観音寺城の登城記~六角高頼と日本屈指の観音寺城の歴史


スポンサーリンク
スポンサーリンク

観音寺城(かんのんじじょう)は、信長の野望と言う戦略シミュレーションゲームでも、京都御所を攻略する上で「鍵」となる拠点でしたので、ついか訪問してみたいと思っておりました。
しかし、どこにあるのか?も、ずっと良く知らず、漠然と近江の山の中なのかな?と思っていたのですが、調べてみると安土城からもほど近いところでして、戦略的にもはやり良い立地ですね。

繖山(きぬがさやま)の山頂付近に「観音寺」があったことから観音寺城と名付けられていますが、観音寺城を改修した際に「観音寺」は、中腹にある現在の観音正寺の場所に移されたようです。

観音寺城の築城年代や最初の築城者は六角氏頼など諸説あるようですが、室町時代での応仁の乱の頃には、六角高頼(ろっかく-たかより)(六角行高、佐々木高頼)が観音寺城主でした。
六角行高(六角高頼)の父は六角久頼で、母は不詳。
六角高頼が迎えた正室は古河公方足利成氏の養女(山名宗全の娘?)とされており、1492年には六角氏綱が誕生しています。

ちなみに、応仁の乱では、1468年の1月と11月、そして1469年5月と、3回も観音寺城の戦いとして攻防戦が行われています。

 スポンサーリンク


最終的には山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆ら家臣の奮闘もあり六角行高(六角高頼)が勝利すると六角家は戦国大名へと進みました。
1478年には室町幕府から近江守護を任じられています。
しかし、京からもそんなに遠くない土地柄からか、将軍・足利義尚らの反発もすぐに届きます。
1487年9月、9代将軍・足利義尚の軍勢に敗れた六角高頼は、観音寺城を放棄して甲賀の山中へと逃亡しました。
1491年8月にも10代将軍・足利義稙の軍勢に敗れて、甲賀へ敗走しています。
しかし、いずれもゲリラ戦を展開して観音寺城を奪還していますので、たいしたものです。

上記は、北東側から望む観音寺城です。
観音寺城には曲輪や屋敷を配置である平坦地も多く、規模としては日本屈指の大きさです。
ただし、自立意識の高い家臣ら受け入れる為の、屋敷を配置するなどの必要上からの規模であり、権威や政治権力を強調した城であるため、虎口や竪堀などもごくわずかなのです。

その為、曲輪には、池田丸、淡路丸、伊藤丸、沢田丸、馬渕丸、三井丸、馬場丸、大見付丸、三国丸、伊庭丸、進藤丸、後藤丸と言った家臣らの名前がつけられています。
ただし、日本で初めての「城割」とも言え、麓の安土町にある石寺ではこれも日本で初めてと推定される「石寺楽市」が開催されていたと言うので、六角行高(六角高頼)の考え方は当時としては最先端を行っていたとも言えるでしょう。

しかし、山城としての研究はまだまだ初歩であり、虎口や竪堀も無いことから籠城しようにも防御が弱かったうえ、六角行高(六角高頼)が持つ兵力で守るのには大きすぎたため、一旦逃亡して体制を整えてから再び奪取する戦術を取った訳です。

1502年には家臣の伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城へと再び逃れましたが、1532年には12代将軍・足利義晴は六角家を頼り、観音寺城の山麓にある桑実寺境内を室町幕府仮御所として、約3年に渡り、観音寺城に室町幕府がありました。

こうして、六角高頼の次男・六角定頼は1537年に娘を管領・細川晴元に嫁がせ、小谷城主・浅井久政を従属させるなど六角家の最盛期を築きます。
その六角定頼の嫡男が六角義賢(六角承禎)と言う事になります。

1568年、足利義昭を奉じて上洛しようと考えた織田信長は、8月5日に岐阜城を出発し、8月7日に佐和山城へ布陣。
織田信長は、和田惟政らを派遣して「足利義昭の上洛を助けよ」と六角義賢と六角義治と交渉しますが拒否されます。
この時、織田信長は再三に渡り使者を観音寺城へ派遣し、7日間に渡って交渉していますが、うまく行かず一旦帰国してから、織田信長は9月7日に15000の軍勢を発しました。

私が考えるに、観音寺城は外から見ただけでは、どこが本丸なのかもわからない?、規模が大きく複雑な構造の山城です。
そのため、使者を何回も送ったのは、いわゆる「下見」をさせたと言って良いのではと思います。
その報告を聞いて、必要な兵力や攻める予想日数を割り出し、必要な装備や兵糧を準備する為、一回帰ったものと推測致します。

再度の観音寺城攻めでは、徳川家康1000と、浅井長政3000の加勢も受けています。
織田勢に対する六角義治は観音寺城に六角義賢・六角義定ら4000、和田山城に田中治部大輔ら6000、箕作城に吉田出雲守ら3000を配置するなど分散させました。

