連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第3回 『以貴小伝』 西郷局(三男・徳川秀忠の母)


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、『以貴小伝』より「西郷局(さいごうのつぼね)(徳川家康の三男・徳川秀忠の母)」です。

『以貴小伝』(いきしょうでん)は、徳川歴代将軍家の女系の略伝(全1巻)で、初代・徳川家康から第10代家治までの生母・正室・側室の出自、経歴などが書かれています。
成立年は不明ですが、最後の記事が寛政3年(1791年)の記事ですので、1800年前後と考えられます。
家譜や日次記を底本としているようで、面白おかしい逸話を多く載せがちなこの種の本にしてはまともで、記載内容も正確だとされています。

では、早速、「西郷局(徳川家康の三男・徳川秀忠の母)」について読んでみましょう。

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【未来のお気軽訳】 台徳院(徳川2代秀忠。法名「台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士」)の母・お愛の方は、「西郷局(さいごうのつぼね)」という。戸塚忠春の娘である。戸塚忠春が西郷正勝の娘と結婚して西郷局が生まれた。天文23年(1554年)、戸塚忠春は、遠江国の「大森の戦い」で討たれたので、戸塚忠春の妻は、服部正尚と再嫁し、お愛殿も継父・服部正尚のもとにいたが、外祖(母の父)・西郷正勝の孫・西郷義勝と結婚して、娘一人、息子一人を生んだ。元亀2年(1571年)3月、西郷義勝は、甲斐国の武田軍と戦った「竹広の戦い」で討たれたので、お愛殿は、継父・服部正尚のもとに帰っていたが、外舅(妻の父)である西郷清員が養女にして、天正6年(1578年)の春、東照宮(徳川家康)と結婚し、「西郷局」(「局(つぼね)」とは、局(個室)を与えられた奥女中の敬称)となられ、翌・天正7年(1579年)4月7日、徳川家康の三男・長丸(台徳院(徳川秀忠)の幼名)をお生みになられ、翌・天正8年(1580年)9月20日(10日の誤りか?)には四男・松平忠吉をお生みになられた。初婚の西郷義勝との間に生まれた娘は、西郷清員の子・西郷宗員に嫁ぎ、息子は、西郷勝忠と名乗り、後に紀州徳川家の祖・徳川頼宣(よりのぶ)に仕えた。天正17年(1589年)5月19日に亡くなられた。享年38。駿府(現・静岡県静岡市)の龍泉寺に葬られた。法名を「龍泉院殿松誉貞樹大姉」という。台徳院(息子の徳川秀忠)が第二代将軍になると、寛永5年(1628年)7月、西郷局へ従一位が追贈されることになり、勅使が駿府に下向した。この時、「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」という法名が追号されたので、「龍泉寺」を改めて「宝台院」とし、住職も紫衣の着用が許された。(身分の低い僧侶は黒衣で、身分の高い僧侶は紫衣。)また、宝台院(静岡県静岡市葵区常磐町2丁目)には、御供料として、300石が与えられた。西郷清員は「剛の者」(武勇に優れた者)であったので、西郷家を盛り上げ、1万石の領地を頂戴した。この1万石の領地は、子孫に伝えられていったが、元禄(1688~1704年)に入って、「御気色(おんけしき)に違う所があって」(勘気を被って、怒りに触れて)、所領の半分を失った。(1万石の大名から5000石の旗本に格下げされた。)西郷局の父・戸塚忠春の子・戸塚忠家は、西郷局の異母兄である。初めは今川家に仕え、後に御家人(将軍と主従関係にあった武士の敬称)になって、松平忠吉に仕えた。武蔵国の忍城(おしじょう。石田三成の水攻めで有名になった「のぼうの城」。埼玉県行田市)の城代(城主は松平忠吉)となったが、文禄4年(1595年)に亡くなった。次の西郷局の異母兄は、出家して心翁永伝(法泉寺七世住職)と名乗った。護本山天龍寺(当時は牛込。現在は新宿区新宿に移転)を再興して、住職となった。父・戸塚忠春の墓を曹渓山法泉寺(静岡県掛川市上西郷)から遷したという。戸塚忠家の子孫は、今でも御家人である。

 

<写真1:平塚山付近遺跡案内図>

<写真2:西郷氏殿屋敷跡(構江公民館)>

<写真3:五社大明神(五社神社)>

<写真4:戸塚忠春(西郷局の父)の墓>

<写真5:観音寺古文書碑(観音寺跡)>

<写真6:法泉寺>

<写真7:平塚砦跡>

 

