連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第18回 『井伊家伝記』「第8段 共保十三代井伊信濃守直平遠州引馬(今之濱松)之城主ニ成事」


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、『井伊家傳記』より「第8段 共保13代井伊信濃守直平、遠州引馬の城主に成る事」です。

『井伊家傳記』は、龍譚寺九世住職・祖山法忍が、記録や口伝を基に、正徳5年(1715年)に書き上げた井伊家の由緒書(全66段)で、龍潭寺に保管されています。写本は数多く存在しますが、中でも二宮神社の神主の中井直恕(『礎石伝』の著者)による元文5年(1740年)の写本「乾坤本」(彦根市立図書館蔵)には独自の注が付けられていて、注目に値する写本となっています。

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内容はと言うと、たとえば、井伊直平引馬城主であったとするなど、史実とは思われないことも書かれていますが、遠江井伊氏研究のバイブル(基本史料)であることには間違いありません。

では、早速、「第8段 共保13代井伊信濃守直平、遠州引馬の城主に成る事」について読んでみましょう。

【未来のお気軽訳】 共保13代井伊信濃守直平、遠州引馬の城主に成る事

一 永正2年(1505年)、井伊信濃守直平公は、今川義元に、遠江国引馬(現在の静岡県浜松市)の引馬城主に申しつけられると、「修理亮」を改めて「信濃守」とされた。そして、井伊保(本領)の6万石以外に、引馬(新領)の6万石を授けられた。これで、新領と本領、合わせて12万石となった。(徳川家康公が「井伊谷三人衆」と呼ばれる近藤庸用、菅沼忠久鈴木重時に下された御判物に、「井伊谷の新知・本知」という文言が出てくる。この判物は、現在、水戸藩の御家中(水戸藩士)の鈴木石見守家が保管している。鈴木石見守重好は、(鈴木重時死後の次世代の)「井伊谷三人衆」の一人で、井伊谷から井伊直政公について、上野国箕輪(群馬県高崎市)、近江国彦根(滋賀県彦根市)と移動した。晩年は、上野国安中藩初代藩主の井伊直勝公(直政の長男)に付き、上野国安中(現在の群馬県安中市)で亡くなった。彼の嫡男・平兵衛、次男ともに安中藩から水戸藩に移り、本領5000石を得て、現在も水戸藩士である。
井伊直政公は、天正18年(1590年)、遠江国浜松(現在の静岡県浜松市)において、知行が加増され、本領6万石に新領6万石が加えられて、合計12万石となった。これは、本領・新領の「例」(ためし。以前ためした事柄、先例。ここでは、井伊直平の時の本領6万石と新領6万石で12万石であった状態に戻ったということ)である。また、上野国箕輪(群馬県高崎市)から近江国彦根(滋賀県彦根市。※佐和山の誤り)へ国替えの際に、6万石加増されて、合計18万石となった。(井伊直政公の天正18年(1590年)、総石高12万石(内訳は、6万石は本領である井伊谷、6万石は上野国箕輪でのご加増分)とは、上野国箕輪へのお国替えの時の話である。)

井伊直平公が浜松(引馬城)に引っ越された時、井伊谷城の家老の飯尾淡路守(法名は「哉屋道善」と南渓和尚の過去帳に掲載されている)の嫡子である飯尾豊前守則重を引馬城の家老として連れて行った。飯尾豊前守則重は、永禄6年(1563年)に、井伊直平公に反逆し、毒茶を勧めた。そして、井伊直平公が服毒死すると、 引馬城を奪い取って城に籠った。永禄11年(1568年)迄は引馬城主であった。この「飯尾豊前守」のことを『徳川伝記』(巻第五)「濵松井伊後室合戦」に「井伊豊前守」とあるが、これは誤りである。「飯尾豊前守」は、永禄11年(1568年)に、駿府において、今川氏真に殺されている。その時、二男の辰三郎と飯尾豊前守則重の妻である「お田鶴の方」が引馬城に於いて、徳川家康公に刃向って戦った。(井伊家の井伊豊前守が家康公に敵対したと言われるが、それは誤りで)井伊家は、最後まで、徳川家に敵対することはなかった。そもそも「井伊豊前守」という人物は存在せず、『徳川伝記』に誤って記録したということを、よく考えるべきである。

さてまた、この「飯尾豊前守則重」の事に付いて、諸家の記録に「引馬城主」とばかり書かれている。これは、井伊直平公が引馬城に出勤の時は、老齢であるので、方々への出陣は、皆、飯尾豊前守則重が代わりに勤めたためで、諸家の記録には、「飯尾豊前守則重は、井伊直平公の家臣で、引馬城の家老である」とは書かれていない。しかし、飯尾氏が井伊直平公の家臣であったことは、紛れもない事実である。

飯尾豊前守則重の親を飯尾淡路守定重という。龍潭寺の南渓和尚の過去帳に掲載されている。飯尾豊前守則重が、今川氏真に背いて戦いになった時、引馬城攻めで、中野信濃守直由と新野左馬助の両将に飯尾豊前守則重を攻めさせたのは、(今川氏真に背いたからという前に)直平公に毒を飲ませて死なせた怨みがあるため、井伊家の親族である中野信濃守直由と新野左馬助の両将が攻めたのである。

です。

 

「井伊直平は引馬城主で、飯尾氏は城主ではなく家老」「井伊氏の領知(領地と領民)は、本知(井伊保)6万石+新知(引馬)6万石=12万石」という話は、学者によって否定されています。

確かにこの段の記載内容は、史実とは異なります。「永正二年乙丑、井伊信濃守直平公、遠州引馬の城主に今川義元より申し付けられ候」と言われても、今川義元は、永正16年(1519年)生まれですから、ありえません。私としては、史実かどうかより、祖山和尚が何を根拠にこう書いたのか、出典を知りたいです。

「ひくま」の表記は、引馬、引間、曳馬、曳駒など様々です。「ひくま」とは「低湿地」のことだそうですが、「引馬野」という言葉もあり、「野」は「台地」の古称(野→原→台地と変化)ですから、「低湿地」ではないような・・・。ちなみに、「引馬野」は「三方ヶ原」と呼び名が変わり、徳川家康と武田信玄の戦いが行われました。

 

<写真1:引間城址(現・浜松東照宮)>

<写真2:引間城案内板>

<写真3:引間城主・飯尾豊前守の墓(東漸寺)>

<写真4:椿姫(引間城主・飯尾豊前守の室・お田鶴の方)を祀る椿姫観音

どうでしたか?

感想をコメント欄に書いていただければ幸いです。

では、最後に原文を載せておきますね。今回の記事を参考に、解読に挑戦してみてね。

共保十三代井伊信濃守直平遠州引馬(今之濱松)之城主ニ成事

一 永正二年乙丑井伊信濃守直平公、遠州引馬之城主に今川義元ゟ被申付候。直平公、此時、「修理亮」を相改候て「信濃守」に被成、井伊保本知之外、濱松引馬新知六万石御預り、新知・本知、合拾貮万石也。(権現様、井伊谷三人衆、近藤・菅沼・鈴木ニ被下候御判物、井伊谷新知・本知之御文言有之。只今、水戸御家中・鈴木石見守方ニ相傳。右、鈴木石見守、井伊谷三人衆之内にて、井伊谷ゟ井伊家へ付添、上州箕輪、江州彦根、末ニハ、井伊右近太夫直勝公ニ付き、上州安中ニて相果申候。其惣領平兵衛、次男両人共に安中を立退、只今、水戸ニて本知五千石、今以相勤申候。)

直政公、天正十八年、於遠州濱松、御加増被仰付候節、六万石之上に新知六万石、都合拾貮万石。則、本知・新知之例也。又、上州ゟ江州彦根へ御所替、御加増も六万石、都合拾八万石也。(直政公天正十八年、於濱松、御加増、惣高拾貮万石、内六万石本知井伊谷高、六万石者、於上州箕輪御加増、御拝領高なり。御國替、御引越之節也。)直平公、濱松御引越之節、家老飯尾淡路守(法名「哉屋道善」、南渓和尚過去帳、有之)嫡子豊前守則重、家老ニ被召連候。永禄六年に直平公江逆心、毒茶を進申候。直平公毒死之後、引馬之城を奪取り籠城。永禄十一年迄ハ引馬之城主ニ成申候。此飯尾豊前守を『徳川傳記』ニ聞傳誤里て「井伊豊前」と書ハ誤なり。飯尾豊前守、永禄十一年に、於駿府、今川氏真之為傷害なり。其節、二男・辰三郎、豊前ヵ妻、於引馬城、家康公江手向、敵對をな春奈り。井伊家ハ、終御当家江敵對申事ハ、無之。元来、「井伊豊前」と申事ハ、無之所ニ、『徳川記』ニ誤て記録春るなり。能々可考也。扨又、此豊前則重事ニ付、諸家記録ニ引馬之城主と斗有之候。是ハ、直平公、引馬江出勤之節ハ、老人故、方々江出陣ハ、皆々豊前守名代ニて相勤候故、諸家之記録、直平公之家老と相見不申候。然共、直平公家臣ニ紛無之候。親を飯尾淡路守と申候て、龍潭寺之南渓和尚過去帳ニ有之候。飯尾則重、今川氏真ニ對反逆節、中野信濃守、新野左馬助両将ニて則重を攻候事も元来直平公之怨敵故、井伊家之親族、中野と新野と両将ニてせむるなり。

(つづく)

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