今川氏親と北川殿~今川家の危機を乗り越え遠江を手中に収めた絆は強し


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今川氏親(いまがわ-うじちか)は駿河守護・今川義忠の嫡男として1471年(1473年とも)に駿府館にて生まれた。幼名は龍王丸。
母は、伊勢新九郎(伊勢宗瑞、北条早雲)の姉(妹)とされる北川殿で、1467年頃に今川義忠の正室となっていた。

1476年4月、父・今川夫義忠が、斯波義良に通じた遠江の国衆・横地四郎兵衛と勝間田修理亮を塩買坂での戦いにて破った帰りに、残党によって襲撃を受け、矢に当たって討死する。
その跡目争いで、嫡男・龍王丸(6歳)がまだ幼かったことから、家臣の三浦氏、朝比奈氏ら譜代家臣の多くが擁立した、今川義忠の従兄弟で小鹿範頼の子・小鹿範満との間で何度が小競り合いが起こる。

そのため、母・北川殿は龍王丸を連れて、駿河・小山城城主の長谷川正宣(法永長者)を頼って逃れた。

堀越公方・足利政知やその補佐である関東管領・上杉政憲も、小鹿範満を推したため、外戚である扇谷上杉家の家宰・太田道灌が駿河へ出兵して介入。
北川殿は幕府申次衆の伊勢盛時(伊勢盛時、伊勢宗瑞、北条早雲)を頼ると、伊勢盛時が駿河へ下向。
関東管領の力が駿河にまで及ぶことを警戒した室町幕府9代将軍・足利義尚は、幕命と言う事で、龍王丸(今川氏親)が成人するまで、家督代行として小鹿範満が駿府・今川館にて政務を執る事になった。

この和睦を受けて、北川殿と龍王丸(今川氏親)は、斉藤氏の居城・丸子城(静岡市)へと移った。なお、法永長者(長谷川政宣)の居城・小川城に入ったともある。

1479年、伊勢盛時が幕府に働きかけ、前将軍・足利義政の名によって龍王丸の家督継承が承認される。
しかし、龍王丸(今川氏親)が15歳で成人しても、家督を返そうとしなかった小鹿範満は、更に龍王丸を龍王丸(今川氏親)を次第に圧迫する。

そのため、1487年、北川殿が再び京の伊勢盛時に要請すると、伊瀬盛時は再び駿河に下ると石脇城にて協力者を募って、1487年11月9日、駿河館を襲撃した。
武勇に優れていた小鹿範満であったが、前年には太田道灌も暗殺されており、関東からの援軍も望めず、進退窮まり自害して果てている。

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こうして龍王丸(今川氏親)は駿府館に入り今川家当主となり、北川殿も駿府館付近ほ流れる阿部川支流の北川沿いに別荘を建て、移り住んだため「北川殿」と呼ばれる由縁となり「大上様」とも呼ばれている。
この北側殿の別荘跡は現在の臨済寺

一方、今川氏親が9代当主となった立役者である伊勢盛時(北条早雲)には興国寺城が与えられ、今川家の重臣となった。

1493年には、堀越公方に内紛に乗じて、室町幕府11代将軍・足利義澄の命を執りつけた伊勢盛時(北条早雲)が、足利義澄の異母兄・足利茶々丸を討伐したが、この時、今川氏親(21歳)も兵を出している。
伊豆・韮山城を本拠とた伊勢盛時(北条早雲)と、今川氏親は以後も緊密に協力してお互い領土拡大を図って行く。

1494年頃から、今川氏親と伊勢盛時(北条早雲)は西の斯波義寛へ攻撃を開始し、松平氏を攻めた他、郡内・小山田信有や、甲斐の武田信虎とも戦った他、関東では扇谷上杉家に協力して山内上杉家と戦い、1504年には立河原の戦いにて関東管領・上杉顕定に大勝利している。

そして、1505年頃、今川氏親(今川修理大夫氏親)は正室に権大納言・中御門宣胤の娘(寿桂尼)を迎えると、京の文化を駿府に取り入れた。
また、この頃、三河に1万の大軍にて侵攻すると松平長親を攻め、松平家を弱体化させ、1508年に今川家は室町幕府と朝廷から正式に遠江守護を任じられた。

なお、1509年からは小田原城主・伊勢盛時(北条早雲)が今川家の軍勢と行動を共にしていないことから、伊勢盛時(北条早雲)が独立したものとみなされている。

1511年からは尾張守護・斯波義達により浜松の刑部城を攻めるなど、斯波家との戦いが激化した。

この頃、井伊谷城主・井伊直平も、斯波義達に味方した曳馬城(引馬城)主・大河内貞綱に従っていたため、今川氏親(今川修理大夫氏親)と戦い、朝比奈泰以(朝比奈泰煕)による猛攻を受けて今川家に降伏し没落している。

1513年には嫡男・今川氏輝が誕生。

1515年には、武田信虎が富田城の大井信達を包囲したため、今川氏親は大井信達に協力し甲斐へ出兵すると、勝山城や郡内・吉田山城へ入り大井氏を支援した。
1517年、今川氏親(45歳)と武田信虎(24歳)が和睦すると、大井信達は娘を武田信虎の正室にと差し出したが、この娘が武田信玄を産んだ「大井の方」と言う事になる。

1517年、安倍金山の鉱夫を呼び寄せて坑道を掘り、引馬城の水の手を破ると、大河内貞綱を討ち取った。
これにより、斯波義達も降伏して出家したため、今川氏親は遠江を平定し、翌年に検地している。

1519年、5男・今川義元が誕生。

しかし、晩年の約10年間、今川氏親は中風で寝たきりだったとされ、政務は寿桂尼が仕切り、1521年には甲斐の武田信虎攻め15000の総大将は福島正成が務めている。
また、太原雪斎を駿府に呼び寄せる事に成功し、今川義元らの教育に当たらせた。

1526年4月には今川家の分国法「今川仮名目録」を寿桂尼らが制定。

1526年6月23日、今川氏親は駿府の今川館にて死去。享年54。
7000人もの僧侶による葬儀が増善寺で行われたと言う。

なお、北川殿は、1529年5月26日に死去。戒名は徳願寺殿慈雲妙愛大姉で、菩提寺は得願寺と桃源院の2ヶ所となっている。

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