5分でわかる坂上田村麻呂とは~胆沢城と多賀城訪問記も

坂上田村麻呂とは

優れた武人として尊崇されることになる坂上田村麻呂(さかのうえ-の-たむらまろ)は、奈良時代の末期758年に坂上苅田麻呂の子(3男?)として生まれました。
母は畝火浄永の娘です。

坂上氏は、走っている馬から弓を射る事が得意な武門の一族で、宮廷に寝泊まりして天皇(大王)などを警護することもしばしばだったようです。
父・坂上苅田麻呂は陸奥鎮守将軍を任されたあと、最終官位は、左京大夫・従三位兼右衛士督・下総守であり公卿に列していました。

そんな家柄であったため、坂上田村麻呂も若い頃から近衛府に出仕していたようですが、陸奥国(東北)では724年から大和朝廷が仙台に多賀城を造営するなどし、蝦夷との争いが起こっていました。
しかし、一度は服従した蝦夷(えみし)の伊治呰麻呂(これはり-の-あざまろ)が、780年に伊治城で宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)を起こすなど、戦闘は拡大していました。


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父の死後、789年に、征東将軍・紀古佐美が指揮した官軍(朝廷軍)が、阿弖流為(アテルイ)の蝦夷軍に巣伏の戦いにて、丈部善理が戦死するなど大敗を喫します。

これを受けて、大和政権(ヤマト朝廷)は、大伴弟麻呂(おおとも-の-おとまろ)を新たに征夷大使とし、補佐する征東副使に坂上田村麻呂(34歳)が任命されました。
793年に、京から朝廷軍を率いて陸奥(東北)へ向かい、征夷大将軍となった大伴弟麻呂と、4名した副使(副将軍)の1人である坂上田村麻呂は遠征します。

この時の詳しい戦いの結果は不明ですが、794年6月、副将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦功を挙げたとだけ分かっています。

大伴弟麻呂はかなりの高齢だったことから、坂上田村麻呂が796年に、陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任し、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)との戦いの総指揮を執りました。

797年には、桓武天皇により征夷大将軍に任じられ名実共に朝廷軍の最高指揮官となった坂上田村麻呂(40歳)は、801年の遠征でも成功を収めます。
帰還する際には、筑波山近くの六所神社(現在の蚕影山神社)に立ち寄り、馬具・宝剣・神鏡を納めました。
明治3年(1870年)に鳥居が倒壊した際には「銅鏡」が出土しましたが、その銅鏡に「石鳥居 征夷大将軍坂上田村麻呂 建立之」の銘があったと言います。


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802年再び、坂上田村麻呂は東北に赴くと、4月頃にはアテルイとモレの500名が降伏して、夷賊(蝦夷)の討伏完了したようです。
そして、坂上田村麻呂は蝦夷対策として、多賀城にあった鎮守府を北上させて、阿弖流為降伏の前後に胆沢城を新たに築きました。

アテルイとモレは平安京へと連行されますが、坂上田村麻呂は助命嘆願を行ったとあります。
しかし、平安京の貴族たちは「野性獣心」だと反対し、802年8月13日に河内国にてアテルイとモレは処刑されました。

なお、朝廷の支配を格たるものにするため、803年、坂上田村麻呂は盛岡に志波城を造営しましたが、鎮守府は胆沢城となっています。

804年、再び坂上田村麻呂は胆沢城に入ったようですが、軍事費の増大が朝廷の財政を圧迫していたことから、征夷は中止となります。

ちなみに、坂上田村麻呂は京都清水寺の本堂を大規模に改築した人物(創建した)としても知られ、805年には坂上田村麻呂が寺地を賜り、810年には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となっています。

晩年は参議として国政にも参加した坂上田村麻呂ですが、811年5月23日、54歳で生涯を閉じました。
嵯峨天皇は1日間喪に服し、従二位を追贈しています。
また、勅命により田村麻呂は平安京を守護するように甲冑武器を帯びた立姿で葬られたと言います。
墓所は京都市山科区にある西野山古墓と推定されています。

なお、陸奥田村郡を支配していた戦国大名・田村家は田村麻呂が祖とされています。


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※ここから下部は5分以上でのご高覧となりますが、よろしければ引き続きご覧頂けますと幸いです。

胆沢城

胆沢城(いさわじょう、いさわのき)は日本紀略によると、坂上田村麻呂が802年1月9日に胆沢城を造るために派遣され、築城したとあります。
東国の10か国(駿河、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野)の浪人4000名が胆沢城の守備を交替で命じられました。

この胆沢城を建設している途中の802年4月15日に、蝦夷の指導者アテルイが降伏した模様です。

胆沢城

そして、胆沢城が仙台の多賀城に変って、鎮守府となりました。
九州の大宰府に対して、東北は胆沢城と言う事になります。

胆沢城

発掘調査によると、2重の堀で囲まれた中央に90m四方の政庁があったようです。

胆沢城

815年からは城兵として400人と健士300人の合計700人が常時駐屯したとあります。
兵士は60日、健士は90日の交替制を取り、常に700の兵力を維持しました。

胆沢城

主な胆沢城の配置や機能としては下記の通りです。

全軍の最高責任者として「将軍」が1名
庶務や施設管理を行う役人の最高責任者として府掌(ふしょう)が2名
将軍を補佐する軍監(ぐんげん)が1名
同じく将軍を補佐する軍曹(ぐんそう)が2名
戦いや日常の吉凶を占う陰陽師(おんみょうじ)が1名
大弓の練習を指導する弩師(どし)が1名
医師が1名

