片桐且元~豊臣家に尽くすも徳川の「罠」にはめられた結末は?


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片桐且元(かたぎり-かつもと)は、近江国浅井郡須賀谷の国人領主・片桐直貞の嫡男として1556年に生まれた。
母は不詳。弟に片桐貞隆がいる。
正室は片桐半右衛門の娘。

片桐家は鎌倉御家人で信濃源氏・伊那の名族だが、浅井長政に従った父・片桐直貞(片桐孫右衛門直貞)は支族となる。

1573年9月、織田信長の攻撃により、小谷城が陥落した際にも、父と共に17歳だった片桐且元も浅井勢として戦っていたものと推測されている。

その後、長浜城を築城した羽柴秀吉の小姓に弟・片桐貞隆と共に取り立てられたが、片桐且元が家督を譲られた時期はわかっていない。
しかし、羽柴秀吉の中国攻めなどにも参加していたものと考えられている。

明智光秀本能寺の変にて織田信長が横死したあと、清洲会議をへて羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、1583年5月、賤ヶ岳の戦いとなった。
この時、加藤嘉明福島正則加藤清正脇坂安治、糟屋武則、平野長泰らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられ、摂津国内に3000石を与えらた。

1584年6月、小牧・長久手の戦いでは、馬廻衆として150を率いて羽柴秀吉の本陣を守っている。

行政官として能力を発揮していたことから、その後、馬廻衆として後方支援が主となり、日本各地の太閤検地や街道整備など従事した。

九州征伐では軍船の調達を行い、1590年の小田原攻めでは、脇坂安治、片桐直盛、榊原康政と共に小田原城の接収の使節となり、早川長政と共に鎌倉・鶴岡八幡宮を修復手配したり、所領安堵及び検地を行った。
その後、伊達政宗などへの奥州仕置では浅野長政らと出羽・秋田にて検地を行った他、秋田・浅利紛争では仲裁と調査に関わり、長束正家に報告している。

朝鮮出兵においては、釜山に渡り、名護屋城から諸将への連絡役となり、1595年には播磨国内などに5800石加増されて、摂津・茨木城主10000石となった。

1598年には大坂城番となり、小出秀政らと共に豊臣秀頼の傅役5名に選出されが、豊臣秀吉が亡くなると、片桐且元はすぐに徳川家康に接近し1599年1月には、大阪に屋敷が無かった徳川家康を自邸に泊めている。

石田三成関ヶ原の戦いでは、弟・片桐貞隆を従えて小出秀政や石川頼明と共に西軍に味方したが、徳川家康に勝利に終わると、すぐに戦勝祝いの為に徳川本陣を訪れて、長女・采女を人質に提出。
そして、大阪城へ向かう徳川家康を警護・案内し、豊臣家と徳川家の調整に奔走した功により、徳川家康から播磨と伊勢の所領6000石と引替で、大和・竜田に2万4千石を与えられ、茨木城は弟・片桐貞隆の領地となった。

その後、大阪城では片桐且元が万事仕切るようになるが、徳川家臣・大久保長安の検地などにも協力し、豊臣家が直轄していた鉱山や商業都市の明け渡しにも応じた。
また、片桐且元は駿府城江戸城へと通い、徳川家康や徳川秀忠に機嫌伺いの挨拶も行っている。

1604年の豊臣秀吉7回忌と、1610年の13回忌でも総奉行を務め、1609年、後陽成天皇の寵姫と公家の醜聞事件「猪熊事件」では、京都所司代・板倉勝重に協力し、徳川家と朝廷との仲介も果たした。
なお、片桐且元は弱体化した豊臣家を、徳川幕府のもとで、なんとか存続させるために、恨みを買わないよう協力姿勢を示し、奔走していたとも考えられる。

1611年、徳川家康と豊臣秀頼との二条城会見にも片桐且元は随行。
しかし、70代に入り、自分の死後を考えるようになった徳川家康は、大阪城攻めを計画するようになる。

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方広寺鐘銘事件

14年の歳月を掛け、朝廷や畿内寺社も巻き込んだ豊臣家の一大復興事業である「方広寺大仏殿」がほぼ完成すると、徳川家康は堂法要の日取りを8月18日にするよう片桐勝元に指示。
8月18日は豊臣秀吉の命日であり、今回は17回忌の大祭でもあり、徳川家康の悪知恵とも言えるが、それまで徳川幕府の姿勢に恭順していた片桐且元は逐一決定事項をこまめに幕府にも報告しており、堂法要も8月3日にまとめると打診した。
そんな中、7月末に京都所司代・板倉勝重から徳川家康へ報告され、鐘銘、棟札、法要の座席などに疑惑があるとして「方広寺鐘銘事件」となる。