織田勢の稲葉良通らは和田山城へ、柴田勝家森可成は観音寺城へと向かいました。
しかし、織田信長、滝川一益丹羽長秀、木下秀吉(豊臣秀吉)ら主力は、いきなり箕作城を総攻撃しました。

箕作城が真っ先に攻撃されるのは、六角義賢も予想していなかったようで、箕作城が陥落すると六角家が事前に考えていた防衛作戦は破たんしたのでしょう。
そのため、和田山城の兵は戦わずに逃亡し、六角義治は先祖伝来の戦法にならい、夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びます。

六角家老臣・蒲生賢秀は、敗北を聞いても1000にて日野城で抵抗しましたが、親戚でもある織田家の神戸具盛の説得に応じて降伏し、織田家に臣従しました。
この時、織田家に人質に出された子が、後の蒲生氏郷となります。

六角義治は石部城に拠点を移すと、例によってゲリラ戦を展開しますが、さすがに織田家に継続して抵抗するのには既に力不足で、六角家は没落し次第に姿を消して行きました。
六角義治の弟・六角義定は武田信玄を頼って落ち延びています。

1577年、織田信長は観音寺城の北側に派生する尾根のピークに安土城を築き、観音寺城は役割を終えています。

観音寺城の登城記

観音寺城の本丸と推定されている郭は標高395mです。
登山ルートはいくつかあります。
徒歩の場合、中腹の桑実寺から観音寺城・本丸跡地まで約30分の登山となります。

小生は車で一番高いところまで登れる標高348mにある林道駐車場から、観音寺城へと入りました。
正式には観音正寺への裏参道で、駐車スペースから観音正寺までは約500m、徒歩10分となります。
ここからでしたら、本丸推定地まで比高47mで済みます。

駐車場から山道を入ってすぐ左手下の曲輪は、目賀田摂津守の屋敷跡で、古井戸もあるそうです。

この観音正寺へ続く道は、古くは川並道と呼ばれており、路肩には石垣もありました。
ただし、当時の物ではないかも?知れません。

しばらく歩くと、上記のような分岐があります。
上記の脇道を登って行くと、観音寺城の古い時代の城址・佐々木城跡の方に向かう北尾根沿いの登城路になっています。
ちょっと覗いてみると、枝もぼうぼうで、あまり整備されていないようでしたので、そのまま観音正寺へと向かいました。

上記は南側の展望です。
各写真はクリックすると拡大します。

権現見付跡を過ぎると「ねずみ岩」と言う大きな岩がありました。

どこか、ネズミに似ているのかな?と、目を凝らして見たのですが、良く分からなかったです。
大きな割れ目がクチで、その上の細かい横線の割れ目がヒゲらしいのですが、そう言われても、私にはモアイ像にしか見えません。(^_^;)
このネズミ岩の脇からも山へと通じる通路があり、佐々木城址の方へと登れます。(帰りはここに降りてきました。)

ねずみ岩を過ぎるとまもなく観音正寺です。
観音正寺の本堂は、ちょっと前まで彦根城の欅御殿が移築されたものでしたが、残念ながら1993年に焼失してしまい、現在の本堂は2004年に再建されたものとなります。

1400年前に聖徳太子が創建した由緒ある寺院でして、通常は入山料として500円を徴収されます。
1568年に織田信長の攻撃を受けて落城し、数年後には佐々木六角家所縁の観音正寺も焼き討ちになり、全焼しました。

景色も良い所で、下記は草津方面の展望です。

その観音正寺の崖下から、観音寺城の本丸跡方面へ通じる山道があります。
トレッキングシューズ、トレッキングポール(ストック)、登山用ズボンにて挑みます。

観音正寺の崖下に降りて、少しずつ登っていく感じです。
この周辺も曲輪があるのですが、藪に覆われていて、全くわかりません。

道の分かれ目の所々には方向案内板があるのですが、観音寺城全体の説明版は無いので、イマイチ良く分かりません。
ヘンな方向に進まないよう、ときおりgoogleマップで位置を確認しながら歩きました。

石段をせっせと登って行きますと、観音寺城の本丸と推定されている曲輪に到達しました。

しかし、本丸跡も整備はされておらず、ほったらかしな様相です。

土塁もありました。

確かにある程度広い場所ですので、本丸であってもおかしくはないです。

下記のような石垣が北側にあります。

これらの石垣は、石垣の上に建物を配したと言う事では無く「土塁」として曲輪の防御、すなわち壁代わりに石垣を用いたようです。

内側はこのように石垣なのですが、下記の外側写真から分かるように、外側には石垣が用いられていない?ようで、土塁状態となっています。
そのため、建物側に土塁が崩れるのを防いだような石垣となっています。

天守はなかったようですが、2階建ての館があったとも言われています。

上記はちょっとした「虎口」になっています。

こじんまりした虎口ですが、なかなか素敵です。
観音寺城は歴史的にも価値の高い山城です。
観音寺城の石垣は、安土城と同じ湖東流紋岩の野面積みですが、安土城よりも40年前には既に石垣があったと言う事になります。
滋賀県も本格的な調査環境整備に向けて基本計画策定を進めているとの事です。

本来であれば、大夫井戸跡や本丸から南側の平井丸や池田丸も見たかったのですが、地図もないし時間の関係で、北尾根方面へと進みます。

登ってきた時とは異なる、観音正寺方面のルートで降りて行きます。

すると、三角点方面の方向板があり、その階段を登っていく事にしました。
しかし、1月でこの有り様ですので、夏場は草木覆われてしまうのではないでしょうか?

