岩村城と遠山景任~圧巻の6段石垣など見ごたえある山城「岩村城」


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岩村城(いわむらじょう)は、標高721m、比高153mの山城です。

本丸の標高は717mと、江戸時代に設立した藩の中では最も高い場所であることから、日本三大山城(奈良の高取城、備中松山城)の一つであり、よく霧が出たことから霧ヶ城とも呼ばれます。

鎌倉時代となり、遠山荘の地頭に源頼朝の重臣・加藤景廉が任じられたことから岩村城の歴史が始まりますが、ここでは見ごたえある岩村城の写真を挟みながら、遠山氏をご紹介したいと存じます。

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この加藤景廉(かとう-かげかど)は、平家の武士を斬り殺した罪で、本貫の伊勢を追われて、伊豆の豪族・工藤茂光の元で謹慎していたようです。
そして、源頼朝が伊豆で挙兵すると、加藤景廉は加担し、山木館襲撃の際には山木兼隆を討ち取りました。

その加藤景廉の長男で岩村城主の加藤景朝が、地名から遠山景朝(とおやま-かげとも)と称して、遠山氏の初代となります。
この遠山景朝が、1221年から、岩村城の築城を開始しましたが、当時は、小さな砦、または館だったようです。
下記は岩村城の太鼓櫓ですが、平成2年(1990年)に復元された建物となります。

なお遠山氏の宗家は、岩村遠山氏と言う事になりますが、遠山一族は分かれており、明知城明知遠山氏、苗木城の苗木遠山氏と「三遠山」(遠山三頭)と呼ばれました。
この3頭は主要な分家と言う事で、遠山七頭(七遠山)と呼ばれるように7流に分かれています。

ただし、遠山氏は美濃だけでなく、信濃・・三河・下総・常陸・相模・武蔵・陸前・羽前・丹波・豊前など全国に一族がいるのも特徴です。

戦国時代の遠山氏の宗家・岩村遠山家としては、遠山景前(遠山左衛門尉景前)がいます。

遠山景前(とおやま-かげさき)は八幡神社の社殿を造営したり、菩提寺・大円寺を中興し、明叔禅師や希菴禅師などの名僧を招くなど、領内の統治に尽力した「名君」でした。

やがて、甲斐の武田晴信(武田信玄)は、信濃・伊那郡を制圧し、川中島の戦いで長尾景虎上杉謙信)と争うと同時に、1555年には東美濃にも侵攻し、岩村城を包囲したため、遠山景前は降伏した模様です。
その遠山景前の子が、遠山景任(とおやま-かげとう)になります。

下記は岩村城の本丸でして、結構広いです。

本丸にも井戸がありますが、全部で17箇所も井戸がありますので、籠城には向いています。

1556年に父・遠山景前が没すると家督を継いだようで、遠山景任が岩村城主となりました。
明知城主・遠山友春(遠山景行)、苗木城主・遠山勘太郎(遠山友勝)と共に遠山三人衆と呼ばれるようになります。

しかし、遠山景任はまだ若かったようで、遠山七頭の中には不満を持つ一族も現れ、宗家の後継者争いとなりました。
遠山景任は武田信玄に助けを求めるなどし、竹だけの後ろ盾を得て、当主の座を守っています。

当然、武田家には人質を出して、他の遠山氏も武田に臣従しますが、引き続き斎藤道三織田信長とも連携を図っています。
実際に、斎藤義龍が、長良川の戦いで斎藤道三を破ると、明知遠山氏の遠山友行が斎藤義龍に与して、明智城攻めに参加するなどしました。

そして、時期は不明ですが、遠山景任も、織田信定の娘で、織田信長の叔母にあたる「おつやの方」(艶、岩村殿、修理夫人、お直の方、岩村御前)を正室に迎えています。

永禄8年(1565年)に、武田勢が美濃。金山城の森可成と、米田城の肥田玄蕃允を攻撃したあと、織田信長は武田家との和睦を模索します。
この時、遠山景任の弟・遠山直廉の娘を、織田信長は養女として、武田信玄の庶子で高遠城主・武田勝頼の正室として送りました。
下記は、美濃岩村城の六段石垣となりますが、圧巻です。

