葛西晴信と木村吉清・木村清久とは?~奥州仕置後の葛西大崎一揆をわかりやすく


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葛西晴信(かさい-はるのぶ)は、第15代当主・葛西晴胤の子として1534年頃に生まれた。初名は葛西信清。
母は、継室である鶴楯城主・黒川景氏の娘。

この葛西氏は、鎌倉時代の豊島氏の一族で、葛西城(東京都葛飾区)が本拠であった。
源頼朝が奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした際、武功があった葛西清重が、奥州総奉行に就任し、陸奥へと移ったのが、この葛西氏となる。

父・葛西晴胤(かさい-はるたね)は、伊達晴宗との同盟を強め、居城を石巻城から寺池城に移し、戦国大名としての基礎を築いた。

1555年に父・葛西晴胤(葛西左京大夫晴胤)が死去する、嫡男・葛西親信(かさい-ちかのぶ)(葛西義重)が家督を継いだが、病弱だったようで1560年に病死。
そのため、年の離れた実弟・葛西晴信が、兄・葛西親信の養子になる形で跡を継ぎ、第17代当主となった。

引き続き、伊達政宗とも同盟関係を重視し、敵対した大崎義隆とは1571年、1573年と戦ったがいずれも、葛西晴信が勝利している。

寺池城は、北上川沿いである現在の宮城県登米市登米町にあり、所領としては約30万石だったと考えられている。
外交的にも1569年に上洛して織田信長と謁見し、所領安堵を受けるなど、勢力的に活動していたようだ。

しかし、家臣団の巨大化が進み、葛西晴信の半生は、支族や有力家臣との間に相次ぐ抗争を調停・融和に奔走していたと言っても良い。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際にも、領内情勢が不安定で抗争を鎮圧するため参陣できず、戦後の奥州仕置で、所領をすべて没収された。

その後の葛西晴信(葛西左京大夫晴信)は、蒲生氏郷木村清久(木村弥一右衛門)に攻められると徹底抗戦して寺池城(登米要害)もしくは佐沼城で討死(自刃)した説もある。
また、諸国を流浪すると前田利家の世話になり、1597年10月9日に加賀・尾山にて64歳で死去したという説もあるなど、良く分かっていない。

しかし、木村氏は暴政でのぞみ、葛西・大崎に属した旧武士団はこれに対抗した。「葛西大崎一揆」とよばれるこの乱には多くの葛西家遺臣が参加した。一揆の背景には伊達政宗の扇動があったともされている

いずれにせよ、葛西氏は滅亡したが、分家・庶子の多くが伊達家、南部家を中心に臣従したため、現在まで続いている。

木村吉清と木村清久

葛西晴信が領地を失ったあとに入ったのは、豊臣秀吉の家臣・木村吉清と、その子・木村清久(木村弥一右衛門)となる。

木村清久(きむら-きよひさ)の生年は不詳であるが、父・木村吉清(きむら-よしきよ)は松永長頼の子であり、丹波・亀山城主・内藤如安の家臣から荒木村重、のちに明智光秀の家臣となっていた。
その後、本能寺の変の後、亀山城を羽柴秀吉に差し出した際の手際の良さから、豊臣秀吉の母・大政所に評価されて5000石で家臣に取り立てられた。
そして、太閤検地の奉行として活躍していた木村吉清と木村清久の親子は、1590年、小田原攻めにも参加し岩槻城を攻め、奥州仕置の際に武功も立てた。

そのため、蒲生氏郷の与力として、5000石から約30万石の大名にと大抜擢され、旧大崎領と葛西領のうち胆沢・江刺・磐井・気仙・本吉・登米・桃生・牡鹿・栗原・遠田・志田・玉造・加美の13郡を与えられたのである。
さっそく、木村吉清は葛西晴信の居城だった寺池城に入り、子の木村清久は大崎義隆の名生城にて領内統治を開始している。

父・木村吉清は得意の検地も実施した。
しかし、年貢を厳しく取り立てたたり、旧大崎家や葛西家の地侍などを家臣に採用せず、刀狩を行ったと言う。
更に、5000石から30万石になったことでの家臣不足を補うため、足軽・中間など武家として昇進させたり、浪人を大量に登用したことから、家臣が領民に乱暴狼藉を繰り返したと言い、領民らの反感をかったと言う。