せっせと登っていくと、また石垣が見えてきます。

道は近江八幡市か、観音正寺さんで、もうちょっと整備されても良いのではと感じます。
時折り伐採はなさっているようですが・・。

やがて尾根道のようなところに出たのですが、これは尾根道ではなく「大土塁」との事です。
北尾根はずっと、このような土塁が伸びています。

なにしろ、観音寺城は良くわからないのですが、上記写真が、三国岩・三国の間なのでしょうか?

再び屋敷の石垣と思われるところに出ましたが、もう、何屋敷跡なのかも分かりません。

よくわからないながらも、とにかく東へと進みます。

たぶんこの辺りは、三国丸跡だと思います。

たぶん、上記の巨石が、三国石だと思います。

とにかく説明板や看板などが無いので、自分のいる場所すら、分からなくなりやすいです。

と言う事で、観音寺城の何かマップを持参しないと、私のようにとんでもない事になります。

本当は、マップを用意していたのですが、車の中に忘れて来たと言うのが正しいです。
下記は堀切のような場所です。

やがて佐々木城址にやっと出ました。

佐々木家と言うのは近江守護で、六角家はその分家と言う事になります。

ただ、佐々木城址と言う名は、普通の観音寺城地図には掲載されていないんですよね?
別の郭の名前があるのでしょうか?

佐々木城址からは、みずみ岩方面へと降りていくことにしました。

もう一度、ネズミ岩をじっくりみて、本当にネズミに見えるか確かめたかったのです。

しかし、ねずみに見える事はありませんでした。

ただ、ネズミ岩に降りる道沿いは、これらのように巨石がふんだんにありました。

と言う事で、観音正寺と駐車場への道に出て戻りました。
私が回ったコースで所要時間は約60分でした。
以上、完全に観音寺城を見れた訳ではないのですが、雰囲気などは充分に体感することができましたので、訪問してみて良かったです。

このように説明がない山城は、かなり周到に見どころを事前勉強して訪問する必要があります。
近ければ、何度も行けるのですが、夏場はヤブや虫もスゴそうですしね。

今回、小生も利用させて頂いた観音正寺線と言う林道は、東近江市が管理しており昼間のみ「有料」通行可能になっています。

概ねAM8:30~PM4:30に通行できるようですが、時間などは流動的ですし、雪が降ると通行止になったりします。
通行料金は600円で、中腹まで進むと料金所があります。
そして、その林道終点が、観音正寺の駐車スペース約18台となっています。
ここまで来れば観音正寺や観音寺城の本丸へも、高低差が大幅に軽減されます。
トイレは観音正寺の境内のみとなりますので、ご注意を。

下記地図のポイント地点は、その林道の駐車スペースを示しています。
林道は北側から登れます。

六角義治と弟・六角義定 (六角次郎)
織田信長と言う人物に迫る
蒲生氏郷~2人の天下人から厚く信頼され戦国の世を駆けぬけた希有の智将
安土城~それは織田信長が天下に示した最新のアトラクションだった
八幡山城の登城記~八幡山城わずか10年の歴史も現代に残る風情豊かな城下町
琵琶湖東岸の湖北・湖東にある戦国時代史跡スポットを巡る1泊2日の旅

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1.  彦姫は、米沢城主・伊達晴宗の4女として、1552年?に生まれた。兄に岩城親隆・伊達輝宗などがいる。…
  2.  1547年?に誕生した「おね」は、尾張国の杉原定利の娘(次女)で、母は朝日殿。  生まれてす…
  3.  阿南姫(おなみひめ)は、米沢城主・伊達晴宗の長女として1541年に生まれた。兄に岩城親隆、弟に伊達…

人気の戦国武将

  1. 松山城(まつやまじょう)は、伊予(愛媛)の松山にある標高132m、比高約90mの連郭式平山城で、津山…
  2. 筒井順慶(つつい-じゅんけい)は、筒井城主・筒井順昭の子として1549年3月3日に生まれた。 母は…
  3.  天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、1582年6月、織田信長の死後、空白地帯となった甲斐・信…

オリジナル戦国グッズ

限定「頒布」開始しました。無くなり次第終了です。
戦国オリジナルバック

 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります
 オリジナル書籍
柳生一族
2016年10月、書籍・電子書籍にて販売開始

 オリジナル電子書籍

2016年8月、戦国武将研究会著作
ページ上部へ戻る