亀寿姫 持明院様 じめさぁ ~お参りすると美人になる鶴嶺神社


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島津亀寿(しまづ-かめじゅ)と言う薩摩のお姫様がいます。
亀寿姫と呼びますが、法名から薩摩では持明院様(じめさあ)と親しまれています。

島津家第16代当主・島津義久の3女として1571年4月26日に生まれました。
母は種子島時尭の娘ですが、亀寿が2歳の時に亡くなっています。

亀寿と言うのは幼名ですが、島津家出身の女性、しかも3女で、このように幼名まで文献に残っているだけでなく、肖像画まであるのは例がないと言えますが「かめひさ」と読んだとする説もあります。

島津氏正統系図などによると、亀寿姫は1587年5月16日に上洛命令があり、17歳で豊臣家に人質として送られていますが、秀吉が驚くほどの美貌であったともあります。

1589年(天正17年)、亀寿姫(19歳)は従兄弟の島津久保(17歳)と結婚しました。

この島津久保(しまづ-ひさやす)は、島津義弘の次男でしたが、父・島津義久には男児がなかったため、島津亀寿が2歳年下の島津久保を事実上に婿養子として迎えた形となります。
そして、島津久保は次の当主として目され、小田原攻めにも島津勢を率いて後方支援しています。

なお、結婚後は、豊臣家より再三にわたり上洛命令が届いており、3年間延びのびにしましたが断りきれず、1592年3月に再び、亀寿姫は上洛し近衛前久邸に引き取られています。
なお、島津久保は朝鮮攻めに出陣します。
しかし、結婚して僅か4年後、1593年9月8日に夫・島津久保が巨済島で病死してしまいました。享年21でした。
なお、豊臣時代、時期は明確には不明ですが、島津義弘の継室・実窓夫人(広瀬夫人・園田実明の娘)と共に亀寿姫は大阪城下に人質として住んでいたと考えられています。

後継者を失った島津家では、島津久保の弟である島津忠恒(島津家久)を時期当主にと定めます。
この島津忠恒は、島津義弘の3男でしたが、この決定は豊臣秀吉の直々の指名となっており、亀寿姫の父・島津義久よりも、その弟・島津義弘を豊臣秀吉が重んじた為とも言えます。

島津忠恒は、それまで、蹴鞠と酒色に溺れる日々を送っていましたが、1594年6月に未亡人となっていた亀寿姫が嫁ぐことになり、以降は父ゆずりの武勇を発揮しました。
もっとも翌年に細川幽斎の尽力もあり、亀寿は約1ヶ月掛けて、鹿児島へ船で戻っています。
ただし、1599年頃からは、人質の褒賞として領地が島津家に度々加増されていることから、亀寿はどうも?、人質として再び出されていたようです。

いずれにせよ、亀寿は結婚後「御上様」(おかみさま)と呼ばれており、豊臣家に降伏後、事実上、島津家を引っ張った島津義弘も、亀寿のことを御上様と読んでいます。
これは、どういうことかと申しますと、島津家の家督相続決定権は亀寿次第という節があるようです。
しかし、2番目の夫・島津忠恒(島津家久)とは、相当仲が悪かったようで、当然、子もできていません。

関ヶ原の戦いの際には、大阪城下にいましたが、石田三成の監視下に置かれていましたが脱出に成功し、関ヶ原で敗れて鹿児島に戻る島津義弘らと、西宮で合流して薩摩に戻っています。

しかし、父・島津義久も、豊臣家に降伏してから表舞台にたてず、1602年には「御重物」と当主の座を正式に島津忠恒に譲って隠居し、1604年には国分城(舞鶴城)を築いて隠居所としています。

その後の後継者を誰にするかと言う問題では、亀寿の姉・島津新城が産んだ甥・島津忠仍(島津久信)を推したようですが、1611年に父・島津義久が亡くなってしまいます。

そして、亀寿は鹿児島城から父の隠居所である国分城を弔問のために訪れた際に、そのまま国分城に留め置かれ、事実上、島津忠恒(島津家久)の正室をはく奪し、別居・蟄居となりました。
島津忠恒はその後、継室だけでなく側室など8人を迎えています。

なお、亀寿姫の国分城での生活はかなり苦しかったようで、見かねた島津義弘が伊勢貞昌に支援を命じています。

1616年には、島津忠恒(島津家久)と継室となる薩州家・島津忠清の娘の間に、島津光久が誕生していますが、この妻子は江戸藩邸に人質としていました。
この島津光久の父・島津忠清は、亀寿の姉・御平が産んだ子の縁と言う事もあり、島津光久が亀寿の養子となることで、正当な家督継承者となっています。

結果的に、後継者を決めるような重要な立場でもあった亀寿姫であり、鹿児島での亀寿の評判については、器量に優れなかったが、その人柄で人々に慕われとされます。
良妻賢母の鑑とも敬われたともあり、国分様(国府様)、国分御上様とも呼ばれたのです。

そのまま亀寿は、1630年(寛永7年)10月5日に国分城にて死去。享年60。
法名「持明彭窓庵主興国寺殿」。

なお、亀寿は島津家の家宝(歴史的財産)を所有しており、そのため、夫から殺害されなかったとも言われていますが、臨終の床で、その家宝を跡継ぎの島津光久に直接渡すよう、老臣・山田有栄に託しました。
このとき、間違っても島津忠恒には渡すなとも伝えています。

さて、亀寿の墓ですが、島津忠恒(島津家久)は高野山に納骨すると言っていたのに、1632年になって、納骨されていなかったことが発覚します。

この事に驚いた島津光久は、至急菩提寺の建設と、高野山への納骨を進めるよう手配しました。
菩提寺には、祥月命日の5日に、必ず参拝するよう家臣に命じています。

家庭運に恵まれない生涯であった亀寿姫。
薩摩では同情の声が多く、今でも「持明様」(じめさあ)と呼ばれる伝説が各地に伝わっているとの事です。

さて、亀寿姫の肖像画ですが、島津本家が明治2年(1869年)に建立した鶴嶺神社(つるがねじんじゃ)に移管されていました。

鶴嶺神社は亀寿姫を祀る神社です。

下記は鶴嶺神社の境内にある源頼朝公御石塔です。

島津家の祖である初代・島津忠久の母は、源頼朝の乳母である比企尼の長女であり、その女性が産んだ島津忠久は、源頼朝の子であると島津家が主張したため、このような石塔もあるようです。

なお、西南戦争の際、島津家としては中立を保っていましたが、官軍によって鶴嶺神社の寺宝の多くが強奪され、亀寿の肖像画も行方不明となっています。

なお、現在の鶴嶺神社には、島津本家と玉里島津家の当主、その家族や家老なども祀られています。

大正時代の新聞記事にには「持明院様が神に祀られてから、女性の願い事は何でも聞かれ、恋もかなえてやる、髪のちじれも直す、この夜に孕んだ子は美しく生まれさせる、などなどと言い伝えられている。」と掲載されているの事です。

さて、鶴嶺神社への行き方ですが、世界遺産にもなる仙巌園(磯庭園)のすぐ脇にあります。
そのため、仙巌園(磯庭園)の見学ついでに簡単にお参りすることが可能です。
ちょっと寄るだけ5分もあれば参拝可能ですので、是非、セットでどうぞ。

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