甲斐宗運と御船城~阿蘇氏を忠実に守り抜いた生涯不敗の名将で軍師


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甲斐宗運(かい-そううん)は阿蘇神社大宮司・阿蘇惟豊の筆頭家老である甲斐親宣の子として生まれた。
生年に関しては諸説あり、1508年ともされるが1515年が有力と考えられている。
母の名は不詳。

父・甲斐親宣(かい-ちかのぶ)は、1514年頃に、阿蘇惟豊が菊池武経との争いに敗れて、肥後から落ち延びるのを助けた。
その後も、阿蘇家の重鎮として活躍しており、病に倒れていた時に阿蘇家の家臣らは「甲斐親宣殿がいないと何も決まらない」嘆いている。

そんな父を見て育った甲斐宗運は、元服すると、はじめ甲斐親直(かい-ちかなお)と称した。

1523年、大友義鑑の弟・大友重治が菊池義武として菊池家の養子となり、隈府城を追われていた菊池武包が、筒ヶ嶽城(荒尾市府本)にて挙兵する。
このとき、大友義鑑と同盟関係にあった阿蘇惟豊は甲斐親宣と甲斐親直(甲斐宗運)を派遣して菊池武包を破った。
この戦いが甲斐親直(甲斐宗運)の初陣と考えられ、戦功を称されて八百町の領地を与えられている。
なお、父の死に伴い家督を継いだようだが、年代は不明であり、また甲斐親直(甲斐宗運)の正室の名なども不詳と分からない事も多い。

天文10年(1541年)、阿蘇氏に従っていた御船城主・御船房行が、薩摩を統一した島津貴久に内通して阿蘇氏に反旗を翻す。
この時、阿蘇惟豊は、子の阿蘇惟将を総大将にして討伐軍を送り、甲斐親直(甲斐宗運)も参陣したが、木倉原の戦い(御船原の戦い)にて多数の首級を挙げ、御船房行(御船阿波守行房)を自決に追い込み、御船城を占拠した。
その戦功におり、甲斐親直(甲斐宗運)は千町の領地と御船城を与えらることになる。

御船城

御船城(みふねじょう)は標高35m、比高20mの平山城(丘陵)で、築城年は不明だが、1343年には阿蘇惟澄が城主として名が見られる。

1348年には、阿蘇惟時らが懐良親王を御船城に迎えており、その頃には阿蘇氏の居城であったと考えられる。
その後、1359年には御船城主・御船盛安が北朝に降伏したとある。

現在、城跡は城山公園として整備されているが、地形はだいぶ改変されてしまっているようだ。

本丸の北東部にある最高所には甲斐宗運を合祀した城山天満宮がある。

小生が訪問したのは熊本地震があったあとと言う事で、御船城跡にあった神社の鳥居も倒壊してしまったようである。

御船城から見渡せる御船の街も、家屋の屋根にはブルーシートが目立っていた。

地震の被害を受けた地域は、益城町や熊本市だけでないことが良くわかり、御船町も含めて被災された皆様が一日も早い復興を遂げることを願うばかりである。

御船城の駐車場は下記の地図ポイント地点で、見学所要時間は10分ほどである。

話を戻すが、甲斐親直(甲斐宗運)が御船城主になった頃、剃髪して宗運と号するようになった。

甲斐宗運が阿蘇家から贈られていた茶臼剣(ちゃうすけん)と言う脇差を、娘婿・隈庄守昌(甲斐上総介敦昌の子)が欲しがり何度もねだった。
天文15年(1546年)、ついに、隈庄守昌は妻である甲斐宗運の娘に盗み出させたことから問題となり、隈庄城主・隈庄守昌は、宇土城の本郷伯耆守を介して、敵である島津貴久に寝返ろうとする。
これを知った阿蘇惟将は激怒し、甲斐宗運に命じて隈庄城を攻撃させた。

