唐沢山城と唐沢山城の戦い~佐野昌綱・佐野宗綱・北条氏忠・佐野房綱


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唐沢山城(からさわやまじょう)は、標高241m、比高200mと言う国指定史跡の連郭式山城で、栃本城、根古屋城、牛ヶ城とも呼ばれます。

最初の築城は、927年に藤原秀郷が唐沢山に城を築いたとされています。
その後、1180年に藤原成俊が再び唐沢山城を再興し、この時から「佐野氏」を称しました。
と言う伝承がありますが、どうも違うようでして、1491年に佐野盛綱が唐沢山城を改修したともあります。

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いずれにせよ、戦国時代に入ると、唐沢山城では約10回もの攻城戦が行われると言う激戦地となりました。

まずは、唐沢山城への行き方ですが、下記の地図ポイント地点が、無料の駐車場になっており、レストハウスもあります。

この標高202m地点まで、車で上がって行けますので、山城への登城と言ってもかなりラクで、本丸への道も整備されていますので、トレッキングポールなども不要です。

その蔵屋敷跡となるレストハウス前から歩きだしますと、いきなり石垣で構成された枡形虎口が現れます。

唐沢山城の全体像は下記のような感じです。
下記の看板付近に、唐沢山城の地図の紙が置かれていますので、もらって見学しましょう。

すぐ近くには大炊井戸があり、現在も水を湛えています。
各写真はクリックすると拡大致します。

現在、唐沢山城には唐沢山神社が建立されており、参道としても整備が行き届いております。

戦国時代の唐沢山城主は、佐野家第15代当主・佐野昌綱(さの-まさつな)ですが、下野を抑えるにあたり、唐沢山城は重要拠点です。

最初は佐野昌綱が上杉謙信と結んだため、1559年頃に北条氏政が35000の大軍にて、唐沢山城を攻撃したとありますが、佐野盛綱は上杉勢の援軍も得て守り切りました。

1561年3月、上杉謙信が大軍にて関東の諸将と共に小田原城を包囲した際には、上杉勢が春日山城に撤退したあと、北条氏康が唐沢山城へ迫ります。
この時、上杉家は武田信玄と川中島の戦いで援軍を出せなかったため、佐野盛綱は北条家に降伏しました。
そのため、12月、上杉謙信は唐沢山城の佐野盛綱を攻めましたが落とせず、冬になると厩橋城に引き上げています。

次は1562年3月ですのて、もう唐沢山城の戦いは連続です。
厩橋城で年越しした上杉謙信は、1562年3月に唐沢山城を再び攻めました。
しかし、この時も落とせず、上杉勢を2度も撃退した佐野盛綱の武名が知れ渡りました。

1563年2月、北条氏康は武田信玄の援軍を受けて、武蔵・松山城を手に入れます。
これに対して、上杉謙信は再び関東に入ると、諸将を攻略して次々に降伏させたため、唐沢山城もあっけなく開城しました。
この時、降伏した城は騎西城忍城祇園城古河城、結城城、小田城などです。

上杉謙信が春日山城に帰ると、北条家の調略を受けた佐野盛綱は寝返ります。
そのため、1564年2月、上杉謙信は本気で唐沢山城を攻めました。
斎藤朝信、吉江景資、色部勝長の活躍もあり唐沢山城の三の丸・二の丸まで上杉勢が占拠します。
そのため、佐野盛綱は、佐竹義昭と宇都宮広綱の説得に応じてついに降伏しましたが、命は助命されました。

唐沢山城には下記のような高い石垣もありますので、関東の山城にしては非常に珍しいです。

同じ年の1564年8月、北条氏康が再び北関東へ軍勢を進めると、佐野盛綱は再び北条に臣従したため、上杉謙信はまたしても10月に唐沢山城へと進軍しました。
この時、佐野盛綱はまたも上杉謙信に降伏しましたが、さすがに佐野盛綱もついに人質を春日山城に送る事になりました。
しばらく、上杉家についていた佐野盛綱でしたが、1566年、再び北条家に寝返ります。
よって、1567年2月、またしても上杉謙信は唐沢山城攻めを行いますが、積雪もあり一時撤退しています。
すぐの3月、再び上杉謙信が唐沢山城へ来襲すると、佐野盛綱は降伏しましたが、またしても助命をされました。

下記は二の丸です。

1569年に再び、佐野盛綱が北条家に寝返ると、1570年1月、上杉謙信はまた唐沢山城を伺いましたが、さすがに極寒の真冬であったことから、退却しています。

佐野盛綱は、軍略に秀でており、当時まだ関東では珍しい鉄砲も駆使したと言います。

1574年に佐野盛綱が死去すると、嫡男・佐野宗綱(さの-むねつな)が家督を継ぎますが、佐野宗綱はやがて佐竹義重と同盟を結び、北条家と敵対しました。

1581年には北条氏照に攻められますが、佐竹からの援軍も受けて撃退しています。
下記は唐沢山城の本丸にある唐沢山神社です。

武田家が滅亡すると、滝川一益の臣従しましたが、織田信長本能寺の変で倒れたあとは、佐野宗綱は独立性を保ち、1584年4月、北条勢の小泉城主・富岡秀高を攻撃もしています。
1585年1月、長尾顕長を攻めた際、佐野宗綱は単騎で出た所を鉄砲で撃たれて落馬します。そこを討ち取られて、討死しました。

佐野宗綱には子がいなかったため、一族や家臣らは北条家から養子を迎えるか、佐竹家から迎えるかで紛糾します。
その隙を突かれて1586年8月、唐沢山城が北条家によって占拠されたため、北条氏忠が佐野宗綱の娘(乗讃院)と結婚して養嗣子に入り、佐野氏忠(さの-うじただ)と称し、佐野家を継ぎました。
下記は唐沢山城の車井戸です。

その佐野氏忠も1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際には、小田原城にて籠城し、降伏後は北条氏直に従って高野山に入りました。
その後、伊豆の河津にて1593年に死去。

豊臣秀吉勢についていた佐野房綱(さの-ふさつな)(佐野昌綱の弟)が、その後佐野家39000石の家督を継ぎますが、豊臣秀吉の家臣・富田信高の弟である富田信種を養嗣子として迎え、佐野信吉が唐沢山城となったのです。

以上、意外と見応えある唐沢山城でした。
関東では断然お勧めできる山城です。
見学所要時間は約60分となります。
坂道、お気をつけてお出かけ願います。

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