※写真1:平塚山付近遺跡案内図。西郷局の故地は平塚山の近くにある。

※写真2:西郷氏殿屋敷跡(構江公民館)

西郷の局(於愛の方・宝台院)生誕の地 徳川二代将軍秀忠公の御生母で、実父は遠州掛川在、戸塚に住した郷士、戸塚五郎太夫忠春、実母は三河五本松城主、西郷弾正左衛門正勝の娘で、戸塚家に嫁いだ。天文二十三年、戸塚五郎太夫忠春は大森の戦で戦死した。その後、於愛の母はやむを得ず於愛を連れて、服部平太夫正尚に再嫁したが、於愛もまた外祖父、西郷正勝の嫡男、西郷義勝に嫁ぎ二児をもうけた。しかし元亀二年三月四日、夫の義勝が竹広の戦で戦死したので伯父西郷清員の養女となった。その後、浜松城に出仕して家康の目にとまり側室となる。家康と西郷の局の子は

二代将軍 秀忠公 天正七年四月四日生

尾張藩主 忠吉公 天正八年九月七日生

天正十七年五月十九日、西郷の局、年三十八歳にて駿府城内で病死する。法名、宝台院殿松誉貞樹大姉、駿府龍泉寺に葬られる。秀忠公、二代将軍になると勅許を得て、従一位一品大夫人を送る。龍泉寺、西郷局の法名をとり、寺名を宝台院と改め、三百石の寺領をあたえられる。」(現地案内板)

※写真3:五社大明神(五社神社)

由緒 当社創建は延暦二年八月である(本殿内小祠に記載あり) 旧佐野郡式外十二社中の一社である(遠江国風土記伝に所載あり) 慶長年間伊奈備前守忠次より黒印状を以て一石を寄進され以来明治四年に至る 二代将軍秀忠の生母西郷局構江より出で家康に仕え天正四年四月浜松城にて秀忠を生む 当社は局の産土神であったので当社より分霊して秀忠の産土社として祀ったのが浜松市の五社神社である(掛川誌稿に記載あり)」(社頭由緒書)

曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した事に始まると伝えられる。後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(西暦1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(西暦1580年)遷座す。」(浜松市の五社神社の公式サイト)

※写真4:戸塚忠春(西郷局の父)の墓(観音寺跡)

戸塚五郎太夫忠春五輪塔 徳川二代将軍秀忠公の生母、於愛の方(西郷局・宝台院)の実父。もと西郷の戸塚に住したが、のちに館を構江に移した。この地方の豪族で足利義晴に仕えていたが、大森の戦で戦死した。戸塚五郎太夫に関する記録は少ないが、しかし五郎太夫の先妻の子が二人あり、兄を四郎左衛門忠家と言い、初めは今川家に仕えていたが、のちに家康の旗本になり武州忍城の城代となる。その子作右衛門忠光の時、千五百石に加増され、子孫は代々家督を継いでいる。また弟は仏門に入り、心翁と称し、西郷法泉寺の七世住職、のちに江戸天竜寺中興開山となる。また後妻との間にできた於愛は家康の側室となり、死後に、従一位一品大婦人を贈られた。」(現地案内板)

※写真5:観音寺古文書碑(観音寺跡)

遠江國佐野郡上西郷村碧岳山観音寺

一、一山国師開基の地年代深遠歟。中比より、曹洞宗通幻派下盛庵和尚中興にて、百五拾余年に罷り成り候事

一、観音は行基の作、遠江三拾三番の札所にて諸国より札を納むる者数多御座候。これに依り、昔は大分に観音領付け来り候へ共、信玄発向の砌り度々軍場に罷り成り、古証文を焼失仕り、只今四石御座候事

一、西郷殿御先祖の菩提所にて、台徳院様、御様、御親父冨塚五郎大夫殿、御位牌石塔今にこれあり、兼て石谷十蔵殿先祖の菩提所これにより十蔵殿委状下され候。

一、寺内拾町余、此の内山林竹木莫大に御座候事。

一、観音堂六間四面、寺作六間九間、庫裏五間七間、惣門これある事。

右の通り少しも偽り無く御座候。もし偽り御座候ば曲事仰せ付けらる可く候。何様にも今度御朱印頂戴仕り候様に、仰ぎ奉り候。

観音寺

慶安貮年 丑六月三日    順太

寺社奉行所

※写真6:法泉寺。「蟠龍閣山門(ばんりゅうかくさんもん) この山門は御朱印門と称し、徳川家康の側室で西郷の局の両親を祀り、その菩堤を懇に弔っていたところ、家康が江戸に移封のとき側室の父ということから御位牌と共に、この法泉寺から江戸に移されました。そして護本山天龍寺を創建し、そこに安置されたが、そのとき家康が斤で一等に刻まれた御位牌が祀られていると伝えられています。こうした由来から、当時の寺社奉行であった伊奈備前守が、掛川城主松平隠岐守に所管をおくり、十石の御朱印と山門を寄進しました。また、西郷の局との関については、法泉寺七世の心翁永伝和尚と、西郷の局が兄妹であったところから、この法泉寺の霊地に仏縁を結ばれたと寺伝されています。」(法泉寺の公式サイト)

