池田輝政と池田元助~現在の姫路城を築城した池田輝政の功績

池田輝政(いけだ-てるまさ)は、池田恒興の次男として1564年12月29日に清洲城下にて生まれた。幼名は古新、のち三佐衛門と改名。
母は、正室の善応院(荒尾善次の娘)とされる。

1559年生まれで5歳年上の兄・池田元助(いけだ-もとすけ)と共に織田信長の近習として仕えた。
その後、次男であった為、1573年に家臣である荒尾善久の養子となり、池田輝政は木田城主となった が、口数が少なく寡黙な人物だったようである。
この荒尾善久は、父の正室・善応院の兄と言う事になる。

1579年、荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦いでは、11月に父・池田恒興や兄と共に摂津・倉橋にある倉橋郷の砦に布陣。
1580年、花隈城の戦い(花熊城の戦い)にて北諏訪ヶ峰から攻撃し、閏3月2日に池田輝政(15歳)は荒木勢の武将5~6名を自ら討ち取る戦功を挙げ、兄・池田元助(20歳)と共に高名を立てた。
この時、織田信長より感状を受け取っているが、兄は荒木元清を討ち取ったことから、名馬を賜っている。
また、父が荒木村重の旧領を与えられて有岡城に入った。

1581年からは、父の名代として池田元助・池田輝政の2人が馬揃えに参加するなど、父・池田恒興とは別に池田勢を2人で率いて行動するようになっている。
1581年11月、羽柴秀吉に協力して淡路へ入り岩屋城などを攻略。

1582年、甲斐の武田勝頼攻めでは、兄・池田元助(24歳)と池田輝政(19歳)は明智光秀の与力として出陣。
その後、中国遠征の準備を命じられていたが、1582年6月2日、明智光秀が謀反を起こし、織田信長が本能寺の変で横死すると、父・池田恒興と共に羽柴秀吉に従い、山崎の戦いにて明智光秀と戦った。

清洲会議により、父・池田恒興(47歳)は大坂・尼崎・兵庫で12万石となる。
そのため、池田元助が伊丹城主となり、池田輝政は尼崎城主となっている。
また、10月15日、羽柴秀吉が京都・大徳寺にて織田信長の葬儀を行った際に、池田輝政は羽柴秀勝と共に棺を担いでいる。

1583年、賤ヶ岳の戦いでは、父・池田恒興は参戦していない。
池田元助・池田輝政は織田信雄に属して、羽柴秀吉に協力して参戦。
父・池田恒興が美濃・大垣城主となると、池田元助は岐阜城主、池田輝政は池尻城主となった。

羽柴秀吉と織田信雄の関係が悪化すると、池田家は羽柴家に味方し、1584年、小牧・長久手の戦いにも出陣。
しかし、父・池田恒興と兄・池田元助が双方とも義兄・森長可らと討死してしまう。

長久手古戦場公園

父と兄の死を知り、池田輝政は敵陣に突撃しようとしたが、家臣・番藤右衛門が馬の口をもち必死に止めたとされる。
池田輝政はこの事が一生の心の傷となり、番藤右衛門を加増しなかったが、池田輝政の死後に、番藤右衛門は功績を認められて、跡を継いだ池田利隆より加増を受けている。

なお、池田元助(享年21歳)の嫡子・池田由之は、このときまだ8歳の幼子であったため、池田輝政(21歳)が家督を継承し、大垣城主13万石を受け継いだ。
1585年には同じ13万石で岐阜城主となるが、何事も無ければ兄の家臣か小大名として終えていただろう池田輝政の転機であった。

また、池田輝政の正室・糸姫中川清秀の娘)との間に、1584年、長男・池田利隆が生れている。

その後、池田輝政は、紀州攻め、佐々成政の討伐、九州攻めなども活躍。
また、池田恒興の3男である池田長吉は、近江・佐倉にて3万石となっている。

なお、父・池田恒興の娘である若御前(池田輝政の妹)が、年代は不明だが豊臣秀次の正室となっている。

池田輝政は1587年な羽柴姓、1588年には従四位下侍従と豊臣姓を下賜され、1590年の小田原攻めでは2800を率いて参陣した。

その後、三河のうち、渥美・宝飯・八名・設楽4郡(東三河)にて15万2000石となり吉田城主となっている。

吉田城

また、在京の粮米として伊勢の小栗栖の庄も与えられた。

文禄の役では、国内守備を任されていた豊臣秀次に仕えており、吉田城にて東国を警戒した他、朝鮮出兵のための大船建造、また兵糧米を名護屋城に入れるなどの任をこなしている。
また、伏見城の普請や、豊臣秀保の大和・多内城の普請でも池田輝政の名が見受けられる。

そして、1594年、豊臣秀吉の命にて、継室に徳川家康の次女・督姫を迎えた。
この督姫は、北条氏直の正室であった女性で、再婚であった。
なお、この時、北条家に伝来していた「酒呑童子絵巻」と「後三年合戦絵詞」(国の重要文化財)を持参している。
2人の夫婦仲は良く、1599年に池田忠継、その後も池田忠雄、池田輝澄、池田政綱、池田輝興、振姫など5男2女をもうけた。

