連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第2回 『以貴小伝』 小督局(次男・結城秀康の母)


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、『以貴小伝』より「小督局(こごうのつぼね)(徳川家康の次男・結城秀康の母)」です。

『以貴小伝』(いきしょうでん)は、徳川歴代将軍家の女系の略伝(全1巻)で、初代・徳川家康から第10代家治までの生母・正室・側室の出自、経歴などが書かれています。
成立年は不明ですが、最後の記事が寛政3年(1791年)の記事ですので、1800年前後と考えられます。
家譜や日次記を底本としているようで、面白おかしい逸話を多く載せがちなこの種の本にしてはまともで、記載内容も正確だとされています。

 

では、早速、「小督局(徳川家康の次男・結城秀康の母)」について読んでみましょう。

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【未来のお気軽訳】 「小督局」、名は「万」「於万の方」という。永見吉英の娘で、徳川家康の次男である結城秀康(於義丸、羽柴秀康)の生母である。
一説に、父・永見吉英は、池鯉鮒大明神(現・知立神社。愛知県知立市西町神田)の社人だという。
おまんの方は、「いとけなし時」(大変幼い時)から、徳川家康の正室・築山殿の奥女中であったが、君(徳川家康)のお手付きとなって妊娠したことを、築山殿が知ると、ある夜、於万の方を丸裸にして、縄で縛り、浜松城静岡県浜松市中区元城町)の作左曲輪の林中に捨てさせたのを、その夜、宿直(とのい)であった本多作左衛門重次が、女の泣く声を聞いて訝り(怪しく思い)、泣き声のする方へ行ってみると、於万の方を見つけ、急いで縄を解き、理由を聞くと、密かに自分の家に連れて行って介抱し、その後、徳川家康にこっそりと教えると、家康がそう指示したのか、本多重次は、そのまま「かしづいて」(世話をして、後見して)、天正2年(1574年)2月8日、浜松城外の宇布見村(現・浜松市西区雄踏町宇布見)の中村正吉の家で子を産んだ。
この子が於義丸(後の結城秀康)である。このような事情があるので、しばらくは、於義丸と徳川家康の対面は無く、本多重次が世話をした。(親子の対面は、不憫に思った長男・松平信康のセッティングにより、於義丸が3歳の時に実現した。)
また他説では、於万の方が妊娠すると、正室・築山殿にばれて、「憂き目」(辛い仕打ち)をされることを恐れて、密かに忍び出て、田原城主・本多豊後守広孝の大人(家老)・本多半右衛門(本多重次の又従兄弟)の家に駆け込み、「斯く斯く然然(かくかくしかじか)」と駆け込んだ事情を話したので、親族の本多重次に託けると、本多重次は密かに君(徳川家康)に申し上げて、自分のもとへ迎え入れ、介抱したという。どちらの説が正しいだろうか?
関ヶ原の後、結城秀康は、下総から越前北庄67万石に加増移封されたので、小督局も越前国へ同行したのであるが、結城秀康が慶長12年(1607年)閏4月8日に急死(享年34)すると、悲しみに耐えられず、突然、徳川家康の許可も得ずに出家した。
法号は「長勝院」(ちょうしょういん)という。元和5年(1620年)12月6日、福井にて死去。享年73。結城秀康の菩提寺である孝顕寺(下総結城家の菩提寺・孝顕寺から分寺。福井県福井市足羽1丁目)に葬った。
小督局の兄・永見吉克など、永見一族は結城秀康に召し抱えられたが、結城秀康の嫡男・松平忠直の時に断絶した。
その後、松平忠直は、不行状により豊後国に配流されたが、そこで生まれた長頼(ながより)に永見長頼(ながみながより)と名乗らせて、永見家を再興したが、この永見家も、お家騒動に巻き込まれて絶えた。

 