※写真7:平塚砦跡。武将の故地は、居館・居城・菩提寺と活躍した古戦場等になる。戸塚氏の場合は、居館が西郷氏居館(現・構江公民館)、居城が平塚砦、菩提寺が観音寺(法泉寺末寺。廃寺)となる。平塚砦があったという平塚山は、現在は茶畑となっており、往時の姿を想像できない。この平塚砦については2つの伝承がある。1つは、「西郷清員が移住して、お愛を養子とし、平塚山に五葉城を築いた」であるが、あり得ない。もう1つは、「服部正尚が平塚山で狼煙を上げると二、三百人のおちょぼが集まってきた」である。「おちょぼ」とは忍者のことである。服部正尚を講師に招いて、平塚山で忍術の稽古をしたのだという。

 

(1)戸塚氏

「西郷局」がなぜ「西郷」かというと、

①母親が西郷氏(西郷正勝の娘)だから

②西郷(掛川市)で生まれたから

が考えられますが、母親の苗字で呼ぶことはまずないので、②が正解です。

戸塚氏は、二階堂氏(地名から「西郷」と改姓するが、西郷局に憚って、さらに「石ヶ谷」と改姓)と共に掛川市の西郷へやって来て土着し、戸塚忠春が西郷正勝の娘・お貞(「おさい」とも)と結婚し、お愛(お相、正子、昌子とも。後の西郷局)が生まれました。

お愛の生まれた屋敷の屋敷神を「斎宮様」といいます。法泉寺に「西郷斎宮」と呼ばれていた夫婦の記録があり、法名は「西月祐泉居士/玉窓妙全大姉」とあります。天龍寺の戸塚忠春の法名が「西月友船大禅定門」で似ているので、西月祐泉は戸塚忠春(西月友船)、玉窓妙全大姉はお貞のことだとされていますが、実は、お愛の父親については、分かっていません。
①戸塚五郎太夫忠春(西月友船)説
②西月祐泉説 ※法名
③秋山十郎(武田軍)説 ※『徳川庶家家譜』
④戸塚作左衛門(横地家庶子家)説
⑤冨塚五郎右衛門(西郷の富豪)説 ※「観音寺古文書碑」
⑥服部正尚(蓑笠之助正尚。実母の再婚相手)説
と諸説あります。いずれにせよ、徳川家康と結婚は、西郷清員の娘(養女)にしてから行っていますので、西郷清員よりは身分の低い人物だと思われます。

戸塚忠春は、遠江国の大森城主で、「大森の戦い」で討死したということですが、私の知る限り、遠江国には大森城はありませんし、「大森」という地名も聞いたことがありません。

江戸時代の公式文書『寛政重修諸家譜』では、西郷局の実母・お貞については、西郷正勝の子の項に「女子 戸塚五郎大夫忠春に嫁し、忠春戦死の後、蓑笠之助正尚に再嫁す。正尚死してのち榮中に召さる。是、西郷の局の母なり」と載せ、西郷局については、西郷清員の子の項に「女子 実は戸塚五郎大夫忠春が女、母は正勝が女、蓑笠之助正尚に養はれて義勝に嫁し、義勝戦死の後、清員が養女となり」と載せています。人間の心理を利用した絶妙な書き方です。人は、「西郷清員の娘である」と聞くと、「本当か?」「養女と聞いてるぞ。本当の父親は?」と真実を調べたくなりますが、「西郷清員の娘である。実は、ここだけの話、戸塚忠春の娘である」と聞くと、「秘密を握った!」と思い込み、それ以上の詮索はしなくなるものです。

(2)服部氏

実母・西郷お貞の再婚相手の服部正尚(蓑笠之助正尚)は、伊賀国名張城主・服部保章の従兄弟で、「神君伊賀越え」の時には徳川家康に自分の蓑や笠を与えて変装させ、無事に帰国させた功で「蓑笠之助」という名を授かっています。