この督姫を娶った際、伏見の徳川屋敷を訪れた池田輝政は、小牧・長久手の戦いで父・池田恒興を討った徳川家の家臣・永井直勝からその最期を聞いている。
しかし、永井直勝の家禄が5000石だと知ると「父の首はたったの5000石か」と不機嫌になったとされ、池田輝政は徳川家康に永井直勝の加増を進言した。
そのため、永井直勝は1万石の大名になり、後には下総・古河城にて7万2000石となるに至っている。
ちなみに永井直勝の子孫には三島由紀夫などがいるが、この永井直勝の逸話は池波正太郎の小説「仕掛人・藤枝梅安」にも登場する。    

1595年、関白・豊臣秀次が粛清された豊臣秀次事件では、妹・若御前(若政所・豊臣秀次の正室)は助命されるなど、特別扱いされている模様だ。

1598年8月、豊臣秀吉が没すると、池田輝政は徳川家康に接近。
また、福島正則加藤清正加藤嘉明浅野幸長黒田長政ら武断派と共に、石田三成の襲撃事件に参加したとされる。

1600年、関ヶ原の戦いでは、前哨戦となった岐阜城の織田秀信を攻撃し、弟・池田長吉や長男・池田利隆、福島正則と共に戦功を挙げた。

この時、池田輝政は福島正則と同時に攻める事を約束していたが、かつて自分の居城であったことや、福島正則が遅かったのか?早まって岐阜城に一番乗りを果たした。
しかし、福島正則が怒るだろうと予測して、同時に攻めたと報告しており、あまり物事に執着しない性格であったとされている。

その後、関ヶ原本戦では毛利秀元吉川広家らと、南宮山の西軍の抑えを担当したため、武功は見受けられない。
ただし、弟・池田長吉は長束正家が撤退した近江・水口岡山城攻めにて長束正家と長束直吉の兄弟を城からおびき出し、切腹させるのど功績を挙げ、弟・池田長吉は鳥取城にて6万石となっている。

池田輝政は、岐阜城攻略の功績から木下家定に代わって播磨・姫路城に52万石となり、初代・姫路藩主となった。
この加増石高は、結城秀康、蒲生秀行、松平忠吉に次いで4番目と言う高い評価である。

福島正則より「お主が大国を領したのは、大御所(徳川家康)の婿だからだ。我らは槍先で国をとったが、お主は一物で国をとったのよ。」と言われたと言う。
すると、池田輝政は「いかにもわしは一物で国をとった。だが、もし槍先でとれば天下を取ってしまったからのう。」と言い返したと言われている。

そして、池田輝政は豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制するための拠点として、1601年~1609年にかけて姫路城・天守を現在の姿へと大規模改修を行った。
普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛となる。

この時、姫路城の周りには男山など、敵に布陣されるとマズイ地形であった為、家臣の多くは別の場所に新城を築城することを提案したと言う。
しかし、池田輝政は「籠城する事なく、討って出て大勝利を得ればよい。だから城の要害性は心配ない。」として、姫路城を改修した。
また、姫路城の支城として明石城(船上城)・赤穂城・三木城・利神城・龍野城(鶏籠山城)・高砂城も整備された。
更に加古川の堤防工事も進め、城下町の整備などでも功績を残している。

なお、亡き兄・池田元助の池田由之(いけだ-よしゆき)に対しては、1601年に播磨・佐用郡付近で2万2000石を与え、利神城を改修させている。
この池田由之は、のち備前・天城に32000石にて陣屋を構えて別家となっており、天城池田家として幕末まで続いている。

1605年、池田輝政の嫡男・池田利隆(いけだ-としたか)は、正室に徳川秀忠の養女・鶴姫(榊原康政の娘)を迎えて、将軍家との関係を更に深め、結果的に池田家は幕末まで続く事となる。

池田輝政は、1606年、江戸城の天下普請、1609年にも篠山城、1610年には名古屋城など、各地の天下普請にも従事。
特に篠山城の普請では総普請奉行を務めている。
また、焼失した伊勢神宮の摩尼殿を1609年に再建した。

なお、池田輝政の名で射られているが、1609年頃までは池田照政の文字を使用した。

1611年3月、二条城における徳川家康と豊臣秀頼との会見に同席。

1612年、正三位参議、および松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」「西国将軍」などと称されている。

なお、次男・池田忠継には備前・岡山藩28万石、三男・池田忠雄は淡路・洲本藩6万石、弟・池田長吉は因幡・鳥取藩6万石となっており、西国最大の大名家となった。
ただし、大大名となってからも倹約に務め、城よりも人材が大事だと、捻出した費用にて、有能な家臣を召抱えたとされる。


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1613年1月25日、戦国の世を駆け抜けて来た池田輝政は、姫路城にて死去。(享年50)
死因は中風とされており、本多正純から中風と聞いた徳川家康は、中風の薬を鳥犀円に託して届けさせている。
なお、池田輝政の死は、豊臣秀吉の呪いとも噂されたようだ。

家督は長男(嫡男)の池田利隆が継いだ。

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