連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第1回 『以貴小伝』 築山殿(長男・松平信康の母)


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、『以貴小伝』より「築山殿(つきやまどの)(徳川家康の長男・松平信康の母)」です。

 

『以貴小伝』(いきしょうでん)は、徳川歴代将軍家の女系の略伝(全1巻)で、初代・徳川家康から第10代家治までの生母・正室・側室の出自、経歴などが書かれています。
成立年は不明ですが、最後の記事が寛政3年(1791年)の記事ですので、1800年前後と考えられます。
家譜や日次記を底本としているようで、面白おかしい逸話を多く載せがちなこの種の本にしてはまともで、記載内容も正確だとされています。

 

では、早速、「築山殿(長男・信康の母)」について読んでみましょう。

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【未来のお気軽訳】 徳川家康(東照神君家康公)の正室の父は、関口親永(関口義広、関口氏広とも)であり、母は、今川義元の妹(義妹、伯母とも)である。
徳川家康がまだ駿河国駿府(現・静岡県静岡市)に人質として住んでいた時、今川義元の斡旋で、弘治2年(1556年)の春、徳川家康と結婚した。
永禄3年(1560年)5月19日、今川義元が尾張国(現・愛知県西部)での「桶狭間での戦い」で織田信長に討たれると、徳川家康は、領地である三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)に帰ったが、正室は、まだ駿府に人質状態で住んでおり、人質交換により、永禄6年(1563年)の春(通説では前年の3月)、岡崎に移った。
「駿河の御前」とも、同盟を結んだ織田信長が討ち取った今川義元の関係者であり、岡崎城にいた家康の生母・於大の方が入城を拒否したこともあって、家康は岡崎城へは入れず、三河国築山に住ませたので、「築山殿」とも呼ばれた。
永禄2年(1559年)に嫡男・岡崎三郎信康(松平信康)、翌年に亀姫を儲けていたが、天正7年(1579年)8月29日、ある理由(大人の事情?)があって、野中重政らが小藪村(現・静岡県浜松市中区富塚町小藪)で殺害した。
後に首塚(愛知県岡崎市福寿町)に西光院が建てられて、「西光院殿」という法名が贈られたが、百回忌に旧・富塚村の西来院に、首のない胴体の骨が葬られ、この法要の時に、首を切った時の刀を洗うと赤く濁った「太刀洗の池」の水が澄んだので、新たに「清池院殿」という法名が贈られた。
また、子どもたちはというと、築山殿殺害からしばらくして、長男・信康が切腹した。長女・亀姫は、奥平信昌の正室となり、美濃国加納(現・岐阜県岐阜市加納)に住んだので、「加納殿」と呼ばれた。
(西来院領は、初めは10石であったが、延宝6年(1687)4月1日、同年8月29日に百回忌を開くことになったので、寺領が20石増し加えられて、計30石となった。この百回忌までは「西光院殿」と呼ばれていたが、百回忌から「清池院殿」と改められたのであるが、松平家の菩提寺である大樹寺(岡崎市鴨田町広元)では、今でも「西光院殿」と呼んでいる。)

 

<写真1:築山殿墓所「月窟廟」(西来院)>

<写真2:信康墓所「信康廟」(清瀧寺)>

<写真3:「新城城」(新城市)>

※写真1:築山殿の墓所は西来院(浜松市中区広沢2丁目)にある。享年38(伝)。
※写真2:長男・信康の墓所は清瀧寺(浜松市天竜区二俣町)にある。享年20。
※写真3:長女・亀姫(亀姫)は、長篠城主・奥平信昌の正室となった。享年66。(長篠城(愛知県新城市長篠)は「長篠の戦い」でボロボロになっていたので、家康の命により廃城とし、新城城(愛知県新城市新城)を築いて亀姫を迎えた。)

『以貴小伝』のまともな説明に、【未来のお気軽訳】では、「太刀洗の池」の伝説などを加えて怪しくしまい、申し訳ない。

築山殿について書いた本は、「嫉妬深い鬼嫁」、「死んで怨霊になった」などと面白おかしく書いてあるものが多いのですが、実際はどうだったのでしょう?
14歳(仮)で結婚し、38歳(仮)で亡くなったとすると、結婚生活は24年間になりますが、夫・家康と同居していたのは、多く見積もっても10年に満たないと考えられています。
そんな状態では誰もが疑心暗鬼になることでしょう。ましてやガラスの心のお姫様ですから。

《築山殿紀行(愛知県岡崎市)》

 

<写真4:築山稲荷(岡崎市中町小猿塚)の鳥居>

<写真5:境内の案内板(総持寺)>

築山殿が住んでいた「築山」は、竜田公園(愛知県岡崎市籠田町)の南側一帯の地名で、そこに総持尼寺という尼寺があり、その守護社(寺を守る稲荷社)は、地名を頭に付けて「築山稲荷」といいます。
この稲荷社は、総持尼寺と共に遷座して、現在は小猿塚にあります。寺伝によれば、総持尼寺(現・総持寺)は、宮中を悩ます狐を退治した本間重光が開基の寺で、築山稲荷は、本間重光が退治した狐の霊を祀る神社なのだそうです。