「もと服部、のち蓑、また巳野に改め、笠之助正高に至りて、又蓑に復す。初め服部平大夫正尚、家康伊賀通過の時、蓑笠を奉る。よりて蓑笠之助なる名を賜ふ。その四代が正高にて、猿楽者也。」

ある時は掛塚鍛冶、また、ある時は猿楽師、而してその正体は、伊賀忍者だそうです。お愛と徳川家康の馴れ初めは、徳川家康が田中城攻めの帰りに掛塚湊の服部正尚宅(この時は鍛冶屋)に立ち寄った時にお愛を見て一目惚れし、浜松城に出仕させたのだそうです。

『徳川庶家家譜』には「御部屋西郷局 遠州ノ住人・秋山十郎女。伊賀者・服部平大夫妹。三州ノ住・西郷弾正左衛門正勝養女」とあり、もう、何がなんだかよく分かりません。

 

《西郷谷紀行(愛知県豊橋市)》

 

<写真8:西郷谷の地図>

<写真9:西郷氏案内板>

 

西郷局の母の実家がある西郷谷へ行ってきました。

まずは西郷小学校の前にある案内板で、西郷氏について確認し、西郷谷の地図を頭に入れました。

西郷弾正と西郷地区 西郷地区には、昔、小野田庄、太陽寺郷等の呼び名があった。西郷の地名は文明十年頃発生した。又佐井天神、西郷弾正に由来するか否かは未だはっきりしないが西郷氏勢が岡崎より来た頃西郷と呼んだと思われる。西郷氏は永正年中に嵩山に来て、天正十八年(一五九〇)関東入りの時まで此の地を支配した。五本松城、西川城、月ヶ谷城を本支城とし、その周辺にいくつかの砦を配しており、今日その多くの遺構を見ることができる。桶狭間合戦の後、永禄五年(一五六二)遠州宇津山城主朝比奈泰長の軍に夜襲され、正勝、元正父子等七十数名が討死した。西郷清員(後の西川城主)が城を奪回し、西郷家を再興して数々の武功をたて、更に又清員の妹の娘、お愛(西郷局)が浜松城徳川家康の側室となり、二代将軍秀忠公を産み、徳川三百年の礎となったことは西郷家の不滅の栄誉である。校区名「西郷」はこの西郷氏に由来すると考えられている。」(案内板)

 

西郷氏の本貫地は九州です。仁木義長が三河国守護になった時、守護代として呼ばれ、守護所がある愛知県岡崎市に移住しました。松平郷に興った松平氏の南下(岡崎平野への進出)を防ぐために岡崎城を築きますが、松平氏に奪われ、月ヶ谷(わちがや)城(愛知県豊橋市嵩山(すせ)町)、そして、五本松城(豊橋市石巻中山町)と居城を移しました。
永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」で今川義元が討死し、松平元康(後の徳川家康)が岡崎城に入って松平氏を再興すると、今川方の西郷正勝は、次男・清員を人質に出して松平元康に従いました。この反逆行為に怒った今川氏真は、宇津山城主・朝比奈泰長に五本松城(宗主・正勝の居城)と月ヶ谷城(嫡男・元正の居城)を攻めさせました。宗主・西郷正勝とその長男・元正は討死しましたが、正勝の孫(元正の子)の義勝と人質として岡崎城にいた清員は助かりました。そこで、幼い義勝が西郷家を継ぎ、叔父の清員が後見人となりました。

西郷義勝は、お愛(西郷正勝の孫)と結婚し、2人の子を儲けました。天正3年(1575年)、武田軍(秋山隊)が南下侵攻してきた際、これを防ごうとした西郷義勝は討死しました。西郷義勝の子はまだ生後間もなかったため、徳川家康は、西郷清員の嫡男・家員を西郷家の宗主としました。後家となった義勝の妻・お愛は、徳川家康に見初められ、西郷清員の養女として徳川家康と結婚し、徳川二代将軍秀忠と松平忠吉(徳川四天王・井伊直政の娘婿)を生みました。

<写真10:五本松城>

<写真11:「弾正塚」(西郷正勝(お愛の祖父)の墓)>

<写真12:西郷義勝(お愛の夫)の墓>

西郷氏の本拠地である西郷谷(豊橋市石巻中山町)に到着。

居城「五本松城」の標柱がありました。地図で「五本松」を探すと、この標柱の南側の山に「五本松」とありました。この標柱がある場所(地図には「城屋敷」とある)は、居城があった場所ではなく、居館があった場所だと思われます。

菩提寺は、徳川家康の関東移封に伴って移転しましたが、墓は残されています。「残されている」と言っても、西郷正勝の墓石を保護する小祠は無くなり、その屋根瓦が散在していました。西郷義勝の墓は、植物で埋もれていました。