<写真1:知立市観光案内板(知立神社境内)>

<写真2:知立神社>

※写真1:知立市観光案内板。小督局の故地である知立神社、知立古城跡、総持寺は全て西町(上の地図の左上一帯)にある。

※写真2:知立神社(知立市西町神田)は、式内社であり、三河国二宮(一宮は砥鹿神社で、三宮は猿投神社)であり、東海道三大社(他の2社は、三島市の三嶋大社と名古屋市の熱田神宮)である。

※知立城(知立市西町西)は、知立神社の神主・永見氏の屋敷城だという。

※総持寺(知立市西町新川)には、「徳川秀康之生母 於萬之方誕生地」碑がある。

 

小督局の父親は、知立神社の神官にして知立城主の永見吉英だとされていますが、父親を村田意竹とする説や、父親は、浜松の百姓・与四郎で、家康が鷹狩りの最中にお万を見つけて気に入り、浜松城に連れて行って、湯殿係として使ううちにお手付きとなったとする説もあります。
2つの異説の共通点は、「父親が村田意竹だとしても、身分の低い与四郎だとしてもまずいので、永見吉英の娘として城に入れた」という点です。『柳営婦女伝系』という本では、次のように紹介されています。

「長勝院殿は、池鯉鮒の住、永見志摩守娘(其名「於萬の方」)也。一説、攝州大坂の住、村田意竹女也。意竹男・村田清右衛門仕秀康卿、賜千石、改号村田信濃、為越前福井町奉行。
意竹は伊賀の産也。」(長勝院(小督局)は、その名を「於万の方」といい、知立に住む永見吉英の娘である。一説に、摂津国大坂に住む村田意竹の娘だという。
この村田意竹の息子・村田清右衛門は、結城秀康に仕え、千石を賜った。越前国福井の町奉行となり、名を村田信濃守と変えた。村田意竹は、伊賀国生まれである。)

村田意竹は、ある時は大坂の町医者、ある時は伊勢山田の神官として現れる謎の人物ですが、実は熱田神宮の神官で、永見吉英とは縁者の間柄だそうです。

 

<写真3:糟目犬頭神社

<写真4:本多作左衛門重次誕生地之碑(糟目犬頭神社境内)

 

※写真3:糟目犬頭神社岡崎市宮地町字馬場)。糟目春日神社(豊田市渡刈町北田)と共に式内・糟目神社の論社。

※写真4:「三河三奉行 本多作左ヱ門重次誕生地之碑」。本多作左衛門重次は、天野康景、高力清長と共に「三河三奉行」の一人。
通称は作左衛門。異称は、怒りやすいので「鬼作左(おにさくざ)」であるが、涙もろい一面もある。要するに感情の起伏が激しい人物である。

※「長篠の戦い」の陣中で書いた妻宛の手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、日本一短い手紙として有名である。

 

『以貴小伝』の作者は、小督局を本多重次が見つけて助けたとする説と縁者の家に駆け込んだのを本多重次が助けたとする説の「いつれかまことなるにや」(どちらの説が正しいだろうか?)と疑問を投げかけています。
常識的に考えれば、後者はあり得ますが、前者は99%無いでしょう。

──意竹は伊賀の産也。

村田意竹は様々な人物に変装して諸国の情勢を探る伊賀忍者だったとする説があります。
その娘の小督局は、織田信長に属する女忍者(くのいち)で、今川家や徳川家の内情を探らせるために、築山殿の奥女中として、素性がバレないように永見吉英の娘として潜入させた織田の間者(スパイ)だとする説があります。
だとすれば、縄で縛って拷問する(素性を吐かせる)とか、服を脱がして密書が縫い付けられていないか調べるとかした可能性はあります。
いずれにせよ、学者は、この時期、築山殿は岡崎、小督局は浜松にいて、二人の接触はないとして、2つの説の両方を否定しています。

──浜松城から宇布見に逃げたところで、近いから、すぐに見つかる。

宇布見では、この話は、浜松での話ではなく、岡崎での話だとしています。(言われてみれば、於万の方は、築山殿の奥女中であり、2人が別々の場所にいるはずがない。)
妊娠した於万の方は、本多重次に守られて岡崎城を抜け出し、知波田村(現・湖西市)の豊田勘蔵宅で40日間匿われた後に中村正吉宅に移り住んだとのことです。

