板垣信方~武田重臣として活躍した名将


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板垣信方    生年不詳 ~ 天文17年2月14日(1548年3月23日

板垣信方(板垣駿河守信方)は武田信虎武田信玄と武田氏2代に仕えた武田重臣で、武田24将、武田四天王の1人であり、武田家中で最も頼りになる武将であった。
甲陽軍艦では板垣信形と記載されていたが、複数の書状などから、板垣信方と記載するのが正しいと言われている。

板垣氏は源氏の流れと言われており、甲斐源氏宗家の武田氏の祖・源信義(武田信義)の三男の板垣兼信から分家したもので、甲斐・武田家とは親戚関係にあたる。
山梨郡板垣(現在の里垣)が発祥の地であり、現在の甲府市にあたる一条荘に領地を持っていた。

武田信虎の代から板垣信方は優秀な武田家臣の中でも更に武勇ある宿将として活躍。
1521年2月、駿河の今川氏親より蟄居を命ぜられていた土方城主・福島正成が15000の兵で、富士川沿いから甲斐に侵入し、甲府に迫った。軍師・荻原昌勝のほか、山県虎清・馬場虎貞・工藤虎豊・内藤虎資・小畠虎盛・甘利虎泰・原虎胤らと共に板垣信方は10月16日、飯田河原の戦いで今川勢に対抗するが、武田勢はこのとき2000とも言われており、極めて劣勢な武田信虎は完成したばかりの要害山へ立て篭もる。
この今川との合戦中に要害山城(積翠寺との説も有)にて武田信虎の嫡子・勝千代(のちの武田晴信・武田信玄)が11月3日誕生。武田家御曹子誕生の良報に武田軍の士気は上がり、今川勢を追い返すため板垣信方と馬場信春らが先鋒となって今川勢に攻勢に出て、11月23日、上条河原の戦い(甲斐市)になった。
しかし引き分けに終わり、両軍ともに陣を引くが、その夜、武田軍は今川勢に夜襲をかけて、小畠虎盛が福島の副将・山県淡路守、原虎胤が大将・福島正成を討ち取るなど、今川勢の名だたる武将を討ち取り、大勝利を収めた。
ちなみに、福島正成の子は花倉の乱のあと、相模・北条氏綱を頼り、のちに北条氏綱の養子となって北条綱成と名乗った。
板垣信方は、この時の軍功により、勝千代の傅役を任されたと言う。
勝千代(のちの武田信玄)は文学に熱中し、詩文に明け暮れたことに危機感を覚え、板垣信方は死を賭して諫めた事もあったと言われている。
板垣信方は武田信虎とほぼ同年代であったようで、勝千代は板垣信方を第二の父親として慕い、なんでも板垣信方に相談したようだ。

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その後、武田と今川の和睦にも板垣信方は奔走する。今川との和睦が成立すると、武田信虎は板垣信方を駿河守に任じて、以後も今川家との交渉役を務めた。
板垣信方は駿河・今川家の情勢を探る為、その手足となって情報収集に当たった人物が山本勘介であったと言う説もある。

1524年~1530年頃、武田氏は津久井方面で相模・北条氏と敵対するが詳しい史料はない。またこの頃、武田信虎は、家臣の内藤虎資、馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊ら、重臣を一時の感情に任せて成敗したとも言われており、悪行が目立つようになった。
1533年、武田信虎の考えた政略結婚(扇谷上杉氏の娘と勝千代の婚儀)に板垣信方は強く反対。
1535年には、今川氏輝が和睦を破り、相模・北条氏綱と共同で甲斐に侵入。
万沢口から侵入した今川勢は8月19日万沢口の戦いで武田信虎が撃退したが、御殿場口から山中に侵入した北条勢には苦戦し、8月22日、郡内(現在の都留市など)が戦火に見舞われた。最終的には撃退できたものの、武田軍は武田信虎の弟・勝沼信友、郡内を治めていた小山田弾正らを失い数百人が戦死した。
この今川家の裏切りに怒った武田信虎の矛先は、今川家と交渉してきた板垣信方に向けられ、板垣信方勢だけで駿河攻めするよう指示する。
出陣した板垣勢は、富士川を下り駿河・興津に攻め込んだ。そして今川家の拠点・駿府へと迫ったが、今川軍の強い反撃にあって後退。板垣勢は山中に逃げ込んで冬を越したと言われる。
1536年の春、今川氏輝が24歳の若さで病死すると、武田信虎の怒りも収まり、板垣勢も甲府への帰還を許された。
この今川氏輝の死に関しては諸説があり謎である。一説には、甲府にも帰れず困った板垣信方が、配下の山本勘介が率いる間者(忍者)を使って毒殺したと言う説もあるが、真偽は不明である。

その後、武田信虎は信濃・武蔵・相模・上野などに侵攻を繰り返し、やがて甲斐国内は疲弊した。
家臣の進言も聞かず、苦言を申し出た家臣は追放するなど、武田信虎は次第に暴虐性をあらわにし、民や家臣の心は離れて行った。
また、武田信虎は、次期武田当主に2男の武田信繁をと考えるようになり、武田晴信(勝千代)には辛くあたるようになった。
これらの事態を重く見た板垣信方ら武田重臣は、1541年5月滋野氏攻略後、諏訪から凱旋してきた武田信虎に、婿である駿河の今川義元を訪ね、休暇を取る事を勧めた。武田信虎は罠とは知らず、疑いもせず6月14日駿河に出立。駿河に入ったのを見届け、甲斐と駿河の国境を封鎖した。そして武田晴信が甲斐を掌握したのである。