<写真13:宝台院(駿府城にある地図)>

<写真14:西郷局の墓(宝台院)>

宝台院(金米山宝台院) 宝台院は、徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母西郷の局(お愛の方)の菩提寺である。西郷の局は、二十七歳で家康に仕え、翌天正七年(一五七九年)四月、家康の第三子秀忠を生んだ。家康三十八歳のときである。このころ、家康にとっては、浜松城にあって、三方原の合戦、設楽原合戦、小牧長久手の合戦と、戦争に明け暮れた最も苦難な時代であった。西郷の局は、家康の浜松城時代に仕え、苦しい浜松城の台所を仕切った文字どおり糟糠(そうこう)の妻であったということができる。天正十四年十二月、西郷の局は、長かった苦難の浜松時代を終え、名実共に東海一の実力者となった家康と共に駿府入りした。家康の陰の立役者として、献身的に仕えた西郷の局は、駿府入りとともに浜松時代の疲れが出て、天正十七年五月、三十八歳の短い生涯を終った。後年、将軍職についた秀忠は、母のために盛大な法要を営み、その霊をなぐさめた。以来、徳川三百年の間、この宝台院は、徳川家の厚い保護を受けたのである。」(現地案内板)

 

どうでしたか?

感想をコメント欄に書いていただければ幸いです。

では、最後に原文を載せておきますね。今回の記事を参考に、解読に挑戦してみてね。

 

台徳院御所の御母・お愛の方ハ、「西郷の局」といふ。戸塚五郎大夫忠春か女なり。忠春、西郷弾正左衛門正勝かひすめにそひて局をまうけたり。天文廿三年、忠春、遠江のくに大森の軍にうたれけれは、内室ハ、ふたヽひ服部平大夫正尚に嫁し、お愛とのも継父・正尚のもとにありしを、外祖・弾正左衛門正勝か孫・右京進義勝にあはせて、むすめ一人、をのこ一人をうみたまふ。元亀二年三月、右京進義勝、甲斐の武田か手の者とたヽかひて、うたれけれは、お愛との、継父のもとにかへりておはせしを、外舅なしし西郷左衛門佐清員、おのかむすめにして、天正六年の春、東照宮にまいらせしかは、「西郷の局」とめされて、明る七年の四月七日、第三の御子長丸君(すなはち、台徳院御所の御事也)をうみまいらせ、次のとし九月廿日にまた第四の御子・薩摩守とのをまうせ給ふ。はしめ義勝かもとにてまうけられし女ハ、清員の子・西郷新太郎宗員に嫁し、男子ハ、西郷孫兵衛勝忠と名のり、後に紀伊賴宣卿につかふ。天正十七年の五月十九日、局うせ給ふ。御年三十八歳にておはせしとそ。駿府の龍泉寺にをくりて、御とふらひあり。寶臺院殿とまうせしなり。台徳院御所の御時、寛永五年の七月、従一位をヽくらせ給ひ、勅使、駿府に下向せらる。此時、勅號を賜りて、「龍泉寺」をあらためて「寶臺院」といふ。住持にも紫衣を聽されたり。また、御供の料として、三百石の地をよせらる。西郷左衛門佐清員、さる剛の者なりしかは、家起して所領の地、あまた賜はる(一萬石)。子孫あひ傳へて、元禄の御時にいたり、御氣色にたかふ所ありて、所領、なかはを削られたり。御父の戸塚五郎大夫忠春か子・四郎左衛門忠家ハ、局の異母の御兄なり。はしめハ今川家に志たかひ、後に御家人になりて、薩摩殿につかふ。武蔵國忍の城代となりて、文禄四年に、身まかれり。その次の御兄ハ、佛門に入て、心翁といふ。牛込の護本山天龍寺を再興して、寺主となる。父の忠春か墳墓をも遠江國瀧谷法泉寺よりうつせしとそ。四郎左衛門忠家か子孫、いまに御家人たり。

(つづく)

連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第1回 『以貴小伝』 築山殿(長男・松平信康の母)
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第2回 『以貴小伝』 小督局(次男・結城秀康の母)
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第4回 『濱松御在城記』「一言坂の戦い」
戦国未来の連載シリーズ一覧
徳川秀忠~徳川幕府第2代将軍~凡庸ではなかった武勇ある実直な武将
今川氏真と言う武将の才覚~今川氏真に足りなかったものは?
今川義元は領国経営に優れた優秀な戦国大名だった
松平忠吉とは~井伊直政と共に関ヶ原の火蓋を切るも

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