加治木城の歴史と伊地知重貞・肝付兼演・肝付兼盛・肝付兼篤


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加治木城主と言うと肝付氏かと存じますので、このページでは肝付家を中心にご紹介したいと思います。

そもそも加治木城(かじきじょう)は、平安時代頃に、大蔵氏が築城したと考えられる標高100m、比高60mの山城ですが、詳しいことは分かっていません。
大蔵良長には男子がいなかった為、娘婿に関白・藤原頼忠(924年~989年6月26日)の3男・藤原経平を養子に迎えましたとされていますが、これも確証は得られません。
ともあれ、この藤原経平が加治木に土着し「加治木経平」と称するようになったとされています。

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鎌倉時代になると、加治木氏は、元寇の撃退にも貢献しましたが、戦国時代の加治木氏は、既に豊州家・島津季久の子・島津満久を養子として迎えたおり、実質的に島津家が支配していました。

この加治木満久の子・加治木久平は、1495年に突如、島津氏に対して反乱を起こし、明応4年(1495年)6月、島津氏家臣の川上忠直の所領である帖佐を攻撃しました。
川上忠直は大隅・高尾城にて籠城し、援軍を待ったため、加治木久平は退きました。

これに激怒した島津忠昌は1496年に加治木城を攻撃しています。
このときに加治木氏は加治木城にて籠城しましたが、大軍が押し寄せたため降伏して謝罪。
加治木久平は薩摩・阿多(鹿児島県南さつま市金峰町)へと移されたため、加治木氏は没落しています。

その後、加治木城主には伊地知重貞が入った模様です。

しかし、伊地知重貞は伊作家・相州家の島津貴久が宗家継承することに反対し、薩州家・島津実久に属して謀反を起こします。
そのため、1527年6月5日、島津貴久の実父・島津忠良が加治木城を攻めました。
ただし、これは平山城や加治木城の一帯を手に入れたかった島津忠良の策略とも考えられています。
6月7日、伊地知重貞・伊地知重兼の父子を自刃に追い込みました。(殺害されたとも)
また、帖佐の平山城主・島津昌久も滅ぼされており、正室・島津善久の娘は、子供らを連れて薩摩・阿多へ移されています。

そのあとは、戦で武功があった家老・肝付兼演(1498年~1552年7月4日)が加治木城主となり、帖佐・邊川・加治木・木ノ内・中ノ州を領しています。
この肝付兼演は、大隅の戦国大名・肝付氏の庶流となります。
この肝付兼演(きもつき-かねひろ)も、薩州家当主・島津実久の調略に応じ、1537年、一転して島津貴久と敵対しました。
1542年に、北原兼孝の加勢を受けて、島津貴久は加治木を攻めましたが、肝付兼演は撃退しています。

1549年5月には、島津貴久の命を受けた伊集院忠朗・樺山善久・北郷忠相らの軍勢が加治木城を攻撃しました。
この時、肝付兼演は菱刈隆秋、蒲生範清・蒲生茂清ら蒲生氏・入来院氏・祁答院氏・東郷氏に援軍を得て対陣すると言う長期戦となっています。
なお、この加治木城の戦いにて、伊集院忠朗が日本で初めて「鉄砲」(種子島)が合戦で使用されたとも言われています。
この初めて使用したのには諸説ありますが、鉄砲の噂はたちまち広まったと言います。
11月になって伊集院忠朗の子・伊集院忠倉が火計に計にて、加治木勢の陣を混乱させたため、加治木兼演は北郷氏を通じて島津貴久に降伏しました。
ただし、翌年になって加治木は安堵されています。

1552年に肝付兼演が死去。享年55。
その後は正室・廻久元が産んでいた嫡男・肝付兼盛が後を継ぎました。

肝付兼盛(きもつき-かねもり)の正室は島津忠良の娘・にしで、その「にし」の兄?となる島津貴久を裏切ることなく忠義を示しました。
天文23年(1554年)には蒲生範清は渋谷一族とともに祁答院氏などと連合して島津氏に叛き、肝付兼演の加治木城を攻撃しました。
この時、島津貴久は加治木城を救援する為、岩剱城の祁答院良重を攻め、加治木城を取り囲んでいた蒲生勢を牽制し救援しています。
この岩剱城の戦いにて、島津義久島津義弘・島津歳久の三兄弟が揃って初陣を飾ったのです。
この激戦では島津忠将が種子島(鉄砲)を使い、岩剱城の祁答院勢も種子島で応戦したとあり、日本ではじめて鉄砲を使用した本格的な合戦となりました。

蒲生範清は岩剱城の救援に動き、激戦となると祁答院良重の嫡子・祁答院重経らが討死して蒲生氏は敗走。
岩剱城の残兵も夜陰に紛れて逃走し、岩剱城には島津義弘が在番し、平松城が築城されました。
この岩剣城攻めに加わった肝付兼盛も、岩剱城の4人の武将を討ち取る軍功を上げています。