武田信虎追放の立役者となった板垣信方は、武田晴信からの信頼も一層強くなり、甘利虎泰と共に武田軍の指揮を取り、武田信玄が出陣しない時は名代として武田軍の総指揮を執るなど、甲斐筆頭の将として信濃国制圧に尽力した。
1542年、武田晴信は和睦していた諏訪を攻撃し占領する。諏訪の上原城には板垣信方が入り、諏訪郡代として諏訪の政治も任された。
1545年には高遠城攻略。また、その年に板垣信方の父が死亡しているが、名前はわかっていない。

1546年10月には、病気の武田晴信に代わり総大将として出陣。笛吹峠(碓氷峠)で上杉憲政の軍を破り、1219の首を取るなど、軍略家としても優れた才能を発揮した。
しかし、板垣信方は信濃を得て戦国大名になりたかったのか? この頃から戦勝の折に武田晴信の許可なく、単独で恩賞や勝鬨式、首実検などを行うなど勝手な行為が目に付くようになったとも言い、その板垣信方の行動に武田晴信は少くとも不満を抱いていたようだ。
1547年2月には村上家臣の楽岩寺右馬介らを攻める。その際、板垣信方は60騎で大物見を率いたが、楽岩寺勢200騎と戦いとなり、全滅の危機であったところを原虎胤に救援されたりもした。
 
武田家最高の武将・板垣信方もついに戦で倒れる日が来る。
武田晴信は家中の意見がまとまらないまま、村上勢を攻略することを決定し、1548年2月14日の上田原の戦いで、板垣信方は武田先陣として3500を率いた。武田晴信の代になってから連戦連勝であり、緒戦の勝利に気を緩めたか、勝鬨をあげ150の首実検をしている最中に、体勢を立て直した村上義清軍に急襲され板垣信方はついに戦死した。
ただし、武田氏の負け戦は記録を見ても詳しい事が記載されておらず、上田原の戦いなど内容や前後の経緯は良くわかっていない。
※上田原の戦いは村上義清の章にて詳しくご紹介している

上田原の戦いで、武田晴信は武田重臣・板垣信方だけでなく、同じく重臣の甘利虎泰をも失っている。一般的に考えれば、右腕と左腕になる有力な人材を一挙に亡くし、信濃での影響力も低下し、武田家にとって大きな打撃であるはずだ。しかし、以後は、武田晴信自身が取り立てた馬場信春・山県昌景らを筆頭とする強力な武田軍団が出来て行くのである。
考えようによっては、板垣信方・甘利虎泰と武田家中にて最も影響力を持つ2人を武田晴信がうまく排除し、重臣の新旧交代を図ったとも捕らえられるが、まったく予期せぬ戦死であったのか? いずれにせよ、2年後の砥石城の戦いと2度の敗戦でも武田家は没落することなく、武田晴信はうまく甲斐国を建て直し、その後、信濃をほぼ制圧することになる。

板垣信方の死後、嫡男・板垣信憲が板垣家の家督を継ぎ、所領や家臣をそのまま引き継いだが、仮病で出陣を拒んだり、戦場では攻撃参加せずに見物する、同心・被官を大切にしない、そして手柄が1つもないなど、1552年、武田晴信から七ヶ条の詰問状をつきつけられ、甲府・長禅寺に蟄居となり、同心・被官(甲斐80騎、信濃120騎)は召し上げ、山県昌景・高坂昌信に配分された。
最初、草履取りから父・板垣信方に取り立ててもらっていた曲淵吉景(曲淵庄左衛門吉景)だけが板垣信憲に1人従って長禅寺にて仕えたが、1553年曲淵吉景が目をはなした隙に、本郷八郎佐衛門に私情から殺害され、板垣氏は断絶した。

その後、於曽光経が板垣の名を与えられ再興し、板垣信安となり、親族衆として120騎。武田勝頼からは駿河・田中城主に命じられ家臣には志村金右衛門、平原宮内助、河野又兵衛、井上又左衛門、小倉(某)、河村(某)、宇野(某)がいた。武田滅亡後その名は途絶えており、よくわかっていない。

板垣信方の2男・板垣正信 (孫と言う説も有) が浪人中、関ヶ原の戦いに際し、山内一豊家臣・乾彦作に陣狩りをし、その後、乾氏の養子となり、土佐藩の一員となった。
幕末に活躍した元土佐藩士であり、戊辰戦争では倒幕軍の総指揮を取り、明治新政府樹立に尽力した板垣退助は、板垣氏の直系であり板垣信方の子孫と称している。

板垣信方の墓

上田城から「上田原古戦場・伝 板垣信方の墓」を訪ねました。

▼武田晴信(信玄)の信濃侵攻に立ちはだかったのが、北信の豪族・村上義清(居城葛尾城・坂城町)です。

▼両軍は天文17年2月14日(1548年3月23日)に上田平で直接対決(甲陽軍鑑によると、武田勢8,000、村上勢5,000人)、地の利を得た村上方も善戦し激戦となり、武田方は先鋒で奮戦した重臣・板垣信方、甘利虎泰らが討死しました。
晴信自身も負傷したといわれますが、村上方も重臣多数を失い追撃する余力はなく、両軍兵を引きます。

▼のち1551年、真田幸隆が村上方の戸石城を謀略によって落とすと、村上義清は本拠を支えきれず越後の上杉謙信を頼って亡命します。
このことがやがて、武田vs上杉の川中島合戦へと繋がります。

この戦いは、武田晴信初めての敗戦といわれています。
真田ブームで看板も新しくなったようです。

板垣神社は下記の地図ポイント地点となります。
駐車場はありませんが、神社の入口の路肩に1台ほど、短時間でしたら止められます。

(板垣信方の墓寄稿)柳生聡
(その他・写真)高田

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