また遠山景任の弟とされる遠山直廉は、先の1552年に断絶した苗木城の遠山氏を継いでいます。

そんな遠山景任の岩村城でしたが、いよいよ戦国時代の合戦に巻き込まれていきます。

1572年、武田信玄は西上作戦をする前に、木曾義昌と弟・遠山直廉に命じて、桜洞城主・三木自綱(姉小路頼綱)を攻撃させました。
この合戦で、弟・遠山直廉は傷を負い、1572年5月18日に亡くなってしまいます。

そのため、織田信長は飯羽間遠山家の遠山友勝に、苗木遠山家を継がせました。
また、岩村遠山家の遠山景任も、8月14日に病死することになったのです。

そのため、織田信長は東美濃を支配しようと、岐阜城にいた河尻秀隆や織田信広を派遣して、岩村城を占拠しました。
下記は、岩村城の伝説としても有名な「霧ケ井」です。

八幡曲輪にある霧ケ井は、城主専用の霊泉とされます。
敵が攻めて来た際に、城内秘蔵の大蛇の骨を井戸に投じると、たちまち雲霧が湧き出て、城を霧で見えなくすると言う裏技があると「巌邑府誌」という書物に記載されています。

ゆえに、岩村城は別名を「霧ヶ城」と呼ばれるのですが、もともと、岩村の街はよく霧に覆われます。

織田信長は岩村城を支配下とすると、自身の5男・御坊丸6歳?(織田勝長)を、亡くなった遠山景任の養嗣子として認めさせ、叔母・おつやの方を後見人に据えました。
おつやの方は、女城主として岩村城にて差配を振います。

これに対し、西上作戦途中の武田信玄は、ただちに飯田城主・秋山虎繁(秋山信友)と、依田信守を東美濃へ派遣して岩村城の攻撃させました。
おつやの方は、織田信長に援軍を願うも援軍は来ず、1572年11月14日に武田家に降伏し、岩村城を明け渡しました。

そして、秋山信友は御坊丸(織田勝長)を捕縛する結果となりますが、これら武田の進出に反発した、明知城主・遠山景行など他の当山一族らは12月、上村の戦いにて秋山信友と戦いますが大敗します。

秋山信友は武田信玄の許しを得て、未亡人「おつやの方」を説得して、1573年2月末に妻に迎え、岩村城の支配を強化しました。
浜松城では同じ12月に、三方ヶ原の戦いで、徳川家康が武田家に敗れています。

なお、岩村遠山氏の菩提寺・大圓寺の住持・希菴玄密は、その昔に甲斐・恵林寺の住職務めていたことから、武田信玄は恵林寺に戻るようにと何度も願いますが拒否されたと言います。
そのため、武田信玄は岩村城が陥落した約2週間後の11月26日に大圓寺を焼きました。

そして、希菴玄密が逃亡したと聞くと刺客3人を送り、希菴一行に飯羽間川の橋にて全員を殺害されたと言います。
その時の刺客3人は気が狂ったり、狂った馬から落ちて命を落としたとされ、また、5ヵ月後には武田信玄が病死しました。

このように、惣領であった岩村遠山氏は滅亡しましたが、岩村城の戦いはその後も続きますが、以後の岩村城は下記の秋山信友にて続けてご紹介したいと存じます。
※岩村城の駐車場情報なども下記の秋山信友のページにてご紹介させて頂きます。

おつやの方と秋山虎繁(秋山信友)~織田家に処刑された命運

★そのほか「美濃・遠山氏」に関する情報は下記にて

小里光忠 小里光明 小里光親 ~小里城を奪還するも後継ぎがなく断絶
遠山景行と上村の戦い~美濃・遠山氏の存亡をかけて
遠山友勝と遠山友忠~遠山友政は関ケ原の戦いで活躍し苗木城に復帰
美濃・明知城と千畳敷砦にある光秀産湯の井戸~明智光秀誕生の地なのか?
織田信忠~本能寺の変に散った26歳の命
「尾張・美濃」にある戦国史跡跡オリジナル地図(Googleマップ)

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