甲斐宗運は、この隈之庄の戦いで隈庄守昌を破ったが、隈庄城は落ちていなかったため、再び天文18年(1549年)に、阿蘇惟将は家臣らに出陣を命じ、隈庄城を攻略すると隈庄守昌の一族を尽く誅殺した。

なお本刀「茶臼剣」は、その後、熊本城に入った細川家に伝わったのか、明治初期には細川忠興の五男・細川興孝の系統となる長岡刑部家の男爵・細川興増が所持しており、現在は島田美術館が所蔵している。

甲斐宗運は一族であろうと、阿蘇家に背くものは徹底して成敗しており、阿蘇家に忠実な軍師として活躍。
阿蘇家を引き続き大友義鑑に協力させ、肥後では相良氏と名和氏と同盟を維持することで阿蘇家の独立維持を保っている。

天文15年(1551年)、前年に家督を継いだ大友義鎮(大友宗麟)が、肥後平定のために出陣すると、阿蘇家は大友勢の佐伯惟教のもとへ、甲斐宗運を案内役として派遣している。
そして、阿蘇惟教は菊池義武に属する竹迫城主・合志隆重を攻撃したが、竹迫城を落とせず和睦して退いた。

永禄5年(1562年)頃からは、島津貴久が肥後へと進出してきた為、島津家に従った人吉城主・相良義陽と阿蘇氏は争うようになる。

天正6年(1578年)、大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に敗れると、大友勢の影響力が低下した為、肥後の国人衆の多くは島津氏や龍造寺氏についた。
しかし、甲斐宗運は大友氏と引き続き同盟することを主張したため、弱体化している阿蘇家の家中で動揺が広がっている。

天正8年(1580年)3月、佐賀城主・龍造寺隆信に従属した隈部親永合志親為、河尻氏、鹿子木氏と、島津義久に従属した名和顕孝、城親賢による肥後国人衆の連合軍が、阿蘇家打倒の兵を挙げた。
この時、甲斐宗運は嫡男・甲斐親英(甲斐宗立)と8000を率いて迎え撃ち、白川且過瀬を挟んで対陣する。
間者の報告により、降雨により油断した隈部勢が酒盛りをしていると知ると、翌日未明に川を渡河して急襲した。(且過瀬の戦い)
そのため、隈部勢は大混乱に陥り、敗走している。
この功績により、甲斐宗運は大友義統より飽田郡池上村を与えられている。

この頃、嫡男・甲斐親英(甲斐宗立)の舅に当たる黒仁田豊後守が阿蘇氏を裏切って伊東氏に内通したため、誓紙を書いた嫁一人を除いて、甲斐宗運は黒仁田一族郎党を皆殺しにし、首を献じている。

また阿蘇家の与力衆である井芹党の頭・加賀が、島津家に与して阿蘇氏を滅ぼそうと企んでいると聞くと、甲斐宗運はこれを討った。
ただし、この井芹党には甲斐宗運の息子である、次男・甲斐親正(甲斐蔵人)3男・甲斐宣成(甲斐三郎四郎)4男・甲斐直武(甲斐四郎兵衛)も加わっていた。
甲斐宗運はそられの子らも容赦なく成敗し、次男は討ち取られ、逃げた三男は江俵山にて追っ手に殺害された。
四男は日向まで逃亡したが、嫡男のも龍造寺隆信に願える計画であったことから、捕縛している。

ただし、合志伊勢守が助命嘆願をしたこともあり、甲斐親英(甲斐宗立)に関しては起請文を書かせて助命した。

天正9年(1581年)春、甲斐宗運は、無能な大友義統に見切りをつけ、龍造寺隆信に人質を送って臣従を誓ったが、1581年9月、島津家に臣従した相良義陽が御船城を攻撃開始した為、御船の田代城主・田代快尊・田代宗傳(甲斐宗運の妹婿)の親子は、相良勢と対峙している。