大仏殿上棟・供養の延期を命じた徳川家康は、林羅山などを派遣し、疑惑の鐘銘文を解読させた。

その結果、鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘が「家康の名を引き裂き、豊臣家を讃えるもの」だとされ、8月13日夜、片桐且元と、鐘の銘を考えた文英清韓(東福寺の高僧)などが駿府城へ向かった。
事態を重く見た淀殿は、大蔵卿局(大野治長の母)と、正栄尼(渡辺糺の母)も使者として派遣している。

従来の定説では、徳川側のいいがかりだとされているが、最近の研究では清韓が祝辞を込めて、家康の名を用いたと以心崇伝らに弁明したとされている。
しかし、諱を無断で碑銘に使ったとすれば、それはそれで失礼な話であり、大阪の陣へのキッカケとなってしまった。

8月19日に駿府に入った片桐且元は徳川家康との会見を許されないまま時だけが過ぎたが、8月29日に入った大蔵卿局はすぐに面会を許され、鐘銘のことなど話題にせず、丁寧に扱い送り返した。
その反面、片桐且元には、下記の3箇条を要求。

・豊臣秀頼を江戸に住まわせること
・淀殿を人質として江戸に住まわせること
・豊臣家の所領転封に同意すること

当然、自分一人では判断できない大事である為、片桐且元は一旦大坂城へ持ち帰った。

先に帰阪していた大蔵卿局から、徳川家康の機嫌は良好だと聞かされていた大阪城では、この片桐且元が持ち帰った条件に当然のように難色を示した。

それでも、片桐且元は豊臣家存続のために、条件を受け入れて徳川幕府に服従するよう説得したが、大野治長を初め大野治房、渡辺糺らの賛同は得られず孤立し、逆に徳川家への内通を疑われるようになる。
この大阪の内部分裂を徳川家は狙っていたともされており、まさに巧みな罠にはまったと言えよう。

しかも、大野治長と木村重成が暗殺を計画していると、織田信雄から聞かされた片桐且元は、弟・片桐貞隆と共に屋敷の守りを固める。
そして、大坂城から退去することを決め、最後には豊臣秀頼より「不忠者」とされて改易となった中、10月1日、鉄砲まで配備した300程の軍勢に守らせて、片桐且元は弟・片桐貞隆、石川貞政らと共に大阪城から退去し、茨木城へと逃れた。
なお、大野治長と織田有楽斎から人質を取って、安全を保障させていたと言う。

こうして、豊臣家は片桐且元と言う大きな支え舟を失ったのである。

大阪の冬の陣に際しては、片桐且元は人質を徳川家康に出して、先鋒を命じられると大砲などで大阪城を砲撃し、全面的に徳川家に協力したとされる。

1615年1月には病気を理由に隠居を願い出たが許されず、大阪夏の陣では初陣の嫡男・片桐孝利と共に徳川秀忠軍に従軍。

真田信繁(真田幸村)、長宗我部盛親後藤又兵衛毛利勝永明石全登らの奮戦むなしく、大坂城落城の際、大野治長の配下の者が、豊臣秀頼と淀殿が山里丸にいるので助けてほしいと、片桐且元に知らせて来たため、徳川秀忠に居場所を報告し助命を願い出たが叶わず、豊臣家は滅亡した。

前年より肺を患っていた片桐且元は、大阪の陣から約20日後の、1615年5月28日に京にて死去した。享年59歳。
公式では病死となっているが、豊臣家の滅亡を嘆いて、殉死したとの逸話もある。
自刃にしろ病死にしろ、片桐且元の心は死の瞬間まで豊臣家にあったのではないだろうか?

家督を継いだ片桐孝利は、40000石となり、高野山の造営奉行など、父譲りで奉行職を良く務めた。
ちなみに、弟・片桐貞隆は大阪の陣のあと、大和国小泉に1万6千石を知行されている。

片桐且元の誕生地

片桐且元の父は浅井家の家臣であり、小谷城の麓に屋敷をがあったことかせ、片桐且元も小谷城近くのその屋敷で生まれたとされ「片桐且元出生地碑」がある。

この辺りは「須賀谷」「須賀谷館跡」と呼ばれ、浅井家臣の屋敷がいくつもあった場所であり、片桐且元の父・片桐孫右衛門も屋敷を与えられていたとされている。

上記は片桐直貞(片桐孫右衛門直貞)の墓。

近くにある須賀谷温泉は、お市の方・浅井長政なども入浴した古くからある温泉で、現在も一軒宿があり、日帰り入浴も可能。
片桐且元の誕生地の場所は、下記地図のポイント地点となる。

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