年貢を徴収するため「ムラ」と「郡」をつくる。
朝廷に臣従したエミシを確かめて、もてなす。
狩りや漁などで得た食べ物に感謝し、豊作を祈る儀式などを行う。

このように1083年、後三年の役のころまでの約150年間、胆沢城は陸奥支配の中心となったのです。

胆沢城

現在は国の指定史跡となっています。

胆沢城へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点に駐車スペースがあります。

胆沢城の見学所要時間ですが、隅々まで見ると約30分といったところです。
特に大きな見どころはありませんので、サクッと見れば10分で大丈夫です。
次は仙台にある多賀城です。

多賀城

国の特別史跡になっている多賀城(たがじょう)は、多賀柵とも呼ばれますが、大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として724年に按察使・大野東人が築城開始しました。
胆沢城は平地に築城していますが、多賀城は丘陵もうまく生かした構造となっています。
762年からは藤原恵美朝狩が更に改修するなど、合計で4回の大改修があったと考えられています。

780年には、蝦夷・伊治呰麻呂の乱で、多賀城は略奪され、一時焼失したようですが、のちに再建されました。

多賀城

陸奥国府だけでなく鎮守府も置かれ、約900メートル四方という広大な城内の中央には、重要な政務や儀式を行う政庁や寺院があったようです。

多賀城

802年、坂上田村麻呂が蝦夷討伐を行い、鎮守府が胆沢城(岩手県奥州市胆沢区)へ移ると、多賀城は兵站的機能になったものと考えられています。

869年には巨大地震である貞観地震にて、大きな被害を受けたようです。


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家族の感想を少し入れておきます。
多賀城跡ですが、今は只、広い芝生の丘でした。
周囲も何もなく、ただ時だけが過ぎ、夕暮れがせめりゆく感じです。

多賀城

下記の多賀城碑(たがじょうひ)は、那須国造碑(栃木県大田原市)、多胡碑(群馬県高崎市)と並ぶ日本三大古碑の1つで、762年12月1日に多賀城の修築記念に建立されたと考えられています。

多賀城碑

歌枕の壺碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれ、江戸時代には松尾芭蕉が訪れ、対面した感激を奥の細道にも記しています。

場所は多賀城南門の前で、石板の保護の為、江戸時代から覆堂の中に納められており、国の重要文化財に指定されています。

多賀城跡

多賀城の観光所要時間ですが、広すぎるので、全体をくまなく見ると2時間は必要です。
クルマで移動しながら政庁部分と石碑部分だと約20分で大丈夫です。
多賀城へのアクセスですが、JR東北本線・国府多賀城駅より政庁跡まで徒歩約10分となります。

無料駐車場は、東門跡北側に約15台、政庁跡北東側に舗装約20台、政庁跡南側の南北道路階段下に約20台、多賀城南門跡および多賀城碑の近くに6台とあります。
下記の地図ポイント地点は、多賀城南門跡(多賀城碑近く)の駐車場で、トイレもあります。

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コメント

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  1. 山田久夫

    [国の特別史跡になっている多賀城(たがじょう)は、多賀柵とも呼ばれますが、大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として724年に按察使・大野東人が築城開始しました。]
    これは江戸時代に発掘されたとされる多賀城碑文によるものだと思います。多賀城碑文の内容は続紀等の朝廷が編纂した史料と合致しません。737年の時点で多賀柵は賊地の中の柵であり、多賀城が造られるのは737年以降である事が続紀で確認できます。その事を天皇がわざわざ記録させているので間違いないと思います。
    どうぞ、続記737年(天平九年四月)の記事を詳細に読み直して頂けませんか。
     
     古代陸奥国の範囲は現在の福島県全域(11郡)+刈田、柴田、名取郡の14郡でした。多賀に権郡を置く事が許されたのは785年のことです。
     780年の伊治公呰麻呂の乱で多賀城も焼かれ、逆賊は刈田郡南端部まで押し寄せてきたのです。この時、逆賊の侵攻を抑えるため作られたのが所謂、阿津樫山防塁です。
     阿津賀志山防塁は文治五年に藤原泰衡が俄に築いたと吾妻鑑は記しますが嘘です。古代防禦遺跡を藤原泰衡が造った如く曲筆したのです。その証拠に多賀城は元来、陸奥国府ではありません。発掘調査で源頼朝が多賀国府へ寄った時代以前に多賀城が廃絶されたことが確認されています。
     源頼朝が平泉の藤原秀衡の屋敷に行った時、既に灰塵に帰した如く吾妻鑑は記しますが、発掘調査で掘っ建て柱の地中部と境の炭化木片が出土しないにもかかわらず、折敷と呼ばれる木工製品の欠片が炭化もせず、腐りもせず出土するのです。科学的にあり得ない事です。また、一部の遺跡で古代・中世の遺物が混合出土し、その下の層から寛永通宝が出土しています。平泉遺跡は吾妻鑑に符合させるべく捏造された遺跡と考えられます。
     藤原基衡は在国国司目(さかん)であり、陸奥守藤原師綱に公田の押領問題で糾弾された場所は信夫郡です。
     大同五年の太政官符に記された国府の行程情報から陸奥国府は信夫郡に存在したことが分かります。征討は停止され、多賀城、玉作塞、胆澤城は近辺の農民が交代で守る事となったのです。
    弘仁六年八月廿三日 [三代格 十八]815年『太政官符 一分レ番令レ守二城塞一事』に詳しく書かれています。
    どうぞ、詳細にお読みください。