この相良義陽と甲斐宗運はお互いに不戦を誓った盟友であった為、相良義陽は心ならずも阿蘇領に侵攻していたため、12月に負けを覚悟とも言える不利な布陣をした。
甲斐宗運は、すかさず濃霧に包まれた響野原の相良義陽本陣を背後から奇襲し撃破。
相良義陽は最後まで退却せず、床几に座したまま討死したと言う戦死したと言う。(響野原の戦い)
そんな相良義陽の首を見た甲斐宗運は、大いに涙したと伝わる。

相良氏には勝利したものの、島津家の北上を阿蘇氏が食い止めるのは困難であったため、以降、甲斐宗運は外交の駆け引きにて、龍造寺家・島津家の二大勢力に渡り合っている。

天正10年(1582年)冬には、島津義久に和睦を申し入れるものの、島津家が示した和睦の条件を何一つ履行せず、逆に旧領返還を求めるなどして時間稼ぎも行っている。

小領主の家臣でありながら生涯六十余度の合戦では不敗と称えられる名将・甲斐宗運。
しかし、天正11年(1583年)7月5日に死去した。享年75。

この死は病死とされているが、嫡男・甲斐親英の娘、又は甲斐宗運の孫娘によって毒殺されたという説がある。
甲斐親英の妻は、実父・黒仁田親定が伊東氏への内通を疑われたただけで甲斐宗運に殺害され、夫の兄弟をも皆不遇となったいたことから大いに恐れており「舅は必ず夫を成敗する」と考えていたのは自然に思える。
しかし、阿蘇神社に仕える阿蘇家の家臣の娘として、阿蘇の山神への誓いを破ることはできないことから、娘(木山備後守惟久の妻)に命じて、毒殺を実行させたとも言われている。

なお、甲斐宗運は生前に「島津には決してこちらから戦いを仕掛けず、矢部(阿蘇氏の本拠地)に篭って守勢に徹し、天下統一する者が現れるまで持ちこたえるように」と言い残していたと言う。

しかし、跡を継ぎ阿蘇家の筆頭家老となった甲斐親英(かい-ちかひで)は遺言を守らず、天正15年(1585年)に島津勢が築いた花の山城を攻撃してしまう。
「宗運のいる限り肥後への侵攻はできぬ」と考えていた島津家も、甲佐城や堅志田城を難なく落として御船城に迫ったため、その結果、甲斐親英は早々に降伏。

隈庄城も開城して和平交渉中に甲斐親英は島津勢に捕まり、八代に連行された。
そして、わずか2歳であった阿蘇家当主・阿蘇惟光も島津氏に降伏したのち、母親に連れられて弟・阿蘇惟善とともに目丸山に逃亡(目丸落ち)し、大宮司・阿蘇氏は滅亡する結果となった。

ただし、ほどなく豊臣秀吉の九州攻めに甲斐親英は協力したようで、旧領の御船を回復している。
しかし、新たに肥後領主となった佐々成政の施策に、肥後の国人衆は反発し、天正15年(1587年)8月に肥後国人一揆を起した。
甲斐親英はこれに「大将」として参加して、菊池武国(菊池武宗)らと隈本城を3万5千にて攻撃したが撃退され、のちに菊池武国は討死している。
甲斐親英は逃れたが健軍神社にいたところを佐々成政の与力・森壱岐守(毛利勝信)の軍勢に発見されて、六ヶ所村(嘉島町上六嘉)の地蔵堂へ入って自害した。
生年不詳のため、享年は不明である。

なお、2歳だった阿蘇惟光(あそ-これみつ)は、佐々成政、次いで加藤清正と身柄を預けられ、わずかながら領地も与えられた。
しかし、1593年に梅北一揆が起こると島津歳久や梅北国兼らとの結託を疑われ、豊臣秀吉によって花岡山にて斬首されている。享年12。

御船城は加藤清正の時代に廃城となっている。

当方オリジナルGogoleマップ (熊本や人吉を含む)
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