梶原景宗~北条水軍の頭として海を守る

 小田原城の北条氏家臣として、北条水軍を率いていた梶原景宗(かじわらかげむね)は、別名・梶原備前守景宗、梶原吉右衛門とも呼ばれる。生没年などは不詳。

 梶原景宗は、紀伊国西部有田郡出身であり、元々は海上水運による交易商人(海賊)だったようで、紀州出身と言う事で荷物を積んだ船の防御として鉄砲も用いていたと考えられる。
 そんな、水軍の指揮に長けたことを北条氏康に見込まれて、紀伊と相模との交易を許し、知行役の免除などを条件に、有事の際には北条氏に水軍として戦闘協力する「傭兵水軍」になったようだ。
 安宅船を初めて関東に入れたのは、この梶原景宗と言われている。安宅船は森林が豊かで大きな木が取れる紀州でしか造船できなかった船で、当時、安宅船を持つと言う事は、海戦でかなり有利に戦えると言う事であった。


スポンサーリンク


 北条氏康から梶原景宗宛ての書状で「海上警備の為に現地(伊豆海域)に残ってほしい」と記載されたものや、里見水軍との戦いに際しては「紀伊衆が活躍し~」などとの記述が残っており、北条家臣・安藤良整と共に多くの商業関連の文書に連署している。
 この事から、北条氏の直臣という事ではなく、水運の交易商人としての北条氏に協力したのか、水軍「傭兵」のような形で属し、立場としては客将?のような形であったとも考えられる。
 その辺りは、瀬戸内海の村上水軍と同様である。
 その為か、北条滅亡の後は、出身地である紀伊へ戻り、土着している。

 里見氏や武田氏との戦いでは、2度に渡り北条水軍を率いて活躍したと言われ、1556年と1562年、安房・里見氏と三浦半島城ヶ島で戦った。
 1562年、三浦小坪・岩戸に119貫950文を知行。
 1563年には、佐竹・公郷等348貫350文を宛行している。
 1568年7月には、北条氏康が、梶原吉右衛門の帰国を慰留させていいるが、翌年1569年12月頃、紀伊に一時帰国している。
 1573年11月、梶原景宗以下、配下の扶持290貫544文の配符を、北条氏より受けた。
 1575年3月、梶原景宗は、早船4艘乗組員40人の扶持給240文を宛行。11月には、梶原氏への手当がおろそかにならないよう、北条氏は奉行に指示している。
 1579年11月、北条氏の奉行が梶原景宗に伊豆・西浦の番銭を厳しく徴収するよう督促している。また、北条氏政は伊豆・長浜城の船掛庭普請のため、木負の百姓徴用を指示。
 12月、伊豆・長浜城に梶原景宗ら駐留のため、植松佐渡守の所領・野口村百姓を徴用。
 1580年4月、武田水軍の間宮氏らに対し、大型安宅船で駿河湾より地上の武田勢に対して艦砲射撃をした事でも知られる。
 7月、梶原景宗は北条氏政より大船一艘建造の夫役のため、久里浜150文の地を知行。
 1586年3月、梶原景宗は北条氏から紀州船通行の安堵権を認められる。
 『北条記』では「海賊」と記されていたり、『北条五代記』では「船大将の頭」と記されており、水軍を用いる戦闘では事実上、北条水軍のトップだったようだ。

 1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、沼津・長浜城の北条水軍を率いて、西伊豆の安良里港に駐留。
 一方、豊臣勢は九鬼嘉降、加藤嘉明脇坂安治らの兵14000と数百隻の水軍で小田原城を目指し、清水港を出港し、北条水軍と駿河湾で海上戦となった。
 
 梶原景宗が誇る北条水軍の安宅船には、武士50人、水夫50人、両舷を堅木の厚板が囲み大筒1門の重装備で、更に関船(四板船という軽軍艦)と、小早(連絡の早船)を率いた。
 九鬼嘉降の率いる大黒丸(18端帆、200挺櫓、200人乗、50mから打込める大筒3門装備)が6隻で、北条水軍は歯が立たず大筒によって次々に撃沈された。
 安良里港に撤退した梶原景宗は上陸するも、豊臣勢の本多重次の配下・向井正綱率いる徳川水軍の上陸を許し敗れている。

 小田原城開城後は、北条氏直とともに高野山に赴き、北条氏直の死後は、出身地の紀伊に土着。
 文書上、最後に動向が確認できるのは1591年に北条氏直が梶原景宗から贈呈された鯖50匹に対する返礼書である。

北条氏康と瑞渓院とは~文武両道な猛将も家中や庶民を大切にした戦国大名
加藤嘉明~海戦も陸戦も得意だった戦国大名

コメント

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。