1555年には蒲生氏を攻めた他、祁答院良重の帖佐・山田へ加治木の長浜衆を率いて進軍すると、敵の徳永与一左衛門・安田杢之丞ら23人を討ち取りました。
これらの功により、島津貴久から西別府(鹿児島市西別府町)と有川(霧島市)を加増されています。

1559年には島津家と盟書を交わすと増々活躍し、1566年に伊東氏の三ツ山城攻め、翌年の菱刈攻めなどでも肝付兼盛は戦功を得ています。
1568年には、島津忠良から軍功を賞されたる4人のうちの1人にまでなっていました。

また1569年、新納忠元と共に大口城を攻めて落城させると、島津義久から感状と曽於郡上三台堂を与えられています。

その後も、島津家の重臣として大隅の統一に貢献し、肝付氏の宗家・伊地知氏・禰寝氏との数々の合戦にも参加し、加治木を発展させましたが、肝付兼盛は天正6年(1578年8月11日)に没しました。享年46。

跡を継いだのは、子の肝付兼寛(きもつき-かねひろ)です。

肝付兼寛は、1578年、島津義久に従って耳川の戦いにて戦功を挙げています。

1580年、肥後・矢崎城攻めにては、肝付兼寛は敵を多数討ち取ったとあり、1582年には水俣城攻め、1584年には沖田畷の戦いや、1585年の堅志田城攻めでも軍功をあげています。

1586年には、岩屋城攻めにも参加し、豊臣秀吉の九州平定の際には、豊後から撤退する際にも活躍しましたが、天正18年(1590年)に若くして死去しました。享年33。

嗣子がいなかったため、弟の肝付兼篤が継承する話もあったようですが、伊集院忠棟の強い求めにより3男・伊集院兼三が養子となって肝付兼三と称しています。

なお、加治木領は1595年の太閤検地にて、加治木・日当山・溝辺のうち1万石が豊臣家の蔵入地(直轄地)となったため、肝付氏は喜入に移っていました。

こうして喜入領主となった肝付兼三(きもつき-かねひろ)ですが、1599年3月9日に父・伊集院忠棟が朝鮮から戻った島津忠恒に伏見で手討ちにされると言う事件が勃発します。
そして、兄・伊集院忠真が日向で反乱(庄内の乱)を起こしたため、肝付兼三は加治木城から出てします。
そのため、肝付兼寛の弟・肝付兼篤(きもつき-かねあつ)が、一族の話し合いで相続することなり、主君・島津義久、島津義弘、島津忠恒の許可を得ました。
そして、伊集院忠真が庄内の乱を起すと、島津義弘・島津忠恒の命に従って、肝付兼篤は討伐軍に加わっています。

関ヶ原の戦いのあと、1602年8月17日には伊集院忠真が討たれ、伊集院一族は粛清されました。

1605年、肝付家の家中にて従兄弟・肝付兼秋、肝付兼堯の兄弟(叔父・肝付兼有の子)が、肝付家の家督相続を狙う陰謀が発覚した為、肝付兼篤は無事に収めています。

1609年には主君・島津義久の琉球出兵に従いって出陣しました。
しかし、琉球からの帰国後、病によって1609年6月29日に肝付兼篤は没しています。享年48。

なお、この肝付兼篤が喜入肝付氏の初代と言う事になり、家格は一所持(喜入領5500石)として存続しました。
幕末には小松清廉(小松帯刀)を輩出した他、テレビアニメ「ドラえもん」(テレビ朝日版)のスネ夫などの声優として活躍していた肝付兼太さん(2016年没)も末柄でした。

なお、加治木城ですが、1599年、朝鮮攻めの恩賞で、加治木は島津家に戻されており、1607年に、島津義弘が帖佐館(帖佐城)から平松城、そして加治木城へ移っています。
しかし、加治木城を大改修する予定だった島津義弘も、結局は加治木館を建て居住しました。

加治木城が不便だったとも、江戸幕府の許可が降りなかったとも言われています。

加治木館は「中の丸」「東の丸」が完成し、のち島津家久が「西ノ丸」を増設し、のち加治木島津家の居所となっています。

オマケ写真ですが、下記は「蔵王岳」(標高158m)です。

加治木インターチェンジの東側にあり、加治木城からも正面に見えます。

九州自動車道からもこの奇妙な形をした蔵王岳が見えるのですが、なんでも浅い海の加治木層に、マグマが登ってきて入り固まったところを、浸食されて、マグマの安山岩の部分が残って、海面が隆起し飛び出したような地形になったとの事です。

蔵王岳の標高は158mの山で、途中から険しいですが山頂へ登る道があるそうで、15分~20分で登れるようです。

この蔵王岳の方が、籠城するのには適しているように感じる方もおられるかと存じます。
しかし、籠城する場合には「水」が出ないと、数週間で降参するしかないのです。
そのため、山城と言えども、水の手があることが、城の絶対条件となります。

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