勧修寺晴豊~朝廷の武家伝奏と貴重な日記「晴豊公記」

勧修寺晴豊(かじゅうじ-はるとよ)は、権大納言・勧修寺晴秀(勧修寺晴右)の子として、1544年2月24日に生まれた。
母は粟屋元子(若狭武田家の家臣・粟屋元隆の娘)。

兄弟姉妹には万里小路充房(万里小路輔房の養子)、日蓮宗・立本寺住持の日袖、正親町三条公仲の室、勧修寺晴子(新上東門院)などがいる。
特に勧修寺晴子は、誠仁親王の妃となり、後陽成天皇を産んでいる。


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勧修寺晴豊は元服すると室町幕府第12代将軍・足利義晴からの「晴」の偏諱を受けた。

子に勧修寺光豊・甘露寺経遠・伊達行源・坊城俊昌・阿部致康・鳳林承章・佐久間安政の正室がいる。

なお、1576年に父・勧修寺晴秀が、興福寺別当の人事に介入したとして、織田信長より蟄居を命じられている。

勧修寺晴豊は24年間にもわたり武家伝奏を務めたため、織田信長や豊臣秀吉などと交流があり、石山本願寺の戦いでは1580年に、朝廷からの勅使として織田信長と本願寺顕如の講和を斡旋した。

1582年4月25日には、武家伝奏として京都所司代・村井貞勝を訪ね、織田信長を太政大臣・関白・征夷大将軍の三職のうち、いずれか好きな官職に推任すると言う協議を行っている。

晴豊公記には、織田信長や本能寺の変に関する記述も多く、史料価値が高い一級史料とみなされている。

本能寺の変の前日には、織田信長の上洛を祝う勅使として、甘露寺経元と共に本能寺を訪問して織田信長と会見した。
明智光秀の謀反のあとに見聞した、織田信忠の二条御所などの状況を、細かく記録している。

山崎の戦い後で明智光秀が敗れた際には、明智光秀の娘1人を保護した。

1602年12月8日に死没。

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