堀川城の戦いと刑部城の戦い~徳川家康のなで斬り?


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堀川城の戦い

堀川城は、1498年に起きた明応地震によって、浜名湖が海と繋がったことで、沼地・湿地となった場所に築城された城で、浜名湖の南側を通行する前の旧東海道の要所にも当たります。

1560年に織田信長桶狭間の戦いにて今川義元を破ると、独立した岡崎城主・徳川家康は東へと領土拡大していきます。
その徳川家の侵攻に対して、今川氏真の家臣である地元の斎藤為義らが、村人らの協力を得て築城したのが堀川城と言う事になります。
干潮時には陸続きですが、満潮時には船を使わないと城へ行けなかったと言います。

なお、井伊家と大きな関わり合いがある豪商・瀬戸方久が、徳政令の免除の見返りとして、堀川城の工事費を負担したとも、のち、堀川城の城主を務めたとも言われています。

新田喜斎(新田友作・新田四郎・新田四郎義一)と言う名に改名したとも伝わる瀬戸方久は、徳川家の攻撃前に城を出たようで、1568年、刑部城を陥落させた徳川家康は、1569年3月27日、3000にて堀川城を攻めました。
この時、堀川城に立て籠もったのは竹田高正山村修理尾藤主膳らをリーダーとした、武装蜂起した農民であることから「堀川一揆」や「気賀一揆」とも呼ばれます。

この時、堀川城は老若男女2000人の村人らも籠城して抵抗し、徳川軍の最初の攻撃は満潮の影響で失敗します。
干潮を利用した2回目の攻撃では徳川勢が猛攻撃を加えて、農民ら約1000人が討死すると言う事態となります。
この戦いに加わった大久保彦左衛門が書いた三河物語では「徳川勢による撫で斬り」と記載されており、生き残った者も捕らえられてる9月9日になって、約700人の村人が首がはねられました。

この約1700と言う死者数は、村民の半数以上の犠牲者であったとされます。
龍潭寺南渓和尚祐椿尼が赴いて供養したとも伝わります。

また、堀川城が陥落したあとの3月25日には、徳川勢の近藤康用、子の近藤秀用、鈴木重路、菅沼忠久、菅沼定盈らによる堀江城攻めも始まっており、堀江城主・大沢基胤はのち降伏しています。

堀川城の戦いは、徳川家康の後世の差配からすると、あまりにも無残な事実でもあります。
浜名湖の一番奥にある水田地帯となりますが、標高は130cm(1.3m)ですので、本当に土地が低いですね。

堀川城への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点の場所となります。
駐車場はありませんが、路肩に2~3台なんとか止められます。
見学所要時間は3分です。

なお、近くの気賀宿には関所跡や気賀宿西入口の枡形があり、堀川城の戦いで9月に斬首された首が晒された「獄門畷」などが残っています。
更に西に1.5km程の所には、堀川城を逃れたたあとに切腹して果てた城将・山村修理の墓があるそうです。
※刑部城はこの下の記事に続きます。

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遠州・刑部城

遠州・刑部城(おさかべじょう)は今川義元の家臣・新田美作入道の居城で、姫街道の要衝と言えます。
堀川城からは約1.7kmの距離で、歩いても約25分の近さです。

1527年に連歌師・宗長が宇津山城(湖西市)を訪問した記録にて「刑部の城」として、舟の往来が自由であると記載されているのが見受けられます。

下記が刑部城の全景ですが、ご覧の通り、小ぶりな城で、当然ながら籠城する兵力も数百程度だったと推測できます。

堀川城が陥落する前年である1568年に徳川勢が攻め、刑部城の戦いとなりましたが、先鋒は徳川に臣従した野田城主・菅沼定盈(菅沼新八郎定盈)で、井伊谷城にいた菅沼忠久らも調略されて井伊谷三人衆が道案内しました。
この時の刑部城主は新田四郎であったようですが、野戦にて行方知れずとなったようで、庵原忠良(庵原庄太郎忠良)・長谷川秀匡(長谷川次郎右衛門秀匡)、内山一党らが堀川城を守備しましたが、難なく落ちたとも、要害につき徳川勢は苦戦しつつも陥落させたとも言われています。
その後、刑部城には、菅沼定盈の叔父・菅沼又左衛門が城代となっていますが、そのあとには酒井左衛門尉が入っています。
下記の写真手前部分が屋敷跡です。

刑部城は標高10mほどの丘陵部の先端で、東西50m、南北30mほどの本郭があり竹林で覆われていますが、一応、北と南が急崖です。
中央付近やや東寄りには井戸(直径約2m、深さ4m)がありますが、かなり荒れ果てた城址であり、竹藪が密生していて危険でしたので内部の見学は断念しました。
浜松市北区も、このような城郭は整備すれば、貴重な観光資源の1つにもなるのではと存じますが、そのような気は無いようです・・。
下記の写真は堀切?と思われるもので、左側が主郭のようです。

現在、二の丸と推測できる城郭内に金山神社があります。
1572年12月、武田信玄は遠江侵攻で三方原の戦いに勝利したあと、この気賀を通行していますが、その際に刑部城に滞在して、新年を迎えたともあります。
また、徳川・織田連合軍に勝ったと、ここから各地の大名などに書状を送ったと言います。

なお、刑部城の西にあったとされる「金襴の池」は、落城する際に城主の娘が身を投げたと言う伝承があり、姫が「蛇」になって住み付いたと言います。
また、一つ目小僧の話もあり、地元の看板では姫の家臣であったのか?と記載されています。
ただし、金襴の池は、埋め立てられており、現在は残っていません。

姫街道のレストラン「さわやか」の前が、駐車場に入れない車で道路混雑していたのですが、どうも、有名な炭火焼ハンバーグ屋さんで人気があるようです。
あと、余談ですが、関ヶ原の戦い以降に徳川家に仕え、この地を知行した服部忠次(服部小平太忠次)の墓が付近にあります。
※相棒の毛利新助の相棒・服部小平太の墓とする説がありますが、それは誤認だと推測致します。

刑部城への行き方は、下記の地図の場所をご参照願います。
なお、駐車場はありませんが、ポイント地点に2台程度、なんとか止められるスペースがあります。
ただし、駐車される際には、ご近所の皆様にご迷惑をお掛けしないよう配慮願いたく存じます。

三方が原の戦いの古戦場跡からも、車でしたらそんなに遠くありませんので、セットでどうぞ。

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