西郷信尚と高城城~諫早城の諫早直孝と諫早陣屋


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諫早城(いさはやじょう)は、別名を高城・亀城・伊佐早城とも呼ばれる丘城で、標高は50m、比高は40m。

1474年頃に宇木城から有馬貴純の傘下の西郷尚善が、船越城に入り、高城を築いて伊佐早荘(高来郡)を支配したとされる。
戦国時代にも、高城城(たかしろじょう)と記載されることが多かったので、このページでは以後、高城城と表記させて頂きたい。

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その戦国時代である、西郷純堯(さいごう-すみたか)のときにも、西郷氏は日野江城主・有馬義貞に従っていた。
そして、1562年、佐嘉城(佐賀城)を目指す大友宗麟に協力したが、龍造寺隆信・千葉胤連らに大敗。
1563年には、有馬家から離反し、平戸城主・松浦隆信や武雄の後藤貴明、塚崎城主・後藤貴明と盟約を結び、三城城主・大村純忠を攻めたが堅い抵抗を受けている。
その後、有馬義貞が高城城に迫ったためる、多くの犠牲を出しながらもなんとか撃退したが、このように有馬氏と抗争を繰り返した。

この頃の高城城は高櫓が4方にあり、多数の矢狭間もあったというが、1577年6月下旬、龍造寺隆信が伊佐早に侵攻すると、単独では耐えきれず西郷純堯は降伏して龍造寺家に臣従した。

その後、子の西郷信尚(さいごう-のぶなお)が家督を継ぐ。
しかし、豊臣秀吉が九州攻めを行うと参陣しなかったため、龍造寺家晴が諫早に攻め、約1万石の所領を失った。

1587年、佐々成政が改易される要因となった肥後国人一揆が発生すると、龍造寺家晴が出陣した隙に残党らが挙兵した。
宇木城主・西郷純門と天祐寺の泰雲和尚ら西郷家臣残党が決起したと言うが、西郷信尚も加わっていたとする説もあるようだ。
一度は伊佐早城(高城城)を奪還するも、豊臣秀吉は直ちに、小早川隆景を大将に、龍造寺家晴や鍋島直茂有馬晴信らを派遣し、西郷信尚は陣の辻にて敗北したともされる。

この時、西郷信尚は討死したともされるが妻の実家がある平戸城・松浦鎮信のもとに逃れたとも言われている。
子孫は500石にて松浦家の家臣となった。

龍造寺家晴の子・諫早直孝(いさはや-なおのり)が佐賀藩の親類同格(龍造寺四家)として、2万6201石を有した。
しかし、諫早直孝は病身で江戸参勤交代が重荷だったため、1万石にて佐賀・鍋島家の国家老となり、この時に諫早氏と改姓し、伊佐早の地名を諫早に改めた。

1637年、島原の乱の際には、第3代諫早領主・諫早茂敬が出陣し、諫早勢も多くの犠牲者が出たと言う。

肥前・高城城(諫早城)

肥前・高城城(たかしろじょう)は本明川の南岸に面した丘陵に築かれている。

城域は、諫早家のご好意で大正8年(1919年)には市民に開放され、昭和33年(1958年)、諫早市に寄贈された。

下記は南側にある天祐寺側からの登り口となる。

公園になっているのである程度、道は整備されている。

しかし、ちょうど小粒の雨も降りだしたので、石段がとても滑りやすかった。

本丸の周囲には堀を巡らされている。
また、下記のように低いながらも石垣も儲けられたようだ。 

諫早城の山城は、結構、大きな岩もむき出しになっているところで、下記の階段を登ると本丸であった。

下記が諫早城(高城城)の本丸部分となり、かなり低くなっているが土塁跡もあった。
しかし、地面がコケでおおわれているように、ここもジメジメしている。
夏場はあきらかに「虫除け」が必要であろう。

また、本曲輪跡らは亀の塔(がめんとさん)がある。
1715年7代・諫早茂晴が建てたのが右の塔で、1741年に8代・諫早茂行が国家安泰を祈って建立したのが左らしい。

随所に簡単な説明が記載されている案内板があるのだが、不思議な事に、どこもかしこも「山城」と表記されている。

山城と表記してしまっては、諫早城の土地を寄贈した諫早氏に対して失礼なような気もするが、高城だとわかるのは、下記の肥前・高城の碑くらいであった。

下記は公園東側の登り口となる。
各写真はパソコンでクリックすると拡大する。

下記は諫早公園の案内地図。

諫早公園の麓の池(水堀)には「眼鏡橋」(めがねばし)がある。

九州にはこのたぐいの眼鏡橋は多いが、諫早の眼鏡橋は江戸時代末期の1839年、本明川に架けられた石造りのアーチ橋で、石橋としては国で初めての重要文化財に指定されている。
その後、水害があったため、1960年、諫早公園内に移築された。

なお、高城城(諫早城)の建物が老朽化し、城が維持できなったため、1699年、諫早茂門のとき、東の麓に諫早陣屋を新築し居城とした。
諫早陣屋跡は、現在、長崎県立諫早高等学校・附属中学校になっている。

なお、佐賀藩主が接待などに使用した御書院と庭園が学校内に残っている。
以前は見学困難であったが、平成15年に高城回廊が整備され、午前10時から午後4時までの間であれば、自由散策できるようになった。
下記がその入口で、諫早市の美術・歴史館の建物がある北側となる。

内部の庭園は下記のような感じで、無料で見学できる。

また、諫早城の東にある高城神社は、明治15年(1882年)に、龍造寺家晴を祭神として創建された。

高城神社の右脇からも高城城へ入れる。
なお、一部の写真には雨粒が写りこんでいて、白い点になっていることをお詫びする。

下記は高城神社にある「西郷井戸」であるが、ここでも城の名前は「山城」と明記されているのが残念・・。
諫早と言う地名や、高城城と言う城があったことに、誇りがないのであろうか?

近くにある天祐寺にも足を伸ばして見た。
境内もなかなか広い。

諫早・天祐寺は、西郷尚善の開基で諫早家の菩提寺にもなっており、18代に渡る諫早氏の墓所もあるが、墓所の門は閉まっていた。

さて、高城城(諫早城)への電車での行き方ですが、JR諫早駅だと麓まで徒歩15分、島原鉄道・本諫早駅からは徒歩10分となる。
駐車場は上山公園の無料駐車場を利用させて頂き、グルッと一周して歩いてみた。
しかし、下記のポイント地点となる眼鏡橋脇の駐車スペース(10台)の方が便利なので記載しておきたい。

諫早城の観光所要時間は上記の行程で約40分といったところ。

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