浅野長吉が仕置を終えて帰途に就いた直後、1590年10月16日、大崎義隆の家臣だった氏家吉継の家来が領民と共に蜂起すると岩手沢城を占拠して籠城した。
これをキッカケに、一揆は領内全土へと拡大し「葛西大崎一揆」となる。
各城が一揆勢により陥落したため、木村吉清は子の木村清久とともに佐沼城へ逃亡した。

浅野長吉(浅野長政)は、白河城にて一揆の知らせを受けると、二本松城へ赴き、蒲生氏郷と伊達政宗に出動を要請。
しかし、伊達政宗の祐筆・曾根四郎助が、伊達政宗が一揆を揺動した密書を持参した他、伊達勢が撃っている鉄砲が空砲であるとの報告もあり、急きょ、石田三成が派遣されている。

その間、蒲生氏郷は名生城を占領し、一方、伊達政宗も高清水城・宮沢城・佐沼城を攻略して、木村親子を救出し、蒲生氏郷が駐屯している名生城へ送り届けている。
こうして、蒲生氏郷は木村親子を伴って上京して、豊臣秀吉に報告。

一揆を揺動した疑いがかかった伊達政宗も上洛して査問が行われた。
この時、伊達政宗は一揆を煽動した証拠とされる密書は偽造されたもので、自分の書状は花押の鶺鴒の「目」ら針で穴を開けているのが本物だと主張。
これに対し、豊臣秀吉は伊達政宗の主張を認め、改めて一揆を鎮圧するように命じ、援軍として豊臣秀次徳川家康も出陣した。

その後、伊達家の家臣としては浜田景隆・佐藤為信が討死するなどしたが、葛西氏遺臣の多くは息の根を止められ、1591年7月4日、寺池城の一揆勢が降伏し、ほぼ鎮圧。

領主だった父・木村吉清は責任を問われて領地没収となり、木村吉清らは蒲生氏郷を頼って客将となった。

なお、一揆が発生した結果、大崎義隆へ下されたていた朱印状は反故となり、大崎家の復帰は中止となっている。

改めて葛西・大崎13郡の検地と、城の改修をした徳川家康は、大崎・葛西の旧領を伊達政宗に引き渡した。
そして、伊達政宗は岩手沢城を「岩出山城」と改名し、1601年に青葉城を築くまで、本拠地としている。

ただし、伊達政宗に葛西・大崎13郡30万石を手に入れた代わりに、本来の72万石のうち、6郡(長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田)の44万石を没収されている。
そして、その6郡は蒲生氏郷に与えられたため、伊達政宗の所領は58万石と減ったので、豊臣秀吉は一揆を揺動した懲罰としたと考えられている。
減封により困窮した伊達家では、北目城主・粟野重国が移封を拒否して攻められたほか、伊達成実・国分盛重・鬼庭綱元・遠藤宗信ら重臣の出奔が相次いだ。

蒲生氏郷の元にいた木村吉清は、1592年に、蒲生家より信夫郡(福島市)5万石を与えられた。
その後、木村吉清は居城を大森城から杉目城へ移し、この杉目城を「福島城」と改称したので、福島と言う地名の名づけ親と言える。

しかし、1598年に蒲生家が宇都宮へ減封となると、木村吉清も所領を失い、以後は父の旧領であった豊後に1万5千石を与えられ、再び独立大名として取り立てられたが、同年に死去。
そのため、子の木村清久(木村弥一右衛門)が遺領を継いでいる。

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木村清久は、1600年、関ヶ原の戦いでは石田三成に協力して、丹後・田辺城(舞鶴城)の攻撃に加わっている。
その後、近江の勢田橋を守ったが、攻撃を受けると敗走。
戦後に改易された、

その後、浪人すると豊臣秀頼の誘いを受け、1615年、大坂城に入城したが、大坂の陣で討死したという。

なお、寺池城には、1604年に伊達家の家臣・白石宗直が入り城下町の発展や河川の整備などを行い、大いに発展させた。
白石宗直は大坂の陣でも功績があり、1616年には伊達姓を許され、登米伊達氏と呼ばれるようになっている。

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