※境内の案内板:総持寺は建保二年(一二一四)本間三郎重光が順徳天皇の皇女を開山として創建し、高師重女の尼心妙が再興したというが疑問。
古文書の語るところによると、感応の擾乱で族滅した高氏一族の菩提を弔うため、高師泰の娘で高師冬の妻であった尼明阿が姪を住持とし当寺を建立し、寺領として菅生郷を寄進した。
以後、当寺は明治八年まで尼寺であったので総持尼寺とも呼ばれる。寺はもと籠田惣門南の総構え内側(すなわち菅生郷築山の地)にあったが、昭和二年に現在地に移転した。(岡崎市教育委員会)

 

<写真6:祐伝寺(岡崎市両町2丁目)>

<写真7:築山殿の首塚(祐伝寺)>

岡崎市消防本部(「信康の首塚」がある岡崎市朝日町)裏に根石山祐伝寺(岡崎市両町2丁目)があります。
岡崎城代・石川数正が、ここに築山神明宮を建てたのだそうですが、現在、築山神明宮は、八柱神社(岡崎市欠町石ケ崎)に合祀されています。

 

<写真8:八柱神社(岡崎市欠町石ケ崎)>

<写真9:築山殿の首塚(八柱神社)>

 

どうでしたか?

感想をコメント欄に書いていただければ幸いです。

では、最後に原文を載せておきますね。今回の記事を参考に、解読に挑戦してみてね。

【原文】 東照宮の北の方・關口氏ハ、御父を刑部少輔親永といふ。御母ハ今川治部大輔義元朝臣の妹也。東照宮いまた駿河の國府におはせませし時、義元のはからひにて、弘治二年の春、あはせまいらす。永祿三年、義元朝臣、尾張の桶間にて討れしかハ、東照宮ハ、御料三河の岡崎にかへらせ給ひしかと、北の方ハ、なを駿河にとヽめられでおはしけるを、同き六年の春、岡崎にむかへ參らす。「駿河の御前」とも、「築山殿」とも(三河國築山といふ所に住せ給ひし故に)いひし也。この御あはひに三郎信康君と龜姫君とをまうけ給ふ。天正七年の八月、故ありて、野中三五郎重政うけたまはりて、小藪村といふ所にして、北の方をうしなひ奉る。清池院殿と申す。遠江國敷智郡富塚西來院にをくりまいらす。扨、三郎殿もこの比、御生害あり。龜姫君ハ、奥平九八郎信昌に賜はり、「加納殿」と申せしなり。(西來院領、はしめハ十石なりしか、延寶六年四月朔日、ことしの八月、百回の遠忌にあたりたまひしにより、寺領ましくはへられて、合て三十石になりぬ。この頃までハ、「西光院との」と申せしを、此時より「清池院」と改められしとし、大樹寺にてハ、今も「西光院殿」と申つたへたりといふ。)

(つづく)

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コメント

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  • コメント (2)

    • 柳生聡
    • 2016年 12月 11日

    ▼信康と織田の徳姫との結婚は、築山にとっては耐え難い運命だったでしょう。
    織田方の人間に囲まれてくらす築山殿は、夫家康への哀惜と恨みつらみを書き綴った手紙を浜松へ送っています。
    夫婦仲が冷え切っていても、せめて築山殿を浜松へ伴って周囲織田一色の岡崎から連れ出してやろうと考えるには、あまりに若い家康にはできない配慮でしたか。
    ▼大賀弥四郎事件がきっかけで、信康は自害へと追い込まれていくことになります。
    その大賀事件との関連で謀反の物証が築山殿の周辺からでてしまい、岐阜へ報告されてしまったようです。
    信康自害と前後して、築山殿は家臣の野中重政に斬られてしまいますが、その報告を受けた家康は「わが意中を察せぬ堅物・・」と無念さをにじませたといいます。
    ▼自慢の伯父を討たれ、父を見殺しにした夫に疎まれ、あまつさえ最愛の我が子が織田から迎えた嫁によって窮地に追い込まれる・・築山の凄絶な死は、家康の晩年にみせたような思慮深さと慎重さがあれば回避できたものを・・とも思います。

    『徳川実記』など権現様に遠慮した男中心の記録ばかりの中にあって、こういった良質な資料から徳川の女たちの生きようを読み取っていくことは、史実と突き合わせていくと思わぬ発見につながることもあり目からウロコですね。
    記事を興味深く拝見しました。これからも「戦国未来」さんのお取り組みに注目したいと存じます。

    • 戦国未来
    • 2016年 12月 11日

    @柳生聡
    コメントありがとうございました。
    真実は闇の中です。
    その闇に光をいろんな方向から当てると真実が見えてきます。
    徳川側の史料だけでなく、相手側の史料も読む。
    男の論理で書かれた資料だけではなく、女の論理で書かれた資料にも目を通す。
    真実が見えてくる過程は、探偵の謎解きのようで、スリリングでエキサイティング!

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