 

《小督局紀行(中村家住宅)》

 

<写真5:結城秀康が生まれた中村家住宅の長屋門>

<写真6:中村家住宅案内板>

<写真7:「胞衣塚(えなづか)」(中村家住宅)>

<写真8:胞衣塚碑>

 

中村氏は、源範頼の末裔の武士で、本貫地は、大和国広瀬郡中村郷です。
文明13年(1481年)に、中村14代正實が今川氏に招かれ、遠江国磐田郡大橋郷に領地を賜り、その後、今川範忠について武功をあげ、敷知郡和田、平松、宇布見、山崎、大白須の五郷が与えられ、文明15年(1483年)に宇布見に屋敷を構えました。

 

「正實 蔵人新左衛門 文明十三年遠江国豊田郡大橋郷住居、然奉仕今川上総介源範忠朝臣、武功依之賜仝州敷知郡和田、平松、宇布見、山崎、大白須、等五ヶ荘仍則移宇布見郷構家敷永正九壬申歳十二月九日没」(「中村家系図」正實の項)

 

中村18代正吉から徳川氏につきました。徳川家康の遠江侵攻ルートについては、「陣座峠から井伊谷を経由して」というのが有力説ですが、「新所から船で宇布見へ」というルートもあり、この時に船を出したのが中村正吉であり、徳川氏に仕えました。家康の関東移封の時は、

──ついてこい。大名にする。

と言われたそうですが、これを断ったので、武将から庄屋に格下げされたものの、浜名湖の水運を牛耳る大豪商になりました。

 

※写真5:中村家住宅の入口。公開はされているが、見学するには観覧料が必要である。

※写真6:「中村家は、鎌倉時代から続く名門で文明15年(1483)この地に屋敷をかまえた。徳川家康の次男(於義丸・後の結城秀康)が誕生した家である。
昭和48年、主屋が、大規模で質が良く内部の板戸等古い建具も残されているということで、重要文化財に指定された。平成13年から15年にかけて解体復元工事を実施し、江戸時代前半の貞享5年(1688)頃の建造物として現代によみがえった。」(案内板)

※写真7:「天正2年(1574)2月8日、徳川家康の次男(幼名を於義丸、後の結城秀康)が、この中村家で生まれた。
母親はお万の方で、出産時の胞衣(後産)を埋めたのが胞衣塚である。
塚上の梅は徳川家康のお手植えと伝えられ、数代を経ている。明治17年(1884)に越前松平一門家が塚の由来を記した胞衣塚碑を建立した。
石碑の篆額は松平確堂(津山藩7代藩主斉民の隠居名)の染筆、碑文は松平慶永(福井藩16代藩主)の撰文である。昭和55年(1980)、雄踏町の指定文化財になった。」(案内板)

※写真8:「是為曩祖越前國主正三位権中納言浄光源公胞衣塚公諱禿康小字於義丸東照公第二子以天正二年二月八日生於遠州国敷知郡宇布見村初東照公有側室永見氏三河人父曰永見貞英為池鯉鮒神祠官氏有娠東照公命本多重次護視焉重次託之于中村正吉家既而分娩生公正吉者邑之豪族時為宇布見和田等五郷代官子孫相承至今世不墜家聲塚乃在其宅中塚上古梅一樹老幹扶疎相傅為東照公手植其家又蔵古器數種皆浄光公幼時所愛玩嗚呼公之英略偉勲昭昭垂竹帛固不侯称述而如此塚歳月之久恐或滅不傳因與同宗議記其来由刻石以示于後昆云」(碑文)【大意】「これは、越前松平家の始祖・越前国主・正三位権中納言・浄光院殿(結城秀康の法名は「浄光院殿森巌道慰運正大居士」、諱・禿康、幼名・於義丸)の胞衣塚である。東照公(徳川家康公)の次男で、天正2年(1574年)2月8日に遠州国敷知郡宇布見村(現・静岡県浜松市西区雄踏町宇布見)で生まれた。東照公初の側室は、三河国の永見氏で、父は永見貞英という知立神社の神官である。妊娠すると、東照公の命で、本多重次が守ることになった。重次は中村正吉に託し、中村家で浄光公(結城秀康)が生まれた。中村正吉は、宇布見村の豪族で、宇布見、和田等五郷の代官職を子孫が代々受け継ぎ、今の世でも家名は衰えていない。塚は中村宅の中にあり、塚の上には古梅が一本生えている。この老木は、徳川家康公お手植えと伝わっている。中村家の蔵には、古い器がいくつかある。これらは皆、浄光公(結城秀康)が幼い時に愛用したものである。ああ、浄光公(結城秀康)の優れた知恵や偉大なる功績は明らかで、その発端となったこの塚が、長い歳月を過ごすうちに消えてなくならないように、同族が話し合い、この塚の由来を石に刻み、後世に伝えようとしたのがこの石碑である。」

 

どうでしたか?

感想をコメント欄に書いていただければ幸いです。

では、最後に原文を載せておきますね。今回の記事を参考に、解読に挑戦してみてね。

小督の局、名ハおまんの御方。永見志摩守小野吉英か女にて第ニの御子・結城殿の御母うへなり。
一説に永見志摩守ハ三河國池鯉鮒の人なり。おまんの方、いとけなき時より、徳川殿の北の方・築山とのにみやつかへせしに、君の御うつくしみをうけて身おもくなりしかハ、築山殿、志らせ給ひ、ある夜、おまん殿をあかはたかにして縄もていましめ、濱松の城の木深き所にすてさせられしに、折しも本多作左衛門重次とのゐして、女のなく聲をいふかり、たつね來りて、此有様を見、いそきいましめをとき、事の故を聞て、ひそかにをのか家に伴ひ歸りて介抱し、其後、君にそと申たりけれハ、いかにのたまひしにや、重次そのまヽにかしつきて、天正二年の二月、濱松の城外、有富見村といふ所にて、御子をうめり。これ、すなはち於義丸殿にておはす。かヽる事なれハ、志はしハ御たいめんもなく、重次、よろつはくヽみまいらせしなり。また一説にハ、おまん身おもくなりしかハ、北の方にもれ聞えて、うきめ見んことをおそれ、ひそかに志のひいてヽ、本多豊後守廣孝(高カ)か家のおとな・本多半右衛門か家にはしりいり、志かしかも事なりといひしかハ、本多作左衛門につけしに、重次ひそかに君に申てをのかもとにむかへ取、介抱せしといふ。いつれかまことなるにや。
結城殿、越前國を賜はらせ給ひしかハ、局も越前におはしけるか、慶長十二年の四月八日、結城殿を先たてまいらせて、悲歎にたへす、たちまらにかしらをおろしけるそいとをしき法の號を長勝院とのといふ。
元和五年の十二月六日、福井にて終りたまふ。七十三歳なりしとそ。敦賀の孝顕寺に葬れり。永見か家も越前につかへて、忠直朝臣の時に家亡ひぬ。其後、忠直、豊後の配所にて生れし子たちを「永見」と名のらせて、其家をたてらる。これも、中将光長朝臣の流されし時に罪をかふりてつゐに家絶たり。

(つづく)

連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第1回 『以貴小伝』 築山殿(長男・松平信康の母)
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第3回 『以貴小伝』 西郷局(三男・徳川秀忠の母)
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第4回 『濱松御在城記』「一言坂の戦い」
戦国未来の連載シリーズ一覧
松平信康と徳姫~小田原・万松院にある松平信康の供養塔
瀬名とは~築山殿は悪女だったのか?築山御前が殺害された本当の理由とは
結城秀康とは~文武両道の福井城主も若すぎる死を遂げる

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