀吉の面目を保った。

掘久太郎秀政本陣地

32歳には紀州征伐、四国の平定に功があり、領地は越前北ノ庄に18万石を許された。このとき、従四位下を賜っている。
33歳にして昇殿を許されている。
34歳では九州平定の先鋒として活躍した。
35歳で豊臣姓を賜ったので、もはや豊臣家一門衆と同じ扱いと言えよう。
37歳で豊臣秀吉の天下平定の最期の戦である小田原の戦いにおいては、堀秀政はいち早く山中城を落としたが、1590年5月下旬に疫病を患い、5月27日に生涯を閉じた。

堀秀政の墓は、小田原市の海蔵寺にある。

豊臣秀吉は小田原の戦い後は、関東一円を堀秀政に任せるつもりであったとも言われており、堀秀政を失ったことをさぞかし悲しんだことだろう。

堀秀政のまとめ

堀秀政は有名どころの戦のことごとくに参陣し、武功を挙げ続けた優秀な武将であるが、なぜか注目度は低い。
裏方で懸命に頑張っていたというイメージが強いからだろうが、堀秀政の存在がなければ豊臣秀吉もここまで順調に天下獲りはできなかったかも知れない。
戦続きの過労が溜まった?のか37歳という若さでこの世を去った。
しかし、もし堀秀政が生きていれば関ヶ原の戦いはどうなっていたのだろうかと、ふと思った次第である。
はてまた、大阪の陣はどうなっていたのか?
もしかしたら、徳川家康はここまで台頭できなかったかも知れない・・。

小田原攻めに父・堀秀政と参陣していた、嫡男・堀秀治は、その後、越前・北ノ庄城18万石から越後・春日山城30万石へと加増された。
関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方したため、所領安堵となっている。

堀秀政の墓

という事で、小田原の堀秀政の墓をお参りして参りました。
小田原の早川から一夜城(石垣山城)へと登る道路の入り口に海蔵寺がある。

海蔵寺

その海蔵寺の境内ではなく、北側にある崖の上にある墓地の中に堀秀政の墓があると言う事になる。

堀秀政の墓

供養塔ではなく、堀秀政の遺骸が埋葬されたものと考えられるが、同じような墓が並んでいる。
案内板のすぐ右わきの物が堀秀政の墓という事らしい。
下記写真だと左側の墓石となる。

堀秀政の墓

他の墓は堀秀政が亡くなった際に殉死した家臣の墓と言う可能性もあるが、同じ規模と言うのが、ちょっと理解に苦しむ。

堀秀政の墓

なお、海蔵寺には同じく小田原陣中で没した戸沢盛安の墓もあったらしいが、現在は行方不明と言う事になっている。

下記の地図ポイント地点は、海蔵寺の駐車スペースがある場所で、その隣の崖上にある「墓地」の真ん中あたりに、堀秀政の墓がある。

ちなみに、堀秀政の髷(まげ)は領地の家族に届けられたようで、福井市木田の長慶寺にある墓に収められているとの事。
その他、上杉謙信の墓もある新潟県上越市の林泉寺にも堀秀政の墓があります。(下記)

堀秀政の墓

これは堀秀治が越前北の庄から春日山城30万石へ移封になった際に改葬したものとなる。

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