連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第20回 『井伊家伝記』「第10段 井伊彦次郎實子龜之丞信州落之事并今村藤七郎忠節之事」


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、『井伊家傳記』より「第10段 井伊彦次郎実子亀之丞、信州落ちの事、並びに、今村藤七郎忠節の事」です。

『井伊家傳記』は、龍譚寺九世住職・祖山法忍が、記録や口伝を基に、正徳5年(1715年)に書き上げた井伊家の由緒書(全66段)で、龍潭寺に保管されています。写本は数多く存在しますが、中でも二宮神社の神主の中井直恕(『礎石伝』の著者)による元文5年(1740年)の写本「乾坤本」(彦根市立図書館蔵)には独自の注が付けられていて、注目に値する写本となっています。

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内容はと言うと、たとえば、井伊直平引馬城主であったとするなど、史実とは思われないことも書かれていますが、遠江井伊氏研究のバイブル(基本史料)であることには間違いありません。

では、早速、「第10段 井伊彦次郎実子亀之丞、信州落ちの事、並びに、今村藤七郎忠節の事」について読んでみましょう。

【未来のお気軽訳】 井伊彦次郎実子亀之丞、信州落ちの事、並びに、今村藤七郎忠節の事

一 井伊彦次郎直満と井伊平次郎直義が(駿府で今川義元に)殺害された後、(井伊家家老の)小野和泉守が駿河国より帰国し、「井伊彦次郎直満の実子・亀之丞(後の井伊直親)を殺せ」という今川義元の命令を伝えたので、今村藤七郎(井伊彦次郎直満の家老)は、(藁蓆を縫って作った穀物等を入れる袋である)叺(かます)に亀之丞を入れて隠し、それを背負って、井伊谷の奥の山間部の黒田郷(静岡県浜松市北区引佐町東黒田・西黒田)に潜んでいたところ、小野和泉守が探索に来たので、「井伊谷の近くに隠すのは無理である」として、南渓和尚(井伊彦次郎直満の兄)と密かに相談して、今村藤七郎に亀之丞を背負わせて、信濃国伊那郡市田郷にある松源寺(長野県下伊那郡高森町下市田)へ落ち延びた。この松源寺という寺は、南渓和尚の師である黙宗和尚が、彼の師である文叔和尚から「伝法」(師が弟子に仏法を授け、伝える事)された文叔和尚開山の寺であるので、南渓和尚が手紙を書いて遣いに渡し、「この寺は都合が良い」と亀之丞と今村藤七郎は、信濃国のこの寺に(天文14年(1545年)年~弘治元年(1555年)の10年間とされるが、『井伊家伝記』では)12年も隠れていた。この間、今村藤七郎は、ずっと亀之丞に付き添って住んだ。この12年間、毎年、南渓和尚の遣いの僧が、お金(生活費)などを持ってきていた。

さてまた、今村藤七郎は、元はといえば、当遠江国城東郡の武士である。「勝間田」と名乗り、系図には「勝間多」とある。家紋は「舞鶴」である。勝間田氏の始祖である横地太郎家長は、遠江国の三ヶ野(静岡県磐田市三ヶ野)に捨てられたが、(春日大社の神の使いの鶴が舞い降りて、赤ん坊を守るかのように)踊っていたので、春日神社参拝途中の二俣氏(後の藤谷神社(春日明神)の世襲神主家)に発見されて助かったので、「舞鶴」を家紋としたのである。当国(遠江国)の横地氏とその庶子家の勝間田氏は、源八幡太郎義家の子孫であり、源氏である。城東郡の横地氏、勝間田氏は在名(ざいみょう、ざいめい。住む土地の名をとってつけた名前)である。(横地氏、勝間田氏、西郷氏、戸塚氏、石谷氏、海老江氏の6氏は、元は横地氏とその庶子家であり、遠江国城東郡に興った武士である。全て在名である。)信濃国落ちの時、勝間田藤七郎は、今村藤七郎と改名した。
さてまた、信濃国落ちの時、元日であったので、逃避行中ではあったが、お吸物を食べて新年を祝った事は、吉例となり、今に至るまで、井伊家の元旦のお給仕は、今村家が勤めるよう、申し伝えられている。また、井伊直政公が三河国の鳳来寺に落ち延びたのは、(永禄11年(1568年)末であるが、永禄12年の)元旦ともいわれ、今村藤七郎がお給仕されたとも申し伝えられている。この今村藤七郎は、(元亀4年(1573年)没とも)天正10年(1582年)までは生きていたともされるので、井伊直政公の三河国落ち延びの時、御供するのは可能である。考えてみると、今村藤七郎は、信濃国に隠れ住んでいた12年の内、唯一人の付添人であり、毎年正月になっても、他に給仕する者は無く、今村藤七郎が勤めていた。弘治元年(1555年)に信濃国から遠江国井伊谷に帰国後、祝田 (静岡県浜松市北区細江町中川)に屋敷を建てて住むようになってからも、今村藤七郎以外に正月の給仕をする者は無く、今村藤七郎が(井伊直親公の給仕を)勤めたことは、吉例として、自然に井伊直政公に代替わりしも引き継がれたのであろう。その時から吉例となり、今村藤七郎の子孫の今村家が代々勤めるようになったと思われる。この由緒により、正徳2年(1712年)8月の「井伊肥後守直親公150年遠忌」に今村藤七郎の子孫である今村忠右衛門が代参するよう、長寿院様(井伊直興公)が仰せられたのである。

です。

 

【亀之丞(井伊直親)の逃避行】

 

<写真1:「直親の隠れ岩」>

 亀之丞(後の井伊直親)の殺害命令が今川義元から出されると、亀之丞の父・井伊直満の家老であった勝間田藤七郎は、今村藤七郎と名を変え、猟師に変装し、亀之丞を叺に入れて猟師道を行きました。「直親の隠岩」は、鳳来寺道黒田峠の磐座(いわくら)で、この黒田峠を越えて下れば黒田村です。「直親の隠岩」がある場所の地名が「矢倉」であるので、「井平城の武器庫跡」と考えられていましたが、「矢倉」には「猟師の宿泊所」という意味もあり、近くに井戸跡もあります。正月付近は獲物は冬眠中で、猟はお休みでしょうから、猟師小屋には誰もいなかったでしょう。

最初は黒田村に潜伏していましたが、小野氏の追手が迫ってきたので、「亀之丞は病死。今村は切腹」という偽情報を流して渋川村の東光院へ逃れ、その寺の住職・能仲和尚(南渓和尚の弟子。新野出身で、新野親矩の弟とも)の道案内で、市田郷の松源寺へ逃げました。

<写真2:亀之丞が10年間潜伏していた松源寺跡(寺山)>

松源寺は、寺山にあった寺で、その敷地の広さから、「寺」というより、「庵」であったと考えられています。武田信玄によって焼かれ、現在は存在しませんが、寺自体は安永9年(1781年)に松岡城址に再建されています。(祖山和尚が送った井伊直親の位牌があります。)

【横地一族】

 

<写真3:鶴ヶ池>

 

横地太郎家長は、源義家の子です。源頼義の奥州征伐に従った源義家が、太田川の氾濫により、滞在していた見付宿で相良太郎光頼の娘と結ばれたのですが、その夜、二人揃って子が出来る夢を見たそうです。源義家は、「子が出来たら捨てろ」と言って、奥州へ向かったそうです。本当に子が出来たので、亀甲紋の産着を着せて三ヶ野に捨てると、白鳥が舞い降りて踊り、それを見た春日神社へ行く途中の横地郷(静岡県菊川市東横地・西横地)に住む二俣弾正(始祖は野見宿祢)が見つけて拾い、「捨太郎」と名付けて育てました。鶴は二俣弾正について横地郷まで来て、「荒原の沼地」(現在の深田)に住んだそうです。10年後、捨太郎は、奥州征伐を終えた源義家と小夜の中山で会いました。源義家は我が子と認め、元服させ、「家」の一字を与えて(「偏諱」といいます)横地太郎家長と名乗らせ、「鹽見坂から大井川までの土地」(ということは、遠江国全部になってしまう。私の想像では、「鹽買坂から大井川まで」の間違い)を与えました。さらに二俣氏には、春日大社から春日神を勧請して藤谷神社を建てさせて世襲宮司家とし、荒原の鶴の世話も頼んだそうです。(藤谷神社には、後世、式内・奈良神社が合祀されたという。)

三ヶ野には、近くに「源頼朝の金札鶴」で有名な鶴ヶ池がありますから、多くの鶴が飛来してきたことでしょう。

鎌倉時代の古文書には、横地氏・勝間田氏・井伊氏(井氏)がセットで登場します。横地と勝間田は共に「東遠」(南遠(遠州南部)の東部地方)で近いのですが、井伊谷井伊氏の本拠地の井伊谷は「西遠」(南遠(遠州南部)の西部地方)で遠いので、この井伊氏は、東遠の菊川市嶺田を本拠地とする井伊氏と考えられ、大石泰史氏によって「日向ヶ谷井伊氏」と命名されました。井伊谷井伊氏と日向ヶ谷井伊氏の関係は不明とのことです。(日向ヶ谷は土方氏の領地でしょうから、「日向ヶ谷井伊氏」ではなく「嶺田井伊氏」の方がいいと思います。)

 

どうでしたか?

感想をコメント欄に書いていただければ幸いです。

では、最後に原文を載せておきますね。今回の記事を参考に、解読に挑戦してみてね。

井伊彦次郎實子龜之丞信州落之事并今村藤七郎忠節之事

一 井伊彦次郎直滿、同平次郎直義傷害之後、小野和泉守、駿州ゟ歸國。直満實子龜之丞を失可申旨、今川義元ゟ下辞之旨、申候故、今村藤七郎(彦次郎家老)か満春に入候て、隠し負て井伊谷山中黒田之郷ニ忍居申候所ニ、小野和泉守、相尋申候故、近所ニかくし申事難成、南渓和尚(彦次郎肉兄)密に相談にて、今村藤七郎尓龜之丞を負せて、信州伊奈郡市田郷松源寺江落行申候。右松源寺と申す寺者、南渓和尚師匠黙宗和尚伝法の寺故、南渓和尚ゟ書状遣して、右之寺を便として龜之丞并藤七郎、信州ニ十二年隠レ居被申候。其間、藤七郎付添居申候。拾似年之中、年々南渓和尚ゟ使僧遣、金子等、為持被遣候。

扨又、今村藤七郎ハ、元来、當國城東郡之武士也。「勝間田」を名乗、系圖「勝間多」なり。舞鶴之紋。勝間多之元祖、遠州三か野にて、鶴舞シ申候より以来舞鶴之紋也。當國ニて横地、勝間多、八幡太郎義家之子孫にて源氏也。城東郡ニ横地、勝間多之在名有之。(横地、勝間多、西郷、戸塚、石谷、海老江、六家ハ、元来一家にて、遠州城東郡出生之武士なり。今以不残在名有之。)信州落之節、「勝間多」を相改て「今村」と名乗申候。
扨又、信州落之節、元日、途中にて御吸物を祝申候を吉例と成り、今以末代迄も正月元朝之御給仕ハ今村家相勤申旨、申傳候。又、直政公御落之節も正月元朝故、藤七郎御給仕致候とも申傳候。右藤七郎ハ、天正拾年迄ハ在命故、直政公御落行之節、成程藤七郎御伴可致事ニ候。相考申候ニ、藤七郎信州十二年之中、只壱人付添御奉仕申候故、年々正月之給仕とても外ニ致申候者無之、藤七郎相務申候得者、弘治元年、信州ゟ御歸國、祝田村ニ住居被成候ても、外ニ正月之御給仕致候者も無之、藤七郎相勤申候得ハ、其吉例、自然と直政公御代ニ相傳。夫ゟ御吉例ニ成り、御代々藤七郎児孫之今村家、相務申事と相見申候。右之由緒故、正徳二年辰之八月、井伊肥後守直親公百五十年遠忌之節、藤七郎児孫今村忠右衛門、 御代参ニ長壽院様被仰付也。

(つづく)

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コメント

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  • コメント (1)

    • 戦国未来
    • 2016年 12月 29日

    『井伊家伝記』(全66段)のうち、10段までアップしました。このまま続けていいか、もうやめた方がいいか、ご意見をお聞きしたいです。

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