井伊谷宮と宗良親王~井伊谷のもうひとつの見どころ


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宗良親王とは

宗良親王(むねよししんのう、むねながしんのう)は、後醍醐天皇の第4皇子である。
母は二条為子。

父・後醍醐天皇の妃(皇后)は、藤原禧子(西園寺実兼の娘)であり、のち添えとなった皇后・珣子内親王(後伏見天皇の皇女)と言う、皇后との間には娘しか生まれていない。
後醍醐天皇が関係した女性は合計で30人以上おり、儲けた子供の数は32人にのぼり、それらの女性との間にだけ男子である皇子が誕生している。
とてもではないですが、後醍醐天皇も子供の名前を全員は覚えられなかったのではないでしょうか?

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南北朝時代が始まると、後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らには新田義貞をつけて北陸方面へ軍勢を向かわせた。
懐良親王らは征西将軍を任じて九州方面へ。
宗良親王には征東将軍として東国へ。
義良親王には奥州へと、各地に自分の皇子を派遣して北朝に対抗させようとした。

1338年、宗良親王は、義良親王とともに北畠親房に奉じられ、伊勢・大湊からより陸奥国府(福島県伊達市)へ海路を進もうとしたが、座礁して遠江に漂着し、井伊谷城主・井伊道政のもとに身を寄せた。
1339年、後醍醐天皇が崩御。
1340年、足利尊氏勢の高師泰・仁木義長らに攻められ、三岳城にて抵抗するが落城すると逃走し、1344年には信濃・伊那郡の香坂高宗の世話を受けて、大河原(長野県大鹿村)に入る。
1373年までの約30年間に拠点したため「信濃宮」と呼ばれるようになり、劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点でもあった。
1351年には、新田義興とともに一時、鎌倉を占領することに成功し、1352年に征夷大将軍に任じられたが、鎌倉も奪われ、ふたたび大河原の地に戻っていた。

1369年、信濃守護を兼ねていた関東管領・上杉朝房の攻撃を受け、1374年、劣勢を挽回できないまま36年ぶりに吉野に戻っている。

その後、1385年9月14日に井伊谷城で薨去したともされている。(享年73)
※諸説あり
そんな関係で、井伊谷には「井伊谷宮」と言う宗良親王を祀った神社がある。

井伊谷宮

井伊谷宮(いいのやぐう)には、宗良親王の墳墓があるが、宮内庁管理で立入禁止になっている。
その墳墓の手前に、宗良親王を祀る井伊谷宮がある。

明治に入って、彦根藩の知藩事・井伊直憲が、井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、井伊谷宮の建物自体は、竜潭寺塔頭廃寺跡に明治5年に完成したものであるが、白峯宮(白峯神宮)、鎌倉宮とともに官幣中社に列せられた。

現在、境内には有料拝観の日本絵馬史料館などがある。

行き方・アクセス

井伊谷宮の無料駐車場は、鳥居の左側にあり、下記の地図ポイント地点の場所が入口となる。
他にも川沿いの方に大きな駐車があるので、混雑時はそちらがお勧め。
なお、龍潭寺の駐車場に止めて、井伊谷宮も見学したり、その逆パターンも可能だ。

合わせて拝観したい龍潭寺の詳細はこちら
宗良親王も籠城した三岳城(三嶽城)

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