北条夫人~運命に翻弄された武田勝頼の正室 (北条氏康の娘)

北条夫人(小田原御前)の名は不明である為、このページでも勝沼の旧家が呼んだ「北条夫人」としてご紹介する。

北条夫人の父は小田原城主・北条氏康(北條氏康)で、6女として1564年に生まれた。
母は側室である松田憲秀の娘・松田殿。

武田勝頼北条氏直が同盟した際、1577年1月22日に北条夫人(14歳)は、武田勝頼(32歳)の継室として嫁いだ。
武田勝頼は、先に織田信長の養女として武田家に嫁いだ、正室・遠山夫人 (遠山直廉の娘)を迎えていたが、1567年11月、嫡男・武田信勝を生んだ際に、難産のため死去していた。北条夫人が嫁いだ時、武田信勝は既に11歳であったが、1577年3月の諏訪大社・諏訪下社の落慶供養に、北条夫人らは一家で訪問している。

北条夫人が嫁いでまもなくの1578年、越後の上杉謙信が死去し、後継者争いの御館の乱が発生。
武田勝頼は、当初、北条夫人の実兄である北条氏政の要請に答え、北条夫人の兄・上杉景虎(北条三郎)を支持したが、上杉景勝直江兼続らは武田勝頼に多額の金品を贈り、武田信玄の娘・菊姫が上杉景勝に嫁いで甲越同盟を結んだ。
その為、支援を失った上杉景虎(北条三郎)は敗れて自害した事から、甲相同盟は消滅。
武田勝頼は離縁して北条夫人を小田原城に戻そうとしたが、北条夫人は武田勝頼の元を離れなかったと言う。


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恵林寺の快川和尚は、北条夫人を芝蘭(しらん)に例えて「気高く慈愛に満ち、知らず知らずのうちにいつの間にか周囲の人を良い方向へと導いていく人」と人柄を称賛している。

この頃すでに武田家は衰退の一途で、1582年2月1日には織田信長が甲斐へ侵攻開始。
武田勝頼・北条夫人らは、造営途中の新府城へ移るも、穴山信君ら家臣の離反も相次いだ。

そんな中、1582年2月19日、北条夫人は武田家の安泰を願い、武田八幡宮に願文を奉納している。北条夫人自筆の願文が現存する。

hou-fujin

 敬って申す祈願のこと。

 この国の本主として、武田太郎と号せしよりこの方代々護り給う。ここに不慮の逆臣出できたって国家を悩ます。よって勝頼、運を天にまかせ、命を軽んじて敵陣に向う。しかりといえども、士卒利を得ざる間、その心まちまちたり。何ぞ木曽義昌神慮を空しうして哀れ父母をすて奇兵を起こす。これ自ら母を害するなり。勝頼累代の重恩をうけし輩(ともがら)逆臣と心を合わせて国をくつがえさんとす。万民の悩乱、仏法の妨げならずや。そもそも勝頼いかでか悪心あらん。我れも、ここにして相共に悲しむ、涙またとめどなし。神慮天明まことあらば、罪悪人のたぐい、かりそめにも加護あらじ。神慮まことあらば運命このときに至るも、願わくば伶(れい)人力を合わせて勝つことを勝頼一指につけしめ給い、仇を四方に退けん。

右の大願成就ならば、勝頼我れとともに社殿磨きたて廻廊建立のこと、敬って申す。

  天正十年二月十九日 源勝煩うち

3月2日には高遠城織田信忠らによって総攻撃を受け、仁科盛信らが自害。

武田勝頼は相模と接する小山田信茂の勧めで、岩殿城を目指して落ち延び、北条夫人や武田信勝も同行した。
しかし、小山田信茂も離反し、武田勝頼一行は天目山へと逃れようとした。
3月11日に日川渓谷の天目山の近くの田野で、滝川一益勢に捕捉され、土屋昌恒らが奮戦するも多勢に無勢であった。(天目山の戦い)

武田勝頼は、北条夫人に小田原へ落ち延びるよう説得したと伝わるが「先年、わが弟の越後三郎(景虎)危急の時、私から色々嘆願したにも関わらず、あなたはお聞き入れになりませんでした。今更命が惜しいと、何の面目があって小田原に帰れましょうか。」と最期に語り、北条家に顔向けできないと恥じ入って自害したと記している。「帰る雁 頼む疎隔の言の葉を 持ちて相模の国府(こふ)に落とせよ」(小田原北条記)と、武田勝頼(享年37)・武田信勝(享年16)と共に北条夫人も自害した。享年19。

北条夫人は、従者の早野内匠助、清水又七郎、剣持但馬守らに、黒髪をつかんで切り落とした形見の品を預け、これまでの感謝と労いの言葉を掛けると、御役御免として小田原城へと帰したと言う。

介錯を頼んだ金丸昌義、小原広勝、小原下総守らが震えてためらう様子を見ると、北条夫人は懐剣を自らの口に含み、前向きに地面に倒れ込んだと言う。
武田勝頼は苦しませてはならぬと駆け寄りとどめをさすと、亡骸を抱きしめて、しばらく呆然としていたと伝えられている

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(上記写真は景徳院の墓で、左から武田信勝の墓、真ん中が武田勝頼の墓、その右が北条夫人の墓)

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(上記写真は景徳院で、3人の胴体が埋められているとされる墓)

北条夫人の法名は北条家の供養では桂林院殿本渓宗光。
武田家側ではは「法泉寺位牌」で陽林院殿華庵妙温大姉、他には「景徳院位牌」にて北条院殿模安妙相大禅定尼。

景徳院の境内

北条夫人は、武田勝頼との間に3女、次男、3男を産んだとする説もあるが、甲乱記では子供はいなかったと記載されており、良くわかっていない